アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

子供はなぜ勉強しなければならないのか・2

なぜ勉強しなければならないのか?「なぜ○○なのか?」「○○とは何か?」と言う問いの答えを見つけるには「歴史」を遡って考えるのが一つの方法です。それで個人の歴史を遡ると、どれだけ勉強が苦手な子供でも、日本語が喋れる限り「日本語を習得した」というものすごい勉強を既に成し遂げている。

 

何も知らない赤ん坊の状態から、日本語を丸ごと学んで喋れるようになると言うことは大変な勉強で、それを成し遂げたことは誰もが誇りに思って良いことだと思います。しかしそんなに大変な日本語習得の勉強をして、それ以上子供はなぜ勉強しなければならないのでしょうか?

一つには「理由なんか考えないで勉強する」という態度で、これは実に有効です。そもそも人間の赤ん坊は、勉強する理由なんか考えずにともかく「言葉」を覚えようとするのです。なぜ赤ん坊は言葉を覚えなければならないのか?その問いは、人間が言葉を覚えなければ発することができないものです。

人間は「言葉」という道具を使ってはじめて「考える」ということができるようになります。そのために赤ん坊は必死になって言葉を覚えようとします。しかし言葉を知らない赤ん坊は「考える」ということができませんから、理由もなくともかく言葉を覚えようとします。

この考えは言葉以外の、それ以降の勉強方法にも当てはまります。言葉を覚えたての子供は、知識が不足して考える力も不足してますから、大人から「勉強しなさい」と言われて「なぜ?」という疑問を持ったとしても、そう簡単に答えを得ることはできません。その答えは勉強をしなければ得られないのです。

 

ですから子供が「理由もわからないまま勉強する」と言うのは実に大切なことなのです。さらに加えれば「内容を理解しないまま勉強する」と言うことも、勉強法の全てではないですが大切な勉強法の一つです。なぜなら赤ん坊は「言葉のは何か?」「日本語とは何か?」を理解しないまま言葉を覚えるからです.

 

小学生になると国語の授業で「名詞」「動詞」「形容詞」の違いを教わったり、動詞の「か行五段活用」などを教わったりしますが、逆に言えば皆さんはそう言ったことを理解しないまま、赤ん坊から幼児の頃にかけて日本語を勉強して喋れるようになっているのです。

 

ちょっと難しい話になりますが、「言葉とは何かを理解する」ことと「言葉が使えるようになる」ことは、ちょっと違います。いや、言葉を理解したからこそ言葉が喋れるようになるのですが、言葉とは一方では思考のための道具です。

 

ですから一旦言葉を喋れるようになってから、つまりその意味で言葉を「理解」した後で、からあらためて「言葉のは何か?」について考えて理解する、そうした「二重の理解」の仕方をするのです。

 

ともかく「内容を理解しないまま勉強する」ことの大切さは、実は僕は谷崎潤一郎という小説家が書いた『文章読本』という本で知ったのです。谷崎潤一郎によると昔の子供は、今のような子供向けの教科書ではなく、授業という中国から伝わった学問の、難しい漢文を「素読」していたのだそうです。

 

素読とは「内容を理解しないままただ読んで暗記する」という意味です。そんな勉強をして何の意味があるの?と思うかもしれませんが、谷崎潤一郎によると、そうやって子供の頃に覚えた漢文の一節が、後になってふと理解できることがたびたびあって、自分の人生に大変に役立つのだそうです。

 

そう言えば雑誌『子供の科学』は自分が連載していることもあって毎月読んでますが、例えば今月は「ホーキング博士宇宙論」特集ですが、文章にルビは振ってあるものの内容は子供向けに噛み砕かれてはおらず、かなり専門的で難しいものでした。

 

こんなの子供に理解できるのか?(そもそもぼく自身も理解できない)と思うのですが、谷崎潤一郎が示した勉強法によると、これはこれで正しいのです。難しいことは難しいままに理解しないまま読んで、「分かる」というのはそのずっと後でも構わないのです。

 

