アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

2019明けましておめでとうございます!

すいません、遅くなってしまいましたが、新年明けましておめでとうございます。

 

2019年もよろしくお願いいたします。

 

実はご挨拶が遅れてしまったのには理由があって、昨年末からYouTuberを始めまして、そうしたらそっちに軸足が移ってしまったのです。

 

ブログがおそろかになってしまい申し訳ありませんが、チャンネル登録ぜひお願いします。

 

https://www.youtube.com/user/itozakikimio

 

実際にしゃべると、やはり「書く」のとは違うのです。

 

というのも、ソクラテスの昔からフッサールソシュールラカンなど現代に至るまで、偉大な哲学者は書くよりもしゃべってきたのです。

 

そして実際に自分でしゃべってみると、「書く」に対する「しゃべり」の優位性が如実に自覚できるのです。

 

ことに言語活動が無意識の作用であるということが、「書く」よりも「しゃべる」の方により明瞭に現れて「自由」になるのです。

 

現にこうして文章を書くことも、しゃべりを経験した今の方が、以前よりも滑らかで自由な感じで出来ています。

 

*****

 

ただもちろん、ブログをやめるつもりはなく「書く」ことの意味も追求して行くつもりです。

 

一つには、私はYouTubeで本の紹介をしたかったのだけど、私のしゃべりは普通の意味での本の紹介にはならないのです。

 

それはこのブログでも同じですが、本の内容をわかりやすく、入門書的に要約するような仕事は私には出来ない、やる気が起きないのです。

 

私の場合は本を読むとその刺激によって新たな考えが生じてくるので、それを書きたい、あるいはしゃべりたい、そうやってクリエイティビティを発揮したくなるのです。

 

しかしそれではYouTuberとして人気者になることは出来ずお金は稼げません。

 

やはり売れっ子YouTuberはじめ、本にしても、世の「売れているもの」を見ると押し並べて「一般性」のあるものしか受けないのです。

 

そこではオリジナリティは求められていないのです。

 

オリジナリティとは、無意識の作用として生じます。

 

するとその対極にある「売れるもの」は意識の産物として生まれるということになります。

 

そう、哲学系YouTuber「ネオ高等遊民」さんという若い方の動画を見て思ったのですが、彼の哲学解説は初心者向けによくまとまっていてわかりやすい。

 

逆に言えば彼のしゃべりはまるで文章を読み上げているようなのです。

 

いや彼のしゃべりは自然で、決して朗読をしているような硬さがあるのではありませんが、わかりやすいおしゃべりは、一方では文章のようなおしゃべりでもあるのです。

 

あるいは「秀才」と言えるような人には、その精神に本質的に「しゃべり言葉がなく、書き言葉だけがある」と言えるのかもしれません。

 

そしてこれを逆手に取れば、まず文章で分かりやすい哲学の入門書的な内容を書いて、それを読み上げるか自動音声に置き換えるかして、YouTube番組を作成できるかもしれない、そうやって擬似的に秀才的な番組制作ができるかもしれない。

 

まぁ、実現可能かは別として、そんなことを思いついた次第てます。