アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

芸術とゲーム

ゲームには、ゲームの内部と外部が存在する。人はなぜゲームを設定するか?と言えば、人はゲームの内部で「最強」になれるからである。あるいはゲームの内部において誰が「最強」なのかを決定することができる。

ゲームには、「新しいゲームを作る」というメタゲームが存在する。そして私の「フォトモ」とはそのようなメタゲームに則っているのだが、メタゲームもまたゲームの一種には違いないのである。

結局のところ私は「ゲーム」で勝ち抜くことをあきらめて、それで「新しいゲームを作り出す」というメタゲームというゲームをプレイすることにして、その結果に「フォトモ」が生じたのであった。

そして私の「反-反写真」と言うのは、自分自身があらためて「モノクロスナップ写真」という既存の「ゲーム」に参加するという表明だったのである。とするならば、「ゲーム」のルールに則った上で何らかの「方法」「手段」を考えて「最強」を目指さな毛ばならないことになる。

しかし考えてみれば、あらゆるゲームは階層状のメタ構造の中に配置されている。例えば「モノクロスナップ写真」のゲームの上位には「写真」のゲームが、さらにその上の階層に「芸術」というゲームの階層がある。

だから「モノクロスナップ写真」というゲームのゴールは、結局のところ「芸術」のゲームに則り「芸術」を成立させることにある。しかし私の見たところでは「モノクロスナップ写真」というローカルなゲームを絶対視し、その最上位のゲームである「芸術」がすっかり見失われることがままある。

「芸術」というゲームは、どんな手段であれ最終的に「芸術」が成立すれば良いというルールに則ってプレイされる。つまりその手段は「モノクロスナップ写真」であっても、あるいは「新しいゲームの創出」であっても構わない事になる。

 

つまり「芸術」というゲームは、それ単独では成り立たないのではないか?「芸術」という抽象的なゲームは成り立たず、「モノクロスナップ写真」とか「フォトモ」とか「油絵」とか「音楽」とか「詩」などと具体性を伴わなければならない。つまりゲームは常に二重化、あるいは多重化している。

「芸術」というゲームを成立させるには、「モノクロスナップ写真」であるとか「フォトモ」であるとか「油」とか「音楽」とか「詩」など、何らかのもう一つのゲームのルールに縛られなければならない。

そのようなわけで、「モノクロスナップ写真」というゲームのルールにガチガチに縛られることによって、「芸術」というゲームをプレイする方法があり、それに私は「反-反写真」という婉曲的な名称を与えたのだった。

 

そこまで考えて、ではいかにして「モノクロスナップ写真」というゲームで勝ち抜いて「芸術」を成立させるのか?その具体的な方法論が問題となる。