アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

仏教とファンクラブ

実は昨日、仕事で数年ぶりに浅草の浅草寺に行ったのですが、いま読み返してる最古の仏典『ブッダのことば』と比較して、世界観があまりに違いすぎて「これは何なんだろう?」と考え込んでしまったのでした。

ともかく、浅草寺は日本人はもちろん外国人観光客でごった返して、あたかも世界中から浅草寺に向かって人が押し寄せてくるかのようです。

浅草寺の建物は大きくて立派で、参拝する人は皆うれしそうにしています。

一方、『ブッダのことば』は、ブッダの入滅(紀元前383年 : 中村元説)の後にしばらく口伝によって伝えられたそのことばを、のちの時代に書き留められ編纂されたもので、これより前に遡る仏典は存在しないとされています。

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この『ブッダのことば』によると、ブッダはシャカ族の王子として生まれたにもかかわらず、出家をして家を持たない生活をします。

ブッダは家を捨て、家族も捨て、財産も捨て、贅沢な楽しみの全てを捨て、人間に備わる「自然な欲望」にことごとく逆らいながら「さとり」の境地に達するのです。

そのようにブッダの教えは大変に厳しい個人修行であり、その通りに実践するのは非常に困難で、とても一般の人に勧められるものではありません。

そこで、初期仏教を個人しか救済できない「小乗仏教」として批判するかたちで、一般民衆を含む多くの人々を救済する「大乗仏教」が出現し、発展していったのです。

そして、6世紀に中国から朝鮮経由で日本にもたらされたのは「大乗仏教」で「小乗仏教」は伝えられておらず、だから浅草寺も当然のことながら大乗仏教のお寺なのです。

このように立派な浅草寺にあらためて驚いてしまうのですが、なぜなら『ブッダのことば』でブッダは出家して家に住むこと自体を否定してますから、当然ながら「立派なお寺」の存在も認められるはずがないのです。

また、ブッダは日本のお坊さんと同様頭を剃っていますが、りっぱな袈裟などは身に付けず、最低限の粗末な衣服で済ましています。

さらに仏像や仏画などを拝むこともなく、そもそもブッダは色や形あるものに対する「目の楽しみ」そのものを否定し、抑制せよと説いているのです。

これに対して浅草寺をはじめとする日本のお寺は、建物大きく立派で、お坊さんはきらびやかで立派な身なりをし、仏像や仏画が礼拝物として納められています。

そして浅草寺を訪れる大勢の礼拝者もそのほとんどが、仏教の厳しい修行をしているとはとても思えないような一般の人たちなのです。

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そのように見ると初期仏教と日本の仏教は全くの別物で、なぜそんな違いがあるのか?についてあらためて悩んでしまったのです。

そこでふと閃いたのですが、これは「野球選手とファンの関係」のようなものではないか?ということに思い当たったのです。

野球選手を熱心に応援するファンは、その人自身が野球選手であるわけではありません。

厳しい訓練をして野球の技を磨くのは野球選手自身ですが、それを応援するファンはあくまで普通の人たちで、そのような厳しい訓練をして特殊技能を身につけたりはしないのです。

しかし、自分にできないことができる野球選手を応援することで、自分自信も元気になって、自分なりの仕事を頑張ったりできるようになるのです。

つまり初期仏教『ブッダのことば』とは、野球で言えば「野球選手のなり方」の本であり、これに対して後に成立した大乗仏教は「野球選手のファンクラブ」よようなものではないか?ということに気づいたのです。

日本の浅草寺をはじめとする大乗仏教は「ブッダのファンクラブ」だと解釈すると、あらゆる事柄の辻褄が合います。

ブッダのファンクラブだからファン自身は修行しなくていいし、ファンクラブだから建物は大きく立派で、内装はきらびやかにしたほうが、よりたくさんのファンが集まって、みんなでブッダを応援することができるのです。

そして自分にはとてもなし得ない行いをしたブッダを応援することで、自分自身が元気になり、また幸せになれるのです。

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そして同じことは、キリスト教にも当てはまるのです。

実は『新約聖書』を読むと、キリストが生きていた時代にキリスト教の「教会」は存在しなかったし、またキリスト自身はボロをまとって遍歴しながら人々に教えを述べ、当時のユダヤ教の司祭が立派な衣をまとって威張っているのを批判しているのです。

ところがのちの時代のカソリックは立派な教会を建て、内部を絢爛豪華に装飾し、司祭は立派な身なりをして威張っており、キリストの教えにことごとく背いているかのようです。

しかしこのカソリックも、キリストの「ファンクラブ」だとすれば、実に納得ができるのです。

キリストのように自ら十字架に架けられるような苦しみは、誰もが受けることはできませんが、そのようなキリストのファンとなって、ファンクラブを結成し、みんなで応援することにこそ意味があるのです。

するとオウム真理教とは何だったのか?

それはつまり麻原彰晃とは仏教のいちファンクラブの会長に過ぎなかったのに、自ら教祖を騙ってファンを先導して謀反を起こしたと、そう考えることができるのです。