アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

写実と愚直

ネルソン・グッドマン『芸術の言語』という本を読んでいるが、これによると写実絵画は実物の再現ではない。と言うことは、写真も実物の再現ではない、と言うことになる。少なくともアフォーダンス理論によれば、写真は人間の視覚の再現ではなく、写真と人間の視覚は「全く似ていない」とされる。

絵画は、と言うことは写真も、実物の再現ではなく、実物を支持する記号である。手塚治虫は漫画とは記号でありむしろ言語に近い、と言うように述べたが、実はその事は絵画にも写真にも当てはまる。

これは私自身も囚われていたのだが、大衆は、そして殊に日本人は「写実絵画」に特別の地位を与え過ぎている。彦坂尚嘉先生の指摘では、日本には江戸末期に写実絵画と写真とが同時に入ってきて、人々はそのリアリティに驚嘆し、そのショックが現代の我々にも無自覚的に受け継がれている。

人間が写真のような写実絵画を描く能力に、大衆は神秘的な力を感じて驚嘆する。しかし冷静に考えるならば、その能力には何ら神秘性はなく、あるのはある種の「愚直さ」に過ぎない。すなわち「写真のように描く」とは、写真が撮影されるのと同じことを、手描きによって愚直に行う行為に過ぎない。

それではレオナルドダヴィンチの絵が「愚直な写実絵画」なのかと言えば、そうではないだろう。それはさまざまに高度な「記号」の連鎖として成り立っているはずだからである。ダヴィンチはその手記に、絵画を描く場合に平面なのに「立体」を描かなければならないし、「空間」を描かなければならないし「絵の具」と言う同一の物質を使って、人の皮膚や髪の毛、衣服の素材や背景の山や雲など、さまざまに異なる物質を描き分けなければならない、と言うように記している。

つまり絵画とは「記号」であり、「記号」を「記号」として意識してコントロールしなければ優れた絵画にはならない。

しかし絵画を「光学現象」に還元してしまうと、すなわち写真にできることを手描きに置き換えるような愚直作業として絵を描くならば、写実絵画として甚だ不十分なものになってしまう。

私自身の経験で言えば、大学時代に写実絵画が非常に得意な後輩がいたのだが、彼の描く鳥の絵がどうも不自然で気持ちが悪いのである。どうやって描いたのか聞いてみると、雑誌の写真を見ながらそれを写しているけれど、鳥についての解剖学的知識がほぼ無いままに描いていたのである。

「鳥についての解剖学的知識」とは、それ自体が一つの「記号体系」なのであり、それを読み取ってこそ「絵画」に反映できるのであり、だからレオナルドダヴィンチは自らが解剖学に精通することにより、それまでの不十分な写実絵画を越えようとしたのである。

と言うわけで写真の場合も、それを「光学現象」に還元して捉えただけでは、シャッターを押しても何も写らない事になる。つまり写真が何らかの「記号」として機能しなければ、その写真は見る人に何の意味ももたらさず、そこには「何も写っていない」と言うことになってしまう。

ここまで考えると、この事は肉眼でものを見る場合にも当てはまる。すなわち「見る」ことを光学現象に還元するならば、人間は目を開いている限り全てのものを見ていると言うことになるのだが、実際には「見ていても見えていない」ことが多々ある。

すなわち自分の眼に映るものを「記号化」して見なければ、何かを見たと言う認識は成立しない。例えば私は昆虫についての知識が一般の人よりも豊富で、だから他の人には見えない昆虫の存在を「見る」ことができるのである。