ぼくは以前、難しい哲学の内容を優しく噛み砕いた入門書を何冊か読んでみたのですが、難しい内容を無理にわかりやすく噛み砕いて説明すると、結局は元の哲学の内容とは違ったものになってしまうのです。

 

ですから哲学にしろ科学にしろ、難しいことは難しいままに、理解しないままただ読んで暗記する、というのは実に大切な勉強法なのです。しかしぼくは、谷崎潤一郎の『文章読本』を読むまではこの勉強法について知らなかったのです。

 

だからぼくは子供の頃「なぜ勉強しなければならないのか?」という問いに引っかかって、あまり勉強する気になれないままでいたのです。それで大人になってあらためて「科学」や「哲学」に興味を持って色々と本を読むようになるのですが、自分が「分かる」ことを優先し噛み砕いて書かれた入門書ばかり読んでいたのです。

ところが谷崎潤一郎の『文章読本』を読んで「なるほど」」と思ってからは、難しい哲学書の原著を読むようになり、中国の儒教の経典『大学』『中庸』『論語』なども読むようになったのです。

 

儒教は紀元前何百年の昔から中国に伝わる教えで、その経典は印刷技術が無い以前から、様々な人によって木の板や紙に書き写されながら、代々伝えられてきました。その内容は宗教、道徳、哲学、政治学などを含む総合的な学問で、現代の我々にも役立つ普遍性を持っています。

 

ぼくはそのような儒教の経典を大人になってから読んで、その内容を徐々に理解するようになりましたが、江戸時代の日本の寺子屋では子供の頃からそれを読んでいたのです。つまり、もう一つ言えば、何を勉強するか?の内容は実に「何でもいい」のです。

 

谷崎潤一郎の『文章読本』は、小説家である谷崎潤一郎が、一般の人に文章の書き方を教える内容の本ですが、最後に示されるのは「文章には決まった書き方はなく、どうだっていい」と言うことなのです。

小説やエッセイには人によって作品によって様々なスタイルがあり、自分が読者に伝えたいことが書ければ、スタイルの違いなんてどうでもいい、と言うことなのです。この教えを広げて考えれば、「勉強する内容は何でもいい」と言うことになります。

例えばぼくの友達の一人は幼稚園の頃にもう文字を覚えてしまって、家にあったドフトエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』と言う難しい長編小説を、意味もわからないまま全部読んでしまったと言うのです。その「勉強」が何の役に立ったのか?本人に聞くと「分からない」と言いますが、彼は地元で一番の高校を出て、今は地元で学習塾を経営して、たくさんの子供たちを進学校や有名大学に送り出しています。あるいはフランスの人類学者クロード・レヴィ=ストロースは「どのようなデタラメな分類も、何も分類しないよりも上等である」と書いています。

 

何かを分類することは、つまりは何かを調べて勉強するということです。そしてその勉強の内容がたとえ間違っていたとしても、何も勉強しないよりは意味があるのです。なぜなら勉強の内容が間違っていた場合、それが分かった時点で「修正」すれば良いのです。

 

ところが何も勉強していなければ、何の修正もしようがないのです。これは幼児が言葉を学んで行く過程を考えればわかります。幼児が何か間違った言葉を覚えてしまった場合、その「間違った言葉」を取っ掛かりにして、正しい言葉を覚えることができます。

 

これに対し言葉を知らない動物は、言葉を覚えるための「取っ掛かり」すら覚えられないため、決して言葉を知ることはできません。そもそも人間の長い歴史を振り返れば、人間たちは様々に「間違った知識」を採用しては過ちを繰り返してきたのです。

 

しかし、そのように様々な「間違った知識」を取っ掛かりにして、「正しい知識」を積み重ねてきたのも人類の歴史です。もしそのような「間違った知識」がなければ、つまり間違っていようが何の知識もないのであれば、そもそも知識の発展のしようがないのです。

 

しかし何でもそうですが、「答えは一つ」ではありません。ですから今述べた勉強法も、ただ一つの正しい答えではありません。そもそも「なぜ勉強しなければならないのか?」について考え始めたはずなのに、「理解を考えるに勉強することが大切です」では答えになってませんね…