アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

哲学と商売

良いものを売ろうと思ったら「売るスキル」を身に付けなければならない。つまりそれはどんな粗悪品でも人に「買いたい!」と思わせるスキルである。人は必ずしも「良いもの」が理解できるとは限らず、良いものを欲しがるとは限らない。だから良いものを売るスキルと粗悪品を売るスキルは同一なのである。

 

優れた絵描きがどんなものでも描けるように、優れたセールスマンはどんな商品であっても売ることができる。優れた絵描きに「描けないものはない」ように、優れたセールスマンに「売れないものはない」のである。

 

ものを売るということは、本質的に人を騙して売る、ということである。売買の対象になるのは本質的には「真実」ではなく「虚偽」である。もし売買の対象が「真実」であるならば、一切の広告やセールストークが不要のはずだが、実際にはそうではない。

 

人は金によって「真実」ではなく「虚偽」を買いたがる。それは金そのものが虚偽だから、それで買う商品も虚偽でなければ釣り合いが取れないのである。

 

例えば、骨董屋で買った骨董の壺が「本物」であったとしても、それは本質的には「偽物」なのである。なぜならその本物の壺を買った人は、それによって「偽物の満足」を得ているからだ。何かを買って満足することは、本質的に「自分の死」をごまかす虚偽に他ならない。

 

商売の本質とは、人々の死への恐怖を紛らわせることにある。

 

本質的に「本当に良いもの」と「多くの人が買いたがるもの」は異なっている。だから一つの考えは、本当に良いものを理解できるごく一部の人に、その商品を売ればいい。

 

例えばキリストには十二人の弟子がいて、ソクラテスの臨終に立ち会った弟子もそれくらいの人数だったか、ともかくその数の顧客で商売を成立されることはできる。

 

しかしこの方法の商売にはリスクが伴う。一つは顧客が金持ちで、商品を高く設定しなければ成り立たない。もう一つは人間は本質的には飽きっぽく、いつまでも顧客であり続けるとは限らない。それは自分自身も同じで、いつまでも「本当にいいもの」を供給し続けるコンディションを保てるとは限らない。

 

自分のレベルが劣化するのは自分の問題として、問題は顧客である。自分の劣化は自分が修行することで克服できるが、他人をコントロールすることは本質的にできない。

 

それに何より「本当に良いもの」を理解できる人が金持ちとは限らず、むしろ貧乏人が多いとも言えるのである。なぜなら本当に良いもののその価値は「金とは無縁」だからである。これは哲学的な問題で、本当に良いものとは哲学的価値があり、哲学の価値は金とは無縁なのである。

 

哲学は金を生み出さない。経済哲学というものがあるとしたら、それは哲学的な立場から「哲学でないもの」「哲学に反するもの」を生み出し「哲学への裏切り」としてそれを実行するものとなるはずである。