アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

権力としての哲学

そもそもですね、現代の我々というのは私もそうですけども、私に限らず左翼の毒に侵されているとね、そういう風に思う訳ですよ。

 

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ですからその左翼の毒抜きをしなきゃいけないと言う風にして思う訳ですよね。

でその意味で言うと、そもそも文明というものは権力があって立ち上がってくるものなわけですよね。

で権力というもの自体が文明と不可分なものなんですよ。

ところが左翼的思想に侵されていると、権力っていうのが何か悪いもののように思えてしまうということと、それと権力とは違うものを打ち立てようと、権力とは違う形の価値を打ち立てよう、という思考にどうしてもなってしまう訳ですよね。

でそうすると芸術というのは権力から遠く離れて純粋なものであると、そういうことになるんですけど、それはそもそもおかしなことなんですよ。

だから結局権力というものが文明を作って、そしてその文明の産物というものが自然状態にはない良いものなんですよね。

「良いもの」っていう言葉はニーチェが使っていましたけども、「良きもの」というのは「良きもの」としてそのままで評価しましょう、ということなんですけども。

だから芸術にしろそれと哲学もそうですけども、文明の産物としての良いものですね、高度な素晴らしいものというのは権力と不可分に結び付いていると、権力の産物であると言うことなんですよ。

だから元々芸術が権力と根源的に不可分に結び付いていたというのは、だから権力者というのは自分がどれだけ他の人と違って偉いのか、というのを示すために芸術を利用した、芸術と結びついた訳ですよね。

だから古代メソポタミアの時代から権力者は立派な宮殿を作って、宮殿なり寺院なりそういうものを作ってですね、建築や彫刻や絵画で飾り立てるわけですよね。

でそういうことで権力を誇示するわけですよ。

芸術と権力が結びついてこれは良いものなんだと、権力とは良いものなんだと、ハンムラビ王は偉大なんだと。

そういうことで日本で言うと、日本という統一国家ができ始めた頃に聖徳太子がおりまして、でその聖徳太子を称える絵画であるとか彫刻肖像彫刻ですね、そういうものが盛んに作られるようになったと。

だからその意味で権力と芸術というのは根源的に結びついているんだけど、それは芸術だけではなくて文明の産物の全ての良きものですね、自然にはないーー自然には自然の良さがありますけどーー文明っていうのは自然とは全く別の価値の高いものを生み出すもことが文明たる所以で、文明的な良きものですね、そういうものっていうのは文明の産物なんだと、だから哲学も文明の産物文明の産物じゃなくて権力の産物なんですよ。

だから古代ギリシャソクラテスというのは権力者ではなくて、ギリシャアテナイの市民でしたけど、都市国家の市民でしたけども、市民というのはその当時は特権階級で権力者だったわけですよ。

古代アテナイの市民というのは一家の長男しかなれなかった、男子の長男しかなれなかったと。

でその他の兄弟や他の家族というのは召使いみたいな扱いだったわけですよ。

でその下にさらに奴隷がいたわけですよね。

でその上に特権階級としての市民が働かないで哲学談義を日々していたと。

でそういう権力の産物として哲学が形成されていったと。

そしてさらにソクラテスが自分の哲学を全うするために死刑になったというのは、その裏には実は世俗的な権力とは違う哲学的な権力を打ち立てようとソクラテスはしたんですよ。

哲学的な権力というのは、それは世俗の権力が侵すことができない権力なんだと。

だから世俗の権力にソクラテスは屈しない為に死刑を受け入れたわけですよね。

で同じことが実は古代インドのブッダにも言えるわけですよ。

だから古代インドのブッダは王子様だったんですね。

権力者の息子だったんですね。

でその権力者の息子という地位を捨てて出家して、そして世俗の権力に関わらない境地に達した訳ですよね。

悟りの境地に達したんだけども、その悟りの境地って何かっていうのは結局は世俗の権力にとらわれない権力を打ち立てたんですよね。

だからすべての権力を捨ててブッダは出家して、権力とは無関係の宗教的境地、哲学的境地に赴いたというふうにして解釈されますけど、実はそうじゃないんですね。

結局哲学というのは権力なんですよ。

それは世俗の権力が及ばない範囲の権力なんですよ。

だから価値がある訳ですよ。

そういうわけで私自身もなぜ哲学に惹かれるