アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

仏教とメディアリテラシー

仏教、と言ってもいろいろあるのですが、私が最近読み返してるのが『ブッダのことば』で、これは現存する最古の仏典で、キリストが生まれる300年も前に書かれたものです。

仏典とは何か?と言えば、仏教の開祖であるゴーダマ・ブッダは自分で本は書かないで、その教えの言葉が弟子たちの口によって伝えられ、そしてある時から文字に書き留められるようになったのです。

そのように書き留められた「ブッダのことば」は、時代を経るごとにさまざまな解釈が書き加えられ、さらにオリジナルから離れた独自の思想として発展して行きます。

日本には、6世紀半ばに中国経由で漢訳された仏教がもたらされますが、それはオリジナルから離れた「大乗仏教」であったのです。

そして近代になってようやく、パーリ語で書かれた『ブッダのことば(スッタ・ニパータ)』が日本にももたらされて、前後に中村元さんによって日本訳が岩波文庫で出版され、誰でも読めるようになったのです。

その『ブッダのことば』を今日ちょっと読んでいたら、まったくもって現在のネット時代のメディアリテラシーに当てはまる言葉があったので、ご紹介しようと思った次第です。

今から約2300年前に書かれた言葉が、まったく違和感なく現代に通じると言うのは不思議なことですが、それだけ人間は変わっていないと言うことなのかもしれません。

*****

ブッダのことば』(中村元訳)より
第四 八つの詩句の章
五、最上についての八つの詩句

世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。

かれ(=世間の思想家)は、見たこと·学んだこと·戒律や道徳·思索したことについて、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執著して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。

ひとが何か或るものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と<真理に達した人々>は語る。それ故に修行者は、見たこと,学んだこと·思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。

智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、 人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

かれは、すでに得た(見解)(先入見〕を捨て去って執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異った見解に)分れているが、かれは実に党派に従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。