アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

前衛と責任

ニーチェを読みながらの続き。ニーチェオルテガが言うように、現代は「奴隷」の世の中なのである。奴隷とは何か?それは奴隷の身分から解放されてもなお奴隷であろうとする人間、奴隷から解放されても貴族的な自由を謳歌せず、なおも誰かの奴隷になろうと欲する者である。

 

つまり、多くの人はクリエイティブであろうとしない。同時に他人のクリエイティビティを評価しない。いや多くの人はiPhoneなど革新的な製品を評価するが、しかしそれは「便利だから」評価しているのであり、クリエイティビティを評価の中心軸に置いているわけではない。

 

世の中の多くの人は実に「つまらない仕事」をしている。つまらない仕事とは「クリエイティビティとは無縁」な仕事であり、それは誰でも交換可能な仕事であり、「奴隷仕事」なのであり、契約上は奴隷でなくとも仕事の内容としては奴隷仕事なのである。

資本主義の世の中で、多くの人が「つまらない仕事」「奴隷仕事」を嫌々ながら我慢してやっているのかと言えば、実はそうではなく、多くの人にとってそのような仕事が「性に合っている」のである。反対に、多くの人は「面白い仕事」「自らの創造性を発揮する仕事」に就くことを嫌って避けようとする。

 

「人が嫌がる仕事」とは、実は下層の奴隷仕事ではなく、「クリエイティビティを発揮する仕事」こそが大多数の人によって嫌がられる仕事なのである。

 

それは例えば「美術」と言う本来的に自らのクリエイティビティを遺憾なく発揮できる分野の仕事においても、実に大半のアーティストは十全にクリエイティビティを発揮しようとせず、「どこかで見たような作品」のバリエーションを製作して満足する。

それは美術を観る側も同じで、「今までに見たことのないような作品」に人々は見向きもしないし、そのようなクリエイティビティを発揮する美術家を人々は全く評価せず、その存在を無視する。

 

つまり多くの人がクリエイティビティというものについて、それを発揮することにおいても受容することにおいても、基本的には「嫌」なのである。それはなぜ嫌がられるのか?一つにはクリエイティビティとはニーチェの言う「強者」の属性であり「弱者」はそれに本能的に拒否反応を示すのである。

クリエイティビティがなぜ強者の属性なのか?クリエイティビティには基本的に「責任」が伴うからである。「弱者」は一つには自分で責任を負うことを嫌って避けようとするから「弱者」とされるのである。

 

なぜクリエイティビティに責任が伴うのか?それは自らが切り開くところの「前衛」であり、「前衛」は自ら切り開くゆえに「責任」が生じるのである。

 

原始時代の原始生活において、日々の生活は自分で切り開いていかなければ生き残ることはできない。原始時代の人類は自然の淘汰圧により厳しく選別された、少人数の「エリート集団」として存在していた。その生活の場は常に「前衛」であり、自分の責任を肩代わりしてくれる「後衛」は存在しないのである

 

「責任」というものは、自分で負うか、誰かが肩代わりしてくれるか、のどちらかである。過酷な自然環境に晒された原始生活において、例えば足を負傷した他人に肩を貸しながら移動すると、共倒れになるどころか群れ全体の危機を招いてしまう。

 

原始生活という「前衛の場」において、怪我をした責任は自分で負うしかない。これを他人に肩代わりさせようとすれば、群れ全体の存続を脅かしてしまう。という責任論から見れば、文明とは「多くの人間の責任を肩代わりするシステム」ということができるかもしれない。

 

文明とは「弱者」の責任を肩代わりするシステムである。ハンムラビ法典においても私的な復讐は禁じられていて、復讐の責任は国家が肩代わりしてくれる。それによって自然環境では生き残れないような「弱者」の生命が守られ、その「保障」によって国家というシステムが維持される。

 

奴隷は貴族に嫌々ながら使役されているのではない。前提にあるのは、文明とは自然環境では生きられない圧倒的数の「弱者」を救済するシステムであり、そのように自然の摂理に逆らって生存させられている「弱者」は積極的に生きる意味を持たず、「奴隷」とはそのような人たちに用意された階級なのである

 

「弱者」とは、自分が生きる上で何をして良いのかが分からない層を指す。つまり自分のなすべきことをクリエイティブすることができない。そこで弱者には外部から「仕事」が与えられる。

 

自らの生きる意味をクリエイティブできる「強者」にとって、「弱者」向けに与えられた「仕事」は苦痛でしかないが、弱者にとって「クリエイティビティを発揮しろ」と言われること自体が苦痛で、「つまらない仕事」で時間を潰すことこそ「性に合っている」のである。

 

私のように未熟児で生まれた人間は、本来の自然環境であればとっくに死んでいたはずの典型的な「弱者」であるが、たとて五体満足で生まれたとしても、大半の人間は原始時代の自然環境の中では何のクリエイティビティも発揮できず生き残ることが出来ない「弱者」に違いないのである。

クリエイティビティとは、自分で判断し自分で行動することである。自分で判断するからにはその責任は自分にあり、他人には一切負担をかけることはない。この覚悟のない者は、危険に満ちた厳しい自然環境を生き延び子孫を残すことはできない。

 

クリエイティビティを発揮できない弱者は、自分が何をすべきかを他人に決めさせ、その責任を他人に負わせている。現代の民主主義においては、クリエイティビティを発揮できない民(弱者)が主人となり、クリエイティビティを発揮するごく一部の強者を使役する。

 

弱者は強者に対して不満を持ち、恨みを抱くが、それは強者どもが自分たちにに対し十分なお世話ができていないことに対する不満なのである。

 

また弱者は自分たちがだけが貧乏を強いられ、強者たちだけが贅沢を楽しんでいるだろうと恨みを抱いているが、強者は贅沢する以前にさまざまな「責任」からそのリスクを負っているのであり、弱者はそれに耐えることはできないのである。

 

あるいはクリエイティビティを発揮できない弱者にどれだけ金を与えても、その金を使って自分が楽しむだけのクリエイティビティを弱者は発揮できない。だからいくら金があっても虚しいだけで、それが「分相応」と言われる。