アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

自分と興味

私達にとって、自己こそ見知らぬ者であらざるを得ない。私達が自らを理解することなどない、私達は自分を他人と間違えざるを得ないのだ。私達には「誰もが自分からもっとも遠い者である」という命題が永遠に当てはまるのだ。私達に自分については「認識者」ではないのである…

ニーチェ 『道徳の系譜学』

 

ニーチェのこの言葉を読むと、ニーチェの認識がフロイト精神分析に先駆けているのがよく分かる。デュシャンの墓石に「死ぬのはいつも他人ばかり」とあるが、人は「他人の死」を通じてのみ自分の死の可能性を知るのである。

 

有り体に言えば、人は自分の欠点は分からずとも、他人の欠点はよく見える。だから他人の欠点をよく見て、自分の欠点を知るのである。自分を知ろうと思ったら、他人を知らなければならず、そのためには自分がこれまで全く知らなかった内容が記された本を読む必要がある。

 

自分が知らないことについて書かれた本の中に、他ならぬ自分のことが書いてある。自分がこれまで全く興味を持たず、知ろうともしなかった事が書かれている本の中に、自分についての核心が書かれている。

 

多く人は自分に興味がなく、自分のことを知ろうともしない。だから自分が興味を持たず、知ろうともしないような事柄の中に、自分の本質が隠されている。だから数学に興味がない人の本質は数学の中に隠され、政治に興味がない人の本質は政治の中に隠され、音楽に興味がない人の本質は音楽に隠されている。

 

自分にだけ興味があって、他人に対し興味を示さない人は、実のところ自分に興味を示してはいない。そのような人は「自分が知っている範囲の自分」だけを知って満足し、それ以上の「自分とは何か?」に興味を持たず、つまり自分には興味がない人なのである。

 

本当に自分に興味がある人は、自分を知るために他人を知ろうとし、他人に興味を示す。デュシャンの墓石「死ぬのはいつも他人ばかり」の言葉どおり、人は他人を知ることを通してのみ、自分を知ることが出来るからである。自分を知ると言うことは、自分と他人とを積極的に取り違えることでしかない。