アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

強者と弱者

今読んでいるニーチェがなかなかに分かりにくいのだが、もう一度前提を確認しなければならない。それはニーチェははっきり述べてはいないようだが、ニーチェの言う「強者」と「弱者」の対立は「文明」に固有の問題で、なぜなら弱者は文明成立以前の自然環境では存在し得ない存在なのである。

 

大事なことなので、同じようなことを何度も書かざるを得ないが、文明は必然的にごく少数の強者と、圧倒的多数の弱者とを生じさせる。この不均衡は自然の摂理であり、文明というものの構造上の問題であり、人間の力では解決がつかない。それによって様々な問題が生じ、その一つをニーチェは見出した。

 

ニーチェは「強者にとっての善」と「弱者にとっての善」が異なることを発見したが、大局的に見ればそのどちらが間違っているとは言い切れない。現象学的に見れば、世界はそのように現象しているという認識しかできない。プラグマティズム の立場ではどちらの側に立つのが得か?ということでしかない。

 

「弱者にとっての善」を推し進めると、一つには殺生の禁止、肉食の禁止へと至る。特に牛や豚やイルカなどの高等動物は人間に準ずるような知性と感情を持ち、このような者を殺して食べることは倫理的に許されないという理論である。

 

逆に言えば肉食の肯定は、ある意味で「強者の理論」に通じる。豚肉や牛肉は美味しいし、ただ食べるだけではなくそれらの食材から人間は高度な食文化を築き上げている。それらを味わって楽しむ「権利」を多くの人は手放したくないし、その必要性も感じない。

また、牛や豚や羊や鶏は食べてもいいけど、犬や馬やイルカを殺すのは可哀想だし残酷だという理論も、なんの整合性もなく、恣意的で都合の良い感情論に過ぎない。つまり肉食を肯定する理論は、本質的には「人間本来の能力をのびのびと発揮させるため」の「強者にとっての善」に他ならない。

 

多くの人が、カやゴキブリを躊躇なく殺しなんの罪悪感も持たないのも(私は昆虫写真家でもあるので必ずしもそうではないが)、それが「強者の善」として認められているからである。即ち彼らに同情して存在を容認すると、自らの強者としての権利が阻害されてしまうのだ。

 

われわれ文明内の弱者は、一方で強者として振舞っていることを自覚すると、ニーチェの言う「強者の善」がどう言うものかを知ることができる。つまり文明は圧倒的多数の弱者を生み出すと同時に、その弱者を養うための牛や豚や羊や鶏などの家畜を生み出した。

 

ニーチェがいう「畜群」は、文字通りの家畜によって養われているのであり、そもそも野生植物を栽培種化し、野生動物を家畜化することによって文明が成立し、圧倒的多数の弱者の生存を可能にしたのである。

 

そのようにして文明内の「弱者」は家畜に対し圧倒的な「強者」として振る舞い、それによって文明は成立している。また家畜以外のあらゆる野生動物に対し、あらゆる人間としての弱者は「強者たらん」とし、そのような自然環境の制圧こそが文明の本義なのである。

 

どのような人間も基本的には残酷であり、例えその人が肉食を禁じていても、生きた植物を殺してその固い歯で噛み砕いて食べる、恐ろしい存在である。人間は昆虫をはじめとする多くの動物よりも身体が大きく、また組織的に活動し圧倒的な強さを誇る。人間は地球上の生物の中では間違いなく「強者」である

 

人間は、ことに文明人は、人間であるということだけで「強者」なのであり、その強者としての優れた能力をのびのびと発揮する権利を阻害する要素を、ことごとく排除できる圧倒的「強さ」を持っている。そして、そのような強さを発揮することが「強者の善」として肯定されているのである。

 

「強者としての人間」が、さらにそのうちの「強者」と「弱者」とに分かれているのである。しかし文明内の弱者は、それ故に強者なのである。原始時代の自然環境では生き延びられないはずの弱者が生存可能になること、このことが逆説的に弱者が強者であることを示している。

 

ニーチェの言う弱者は一方では強者でもあり、ニーチェはそれに苛立っている。弱者が強いのは一つには自然の摂理によって圧倒的多数を誇るからだ。もう一つは圧倒的多数の弱者によって文明というシステムが運営されている構造上の理由。そして弱者にさらなる力を与える技術の進歩が自律的であること。

産業革命以後の近代的科学技術は、人間の個々の意思とは無関係に自律的に進歩する。なぜならそれら技術の研究開発は「部分的」に行うことが可能で、だから「総合性」を伴う人間の意思とは無関係に、つまり誰かが望むと望まないとにかかわらず、勝手に進化発展して行くのである。