誰でもわかる超入門フッサール現象学20210917
糸崎公朗です。「誰でもわかる超入門フッサール現象学」という話をしようと思いますけども、歩きながら哲学の話をわかりやすくしようということなんですけども、なんで歩きながらなのかというと、そもそも古代ギリシャの哲学者っていうのはソクラテスにしろアリストテレスにしろ、歩きながら考えたんですよね。
でね、歩きながらの方が私の場合は特に頭が働くんですよ。だいたいその哲学ったってね、そうやって室内で椅子に座って、なんかしかめっ面して、それでウンウン考え込むと、そういうもんじゃなくて、歩きながら考えるような、気楽なもんでいいじゃないかとね、いうふうに私は思うわけですよ。というわけで私は歩きながらしゃべりながら哲学をしゃべっているわけなんですけれども。
それでね、フッサール現象学ってね、名前だけは聞いたことがある人がいるかもしれないですけども、難しい哲学だと言われているんですけども、それをわかりやすく説明してみようと、解説してみようという試みなんですけども。
そもそもね、現象学ってすごく特別のことのようでいて、割と皆さん一般にね、もうある程度その現象学の心得をマスターして実践してるんじゃないかなというふうにしてね、思うんですね。
で、ひとつがね、iPhone、スマホとかパソコンですよ。で、このYouTubeの動画もパソコンやスマホで皆さんね、見てもらえてると思うんですけども、パソコンに映される私の姿、歩きながら声を出してしゃべってますけど、これが現象なんですよね。
だからパソコンのモニターにしろスマホの画面にしろ、その中に私自身がいるとはもはや誰も思ってないわけですよね。昔、テレビが登場したばっかりの時に、このテレビのちっちゃな箱の中に人がいるんじゃないかといって、裏側をのぞいた人がいたっていう話もありますけれども、今そんなふうに考える人はいないわけですよね。
だからスマホにしろパソコンにしろ、そこに写っている人の姿ね、そして背景に街が広がってますけど、これはパソコンに映し出された現象であって現実とは違うと誰もが思ってるわけですよね。
それともう一つ、パソコンが普及しはじめてネットが普及しはじめたばかりの頃にマルチメディアっていう言葉が言われたんですよね。今マルチメディアってもう当たり前になっちゃったから使われなくなっちゃいましたけども、基本的にパソコンやスマホっていうのはマルチメディアなんですよね。
マルチメディアっていうのは、私の姿を映し出しているこの映像ですよね、そして音声ですよね。あと文字情報っていうのもこのチャンネルはあんまりテロップめんどくさいんで私入れないんですけども、テロップ入ると文字情報であるとか、そういうそのさまざまに異なるメディアを一つのそのパソコンなりスマホっていうメディアで一括して扱うわけですよね。
パソコンの世界っていうのは結局は映像として見えるものも音声として聞こえるものも文字として読めるものも全て01のデジタル言語なんですよね。C言語、コンピューター言語なんですよね。だから本来は映像と音楽っていうのは違うものですけれども、それを01のデータに置き換えることによってすべて均質な現象として扱うことができると。
それでさまざまなコンテンツがより便利に発信できるということなわけですよ。
で、これがデジタル以前の時代だと、例えば映画映像ったってね、映画まずフィルムですよ。フィルムっていうのは、若い人は知らないのかもしれないですけど、昔の映画はフィルムで撮られたわけですよね。フィルムの一コマ一コマに物理的に絵が映ってて、それがコマ送りで映写されていくわけですよね。音声は音声で別にテープであるとかレコードであるとか、そういう別のもので流していて、それを同時に流して上映していた時代があるわけですよね。それはマルチメディアではないわけですよね。
で、それを一つの現象として扱うとね、パソコンやスマホというあらゆるメディアを一つの現象として扱うと、だから扱いやすいわけですよね。映画の時代だったら映写機とテープレコーダーと上映のスクリーンと全部をそれぞれ持ち歩かなきゃいけないですね。大変だったわけですよね。それが一つの現象として一元管理できると、このスマホによって。
という時代に今なっているということで、その意味で現象学っていうのは我々にとって身近になっていると言えるんですけども、それをもう一歩進めると、本式の現象学、哲学的な意味での現象学になってくるわけですよね。
で、フッサールが言う現象学っていうのは、今の話はスマホのモニターに映し出される光景というのは現象だけども、それは現実とは区別されるものだという風な考えなわけなんですけれども、フッサールは現実だって現象じゃないかというふうにして考えたわけですよね。
そもそも、人間というのは例えば物を見るときでも目でものを見るわけですよね。だから目を覆うとものが見えないっていうのは確実に目で見ているわけですよね。
で、今は科学も進歩しているので目の構造というのはわかってるんですよね。結局目の構造って何のことはない、今iPhoneで撮っているこのカメラと全く同じ構造なわけですよ。
そうするとカメラに写る映像が現象なら、人間の目に映る現実世界だってそれは現象じゃないかっていう話になるわけですよね。人間の目には水晶体っていうレンズの役割を果たす器官と、あと網膜というね、これはまあ撮像素子ですよね。だから全くiPhoneのカメラと同じ構造をしているわけですよ。
で、そうすると人間の目にありありと映る現実というものは、そのあくまでも人間の目を通した現実なわけなんですよね。そこでフィルターがかかっていると言うのね。これだから、言ってみれば本当の現実ではないんですよね。本当の現実ではなくてあくまでも現象に過ぎないというふうにして、フッサールは突き詰めて考えたと思うんですよね。
そうするとじゃあ現実はどこにあるんだっていうね、そういう話になるんですけども、人間には現実を認識する能力がそもそもないんだと。
だから僕がイメージするのは、実は我々が見ているこの世界というものが、実は網膜に映った自分の中の小ちゃい目玉の中に写った映像に過ぎないんですよね。その網膜のスクリーンをペリッと破った向こう側に本当の世界があるわけですよ。
でもそれって結局原理的に目に見えないし、そもそも。
あと人間には皮膚の感覚とかね、だから今歩きながら今日はわりと涼しいお天気で風が気持ちいいんですね。でもその風が気持ちいいっていうのも、その私の皮膚がそのようにして感じているから風が気持ちいいなっていうふうに思ってるだけで、別の生き物にとってはそうじゃないわけですよ。
別の感覚を持った生き物にとって
はそうじゃないですよね。セミにとってはね、今日もちょっとセミがか細い声で鳴いてましたけど、寒くて仕方がないって言ってね。そもそもセミの硬い皮膚にも人間みたいに風を感じるような機能があるとは思えないわけですよね。
そうすると、セミが感じる風や気温と、人間が感じる風や気温も全然違うんですよね。
そうでなくてもセミは複眼でものを見ているので、人間とも全然違う世界を見てるわけですよね。
でもだからと言って、セミみたいな虫が現実のすべてを見ていなくて、人間こそが現実のすべてを見てるんだと。人間というのはセミに比べて高精度の目玉を持ってるから現実のすべてを見てるんだって思うと、そうじゃないわけですよね。
で、そういうふうにしてね、だからいったん整理すると、スマホやパソコンのモニターが現象であるように、人間が私たちがありありと現実を感じているとね。これ現実じゃないんですよ、現象なんですよ。
だからここに例えばガードレールの手すりがあって私にはこれはありありとあると感じられるわけですよね。そしてこのコンクリートの固いこういうものも私にとってありありとあるんですけども、でもほらモニターを見ている皆さんにとってはさ、これは全部モニターに映る映像に過ぎないわけですよね。
だからそれと同じで、このリアルタイムで喋って、このリアルタイムでこのコンクリを触ってる私にとっても、これは現象なんですね。
というのが現象学の基本中の基本なんですけども、ね。
それを踏まえでね、現象学というこの考えをどのようにしてそう生活の役に立てるか、人生の役に立てるかということが重要になるんですね。
そもそも人は何で哲学に興味を持つかっていうか、私がそうだったんですけども、やっぱり人生で悩み事がいろいろあるんですね。
私もアーティストなのでアートのことで悩むということもありますけども、一方ではね、発達障害なんですね。注意欠陥多動性障害、ADHDと言われますけども、つまり子供の頃から遅刻が多いとか、忘れ物が多いとか、落ち着きがないとかね、そういうふうにして親とか先生にかなり叱られたんですよね。
で、うちの両親も、これがねー、私の家族は全然発達障害がないんですよ。私だけが発達障害なんですよ今から考えると。だから私だけが忘れ物したり、遅刻したり、そういう性格なんですよね。
そうするとかなりキツく叱られるし、そもそも忘れ物や遅刻をする人間はだらしがない人間で、それ自体が悪なんだというふうにして散々言われるわけですよね。
自分自身もそういうふうにして子供ながらに言われると、それを自分の中に内面化してね、自分は本当にダメな人間なんだっていうふうにして思うようになって、かなりの劣等感になるわけなんですよね。
ところがフッサール現象学ではないんですけども、加藤諦三さんという人の本を読んだんですね。これ高校の頃に読んだんですけども、加藤諦三先生は今も人生相談などでご活躍らしいんですけども、「親が言うことは絶対じゃない」というふうに加藤諦三先生は述べたんですね。
つまり加藤諦三先生も自分自身が親に厳しく言われて育ったんだけども、ある時ふと、「実は親の方がおかしいんじゃないの?」っていうふうに気付いたって言うんですよね。
で、そうやって言われてみると、確かにですね、遅刻したり忘れ物したりするっていうのは相手に迷惑がかかるというね、その意味において良くないことだけども、でもそれ以上に悪いことじゃないわけなんですよね。
ところが私の両親はそれが人間として本質的に悪だと言うふうに、もっと必要以上に悪く言うわけですよね。
だから現象学的に言うと、まず親に自分が私がダメな人間だと言われたと。自分はダメ人間なんだとね。自分がダメ人間だっていうそのことが現実として、現実的に自分はダメなんだとね。現実的に自分は忘れ物するような悪い人間だし、忘れ物をするということ自体が現実的に悪いことなんだと。それらが悪なんだというふうに捉えると、どこまでも自分を責めることになるんですよね。
ところが現象学的に考えると、まずその親が自分のことを責めるというのは一つの現象でしかないんですよ。お前はダメだと言って親が私に言っているわけですよね、という現象があるわけですよね。
で、それを現実として重く受け止めすぎなければ冷静な判断が出来るわけですよ。「じゃあ他人はどう思ってるのかな」とね。確かに小学校の先生なんかはずいぶん忘れ物に厳しく言ってましたけど、でも高校、大学と進んで行くと結構みんな自由になるわけです。あんまり小うるさく言わなくなるわけですよね。
で、そうすると、確かに忘れ物しちゃったりとかは、忘れ物すると自分が困ったりとかね、遅刻すると他人に迷惑かかったりとかしますけども、実際に困るという範囲のちっちゃい範囲内で困るだけのことであって、そんなに大げさなことじゃないんですよね。全人格を否定するような大げさなことではないということに気づくわけですよね。
だから加藤諦三先生は直接的に現象学という言葉を使ってないし、現象学を取り立てて意識したとは思わないですけども、でも結果として、ありていに言うと「物事を真に受けないで」、いろんな人の周りをよく見て他の人はどう反応しているのかなということを比較しながら考えて総合的に判断すると、人間が本質的にお前はダメだって否定されることってまずないんですね。
そもそも基本的人権っていうものが尊重されてるわけですよね。だから遅刻したって忘れ物をしたって、全人格を否定するような価値観を持つ人でそれを人に言う人っていうのは結局は基本的な人権がわかってないわけですよ。
人は人それぞれに得意な点、不得意な点があるわけですよね。この点が不得意だからお前はダメなんだっていう言い方は、それは基本的人権に反しているわけなんですよね。
もちろん実際に困るってことありますけども、実際に困るということは実際に困る以上のものはないわけですよね。
で、実際に困るということが実は現象なんですよ。だから現象ではなくて、あたかもその現象が現実であるかのように、「お前はダメだと、遅刻する人間はダメだと、遅刻自体が悪なんだ」ということが現実であるかのように考えると、それは自分にとって不利になるわけですよね。
それが人間の悩みになるわけなんですよね。
だからフッサール現象学っていうとずいぶん大げさな話というか専門的な話をするとキリがないんですけども、でもその一方では実は日常的に誰でもうすうす気づいていることなんですよね。
で、それを哲学的に付き詰めると
現象学という学問があるんですけども、基本は誰でも薄々気付いているし、ちゃっかり利用している人は利用してるんですよね。ちゃっかり利用してるっていうか、過度に悩みを抱え込まないような人はどこか現象学的な生き方をしているんですよ。
最近、写真家の土門拳さんが書いた本を読んでるんですけども、昭和30年代に書かれた本なんですよね。で、ずいぶんその当時の人間は今の人間に比べて素朴なんですよね。
昭和三十年代っていうとまだテレビも普及していないというかね、一般家庭にテレビが行き渡らない前の時代で。そうするとテレビ自体が現象学的な存在ですからね。
そうすると今の日本人よりも現象的感覚が育ってないわけですよね。そうするとどういうことになるかっていうと、昔はテレビの代わりに田舎芝居ってね、旅回りの芝居の一座が回ってって小屋を建ててそこで芝居をするんだけども、そのお芝居の中で悪者が主人公に対してひどい仕打ちをすると、そうすると観客の方から「なんだお前!」ってね、「俺が加勢してやるんだ!」ってね、舞台に躍り出る奴がいるって言うんですよね。
それは結局、現実と芝それは結局、現実と芝居の区別がついていないというふうに言えるし、芝居自体が実は現象なんですよね。悪役というのは本当の悪人じゃなくて、悪の役をしてるだけですからね。だからそれは現象としての悪人なんだけども、素朴な人っていうのは現象と現実の区別がつかないし、さらに素朴な人は現実自体が現象であるという現実が現象であることに気が付かないわけですよね。
だから、子供の頃に親に「お前はダメなやつだ」と「遅刻っていうのは絶対的に悪なんだ」と、そういう風に言われてそれを素朴に受け入れていた自分というのは、その意味で言うと、その現実を現象に過ぎないことを現実だと錯覚しているわけですよね。
そうすると、劣等感の中に閉じ込められていて、あのままだったら今頃どうなっていたか分からないということなんですけども、まあ直接ではないですけどね、加藤諦三さんを通して現象学的な現実に囚われないというかね、やっぱり現実ってね、あらゆる意味で人を縛るんですよね。でも現実ってのは現象でしかないんですよね。現象でしかないというふうに捉えると、あらゆる現実から現実の拘束から逃れる、そういう道が拓けるんじゃないのかなと。
だから、何でもいいですよ。会社の上司と折りが合わないとか、イヤなヤツがいるとかね、そういうこともいろいろあるでしょうしね。そういう様々な悩みですよ。だから、あらゆる悩みというのは実は人間関係であるというふうにして、『嫌われる勇気』の岸見一郎先生が述べていましたけども、結局人間関係というのも、それを現実だっていうふうにして思うと、それでがんじがらめになるんですよね。
人間関係なんて現象に過ぎないと思うと、スマホの画面を見るようにね、一歩離れて総合的な判断ができると。そういうことなんじゃないのかなというふうに思うんですね。
というわけでね、フッサール現象学について入門的な話をしましたけども、分かったと思う人はグッドボタンですね。「こんな話全然わかんねーよ」と思ったらバッドボタンを押して、いくらでも押していただいていいですからね。あとコメント欄で何でも、感想でも質問でもお待ちしておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。