アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

国家革命と自己革命

自己実現の一歩】
心の中に主流として存在しているものを排除する。それはまさに革命である。
しかしとにかく革命をして心の底にある自分の実際の感じ方を復権させることである。

自分を受け入れることが自己実現への道。
加藤諦三先生)

 
自己革命は一度ならず、一生を通じて何度も繰り返す必要がある。一度の革命は、フランス革命の場合は恐怖政治となって多数の無実の人々が死刑となり社会が混乱した。そこで革命以後のフランスは王政復古したり民主制に戻ったり、変革を繰り返すことになる。

プラトンは『国家』で「国家のあり方はその国民のあり方を反映している」と述べているが、国家の構造と個人の精神構造は入れ子状の相同形態を成している。だから「何の問題もない完全な国家」が実現できないのと同様「何の問題もない完全な個人」の実現もまた不可能なのだと言える。

理想の国家、完全な社会の実現は実際的には非常に困難であり、フランス革命にしろ、マルクス主義にしろ、民主主義にしろ様々な「理想論」を語るが、その理想はことごとく実現せず、予想が外れる。

それは個人に対しても同様で、私の経験で言えば岡本太郎加藤諦三もそれぞれの「理想」を語るが、それはあくまで「理想」であり、自己革命の一段階を推進する役目は果たし得るが、それで全ての問題が解決すると思ったら大間違いである。つまりそれぞれ「理想」は通過点であり卒業しなければならない。

ラカン『精神病(上)』のこれは本質を突いている。人間精神のメカニズムは多数の要素が複雑に絡み合い混乱している。だから「正常」と言うものを単純に設定できないし「この問題さえ解決すれば正常になれる」と言う解決策も、他の諸問題点から目を逸らした偽りの解決策に過ぎない。

逆に言えば、他のあらゆる問題から目を逸らせば、あらゆる問題は解決できる。多くの人々は忙しく、単純な解決を求めている。単純な解決を求めている人に対し、精神分析を勧めることは出来ない。

 

精神分析の治療とは、最終的には自分自身が精神分析家になる他はない。精神分析とは「正常な医者が異常な患者を治療すること」ではなく、フロイトが見本を示した通りまず自分自身を分析するところから精神分析は始まるのである。

 

だから精神分析の治療とは、精神分析の手法そのものを学ぶことであり、それはフロイトラカンの著作を読みながら、自分自身に対して精神分析を行う「実践」によって、徐々に習得されて行くものなのである。

 

皆それぞれが単純な問題に躓いている。なぜなら人は他人の欠点的するのは簡単だが、自分の欠点を認め、さらにこれを改善することほど難しいものはないからである。つまりあらゆる他人は単純な問題に躓き、自分だけが常に大きな問題に押し潰されている。

 

「他人事」に向ける視線を180度回転し自分自身に向けること。そうすればあらゆる問題は単純化され矮小化される。なぜなら人は自分の問題に向き合うと、何もかもが拡大されハードルが上がって見えてしまうのである。

聖書は読むたびに過激だと思うのだが、人間関係を家族に限定してしまうと問題が起きるのでありガス抜きが必要だとイエスは述べている。同時に人間関係を「自分」に限定するのも良くないと述べているところが良くある「心理学書」との違いだとも言える。

家族関係で苦しめられている人は、その事実を対象化し、家族と敵対して「自分」を取り戻す必要がある。しかしその段階に止まって「自分」に固執すると、それによって新たな問題が生じる。そうなると自分は「自分」と敵対しなければならない。その時人は、何を取り戻さねばならないのか?

 

エスの言葉に従えば、家族と敵対して自分自身を取り戻した者は自分自身が「神」になる。デカルト以来の近代的個人主義オルテガが指摘する大衆の時代はそのような「神としての自分」を大量に生み出した。

 

家族からの呪縛を解き放ち「神としての自分」を取り戻した人は何を失ったのか?と言えば「前提」を失っている。つまり自分の前提に親が存在するのにこれを否定してしまっている。だからそのような人は「親をさらに遡る前提」を取り戻さなければならない。