アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

ハンムラビ法典と伊東乾批判

アエラの記事ですが読んでる途中、2ページ目に下記の記述があって「あれっ⁈」と思ったのですが、

「残された時間を精一杯生きる」と、落ち着いた表情で語る豊田君と、私はブロックチェーンや暗号の数理を考え、エジプト式分数を一緒に計算し、古代ハンムラビ法典の野蛮と中世イスラム法の寛容の差を議論した。

私も実は『ハンムラビ法典』原典約を読んでいるのですが、それは決して「野蛮」と言えるものではないし、そもそも「野蛮」ではあり得ないのです。

なぜなら「野蛮」とは、人間が「文明」を築く以前の段階を指しており、ハンムラビ法典が記された古代バビロニアは、れっきとした「文明」であるからです。

そもそも人類史700万年、現生人類(ホモ・サピエンス)20万年と言われてますが、その大半を人類は数十人から百数十人規模の小集団に分かれて「野蛮」な生活を送っていたのです。

ところが、約一万年前にメソポタミアの地に「文明」が発生します。

文明とは、それまで小集団に分かれて暮らしていた人々を統合し、みんなで力を合わせて農業を営んだり、城壁を築いてその中に都市を作ったり、そのようにして自然の脅威から身を守りながら、安定して食物を分配するシステムなのです。

そして、その文明としてのシステムを実現するために、それまで小集団ごとにバラバラだった「言語」を統一したり、バラバラだった「宗教」を統一したのです。

また、文明としての集団生活で何が「悪」なのか?を考え、盗みや殺人などを「罪」と定め、それに対する「罰」を決め、そのようにして「法」が整備されていったのです。

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ハンムラビ法典の内容を具体的に見ると、例えば

§1もし人が(他の)人を起訴し,彼を殺人(の罪)で告発したが,彼(の罪)を立証しなかったなら,彼を起訴した者は殺されなければならない。

まず殺人の罪よりも先に、殺人の「偽証」についての罪が定められているのです。

現在の感覚でこれで「死刑」は厳しすぎると言えますが、この時代は他人を陥れようとする「偽証」が横行していたことが窺い知れるのであり、そうした野蛮な行為を「罪」と定めて罰すること自体が「公正」で「文明的」と言えるのです。

次ですが、

§22もし人が強盗を働き,捕えられたなら,その人は殺されなければならない。

強盗で死刑とはずいぶん厳しくて、これを持って不寛容で野蛮だと判断する気持ちはわかりますが、しかし次をご覧下さい。

§23もし強盗が捕えられなかったなら,強盗にあった人は,無くなった物をすべて神前で明らかにしなければならない。そして,強盗が行われたその地あるいは領域の(行政権を有する)市とその市長は,彼の無くなった物は何であれ彼に償わなければならない。

なんと、強盗被害に対する社会保障が定められているのです。

また、ハンムラビ法典の最後には次の一節が記されています。

§強者が弱者を損うことがないために,身寄りのない女児や寡婦に義を回復するために,アヌムとエンリルがその頂を高くした都市パロンで,その土台が天地のごとく揺ぐことのない神殿エサギラで、(民)の(ための)判決を与え,国(民)の(ための)決定を下すために,虐げられた者に正義を回復するために,私は私の貴重な言葉を私の碑に書き記し, (それらの言葉を)正しい王である私のレリーフの下に置いた。

これは全く、社会的弱者を救済するための法であって、そのような「善意」が根底にあるからこそ大勢の人々が信頼しあって「文明」を形成できるのであり、これを「野蛮だ」と言うことは出来ないのです。

バビロンのハンムラビ王(前1792-1750年)の時代に記されたハンムラビ法典ですが、これが世界初の法典と言うわけではなく、それ以前にあった法典の精神を受け継ぎ改良したもので、その伝統は記事にもあった中世イスラム法(これは私は読んでませんが)などを経て、現在の日本の法にまで通じているのです。

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さて、この記事を読んで「あれっ?」と思って、末尾の記者名を見ると“(作曲家・指揮者 伊東乾)”とあって、「あぁっ!」と思ってしまったのです。

なぜならこの伊東乾という人は、先ごろ「大学の先生宛てのメールに“様”を付けるのはケシカラン!」とツイートして炎上した、東京大学准教授だったからです。

そしてウィキペディアで確認すると、死刑になった元オウムの豊田亨と、伊東乾准教授は東大時代の同級生で、それで豊田死刑囚と面会を重ねて記事を書いていたのです。

その行為自体は立派で社会的に意味のあるものだと思いますが、しかし前述したように「ハンムラビ法典の野蛮」という解釈は全くの間違いで、これは重箱の隅をつつくような指摘ではなく、物事を考える上での「基本」がなっていないことを示すものなのです。

つまりオウムの豊田亨にしろ、伊東乾准教授にしろ、東大出で学歴は立派であるはずが、「文明とは何か?」を考える上での基本文献であるところの「ハンムラビ法典」もロクに読むことが出来ないのです。

それは「ハンムラビ法典殺人罪の適用が多く、時代的にも古く、だから野蛮だ」という通俗的な解釈をなぞっているだけであり、「自分の頭」で読んでいないのです。

私が読んだ「ハンムラビ法典」原典訳は、仮名遣いも新しくて読みやすく、内容も特に難解ではなく、素直に「自分の頭」で読めば、それが決して野蛮ではなく、現代にまで通じる社会保障を含めた「法」の基本を成していることが分かるはずなのです。

東大を出たこの二人が、なぜそのような簡単なことを読み誤るのか?

と言えば、この際あえて乱暴にハッキリ言ってしまえば、「東大卒=頭が良い」という価値判断自体が、単なる思い込みに過ぎず、もっと言えば「洗脳」の一種であるのです。

私はこの「洗脳」を時間をかけて徐々に解いてきているのですが、その方法の一つとして、例えば「ハンムラビ法典」を実際に読んで、「目には目を、歯には歯を」などという通俗的な評価に惑わされず「自分の頭」で読んでみる、と言うことをしているのです。