アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

戦争と幸福

ニーチェが教えてくれるのは、我々が見ている世界はことごとく「逆さま」であるということだが、実際に人間の網膜には重力に対して上下逆さまの像が写っているのであり(それは大判カメラのピントグラスを見ても分かる)それを脳内処理で補正しているのである。

 

 

ニーチェ的に考えれば、平和を願うことは愚かであり、戦争を願うことが幸福となる。なぜなら「悪」とはすなわち「弱さ」であるから。真の強者は平和を望まず、なぜなら強者は平和の中では能力が発揮できずに生きながら死んでしまうからである。

 

 

クリエイティビティを発揮することは争いを生む。だから平和を愛する人々は本能的にクリエイティビティを否定する。そう、それは本当に本能かもしれない。クリエイティビティが発揮されるとは、環境が変化することを意味する。そしてあらゆる生物は基本的には環境変化を好まない。

 

 

平和とは何か?と言えば、理念的には「永遠に変化しないこと」が一つ挙げられる。文明における、とりわけ近代以後における時代の変化とは「永遠に変化しないこと」を目指しての変化なのである。

 

 

とどまるところを知らないさまざまな技術の進歩は、もうそれ以上に進歩の余地がない「永遠に変化しないこと」への終局点を目指している。つまり全ての人が幸福で争いのない世界が実現したならば、その先は永遠に変化する必要がなく、そのような世界を無自覚にしろみな目指しているのである。

 

 

対してクリエイティビティを求める人は「変化そのもの」を求める。そこで「変化しない世界」の実現のために変化を容認する人々との間に軋轢が生じる。

 

 

例えば、写真を含むアートの世界において、人々は常に「固定した評価」を作ろうとしている。例えばアラーキーは素晴らしい、という固定した価値が出来上がったら、それを否定してご破算にすることは望まれない。セクハラ・パワハラ問題が起きてもアラーキーの評価が揺らがないのはそのためである。

 

その反面、人はかつて評価した人間を次々に忘れて行く。例えば池田満寿夫だが、今は世間的にすっかり忘れ去られそのピカソまがいの作品を評価する人もいなくなった。つまり世間的な「固定された評価」とは短期的な「夢」に過ぎない。そもそもそれは「永遠に変わらない平和」という夢の一場面に過ぎない

 

 

真の意味でクリエイティビティを求める人は、本質的に平和を望まず、常に戦いを求めている。だから変化を求めない大多数の人たちにとって、常に攻撃を仕掛ける危険な存在として認識される。

 

ニーチェが言う「有能性」とは何か?自分の経験で言えば、自分の無能さは「有能な隣人」の有能性によって顕在化する。原始時代において有能な人間と無能な人間との比較は存在し得ない。無能な人間は自然淘汰され存在しないからである。有能な人間と無能な人間の比較は、文明時代に特有の問題である。

 

 

そうだ、ニーチェに即して考えれば有能性とはあくまでも「戦いのための有能性」であり、それ以外は意味しない。だからニーチェソクラテス、イエスブッダの非暴力を批判したのである。

 

 

ニーチェ的に「正しい人間」とは常に戦いに身を置いて、戦いの中に生き、平和とは無縁で心が安らぐことはごく稀である。原始時代の人間はそのように生き、現代においても先端的な企業の経営者などはこのような立場に身を置いている。

 

 

平和とは本質的に愚かであり、だからこそ転倒した価値がある。自然の淘汰圧は人間の中から少数の「優れた個体」を選別するが、文明においては多数の「劣った個体」を保存しようとする。劣った個体を道場によって保存すること、そこに転倒した新しい価値が生じるのである。

 

 

ニーチェによると、人間にはまだまだその有能性を引き出す潜在能力を秘めているのだが、その反対的存在であるキリスト教によって阻害されてしまっている。

 

 

キリスト教産業革命を生み、そこから生み出された様々な機械によって人間は新たな能力を手に入れた。しかし便利な機械ができると同時に、人間が本来的に備えた能力はことごとく減退することになってしまった。例えば自動車が普及するにつれ人々の脚力は退化し、録音機によって人々の記憶力は退化した

 

 

機械の力を一切使わなくとも、生身の身体と頭脳を鍛えることで、その潜在能力を無限に引き出せたはずなのである。しかしその可能性の芽を、産業革命は潰してしまったのであり、そこから「間違った歴史」が生じたのである。

 

 

私がスターウォーズの、特に新三部作に惹かれたのは、ニーチェ的な真の強者が、その意味での真の善人が正確に描かれていたからかもしれない。つまり文武両道で並ぶもののない並外れた有能性を持つダース・シディアス卿が、同時に最凶の極悪人として描かれているのである。

 

 

これに対して正義のジェダイの長老であるヨーダ師は無能な善人で、判断をことごとく誤り事態を悪くして行き、終いにはダース・シディアスとの一騎打ちで敗れ去る。この描写はある意味で非常に正鵠を射ている。

 

 

しかし、ルーカスの想像力はそこまでで、映画の中で銀河皇帝は恐怖政治による静的な平和を実現したに過ぎない。ニーチェが予言した強者による世界支配は、そのようなものではない。そこでは何より平和が忌避されて戦いが賞賛され、戦いによって人間の能力は無限に伸長してゆくのである。

 

 

戦いによって伸長するような種類の能力が、キリスト教の世界では封印されてしまっているのであり、そのためのキリスト教なのである。キリスト教の世界内で起きる戦争は、人間の潜在能力を引き出すことに寄与しない。なぜならそれらの戦争は「平和」を目的としてしまっているからである。

 

 

どれほどイデオロギーが異なって対立しようとも、それぞれがそれぞれの仕方で「平和の実現」を目指して戦争をしている。このように平和を目的とした戦争は、ニーチェ的には本来的ではなく、目的を取り違えて本末転倒している。

 

 

強い人間たちがお互いに激しい戦争に明け暮れながら人生を謳歌し、弱い人間たちが片隅で怯えながら暮らすような、そんな世界をニーチェは予言したのであろうか?そして実際の世界は、弱い人間たちが結託して強い人間を、そして強い人間の希望を「悪」とみなして迫害している。

 

 

ニーチェの思想が危険でありながら一方で安全であるのは、およそ反対すぎて実現不可能だから。それは同時に今日の世界において「真の強者」が厳しく虐げられていることを意味する。

 

 

それは例えば、私が子供の頃観た映画で、氷漬けになった恐竜と原始人が発掘され現代に蘇る、という荒唐無稽な内容のものがあったのである。蘇った原始人は主人公の少年と仲良しになるが、やがて大人たちに追い回されて捕らえられ殺されてしまう。現代における「真の強者」とはそのようなものである。

 

 

現代における「真の強者」は自らの有能な能力を伸び伸びと発揮する「原始人」のような存在で、凶暴な野獣と変わらない存在として認知され、たちまちのうちに殺されるか、捕らえられ自由を奪われる。 


ニーチェは同情の害悪を説いている。強者は同情を必要としない。つまり「情けは人の為ならず」の言葉通り、他人に同情して施しを与えると、自分が困った時に別の他人から同情されて施しを受ける場合がある。しかし強者は他人の同情を必要としないのだから、他人に同情しても一方的に存するだけである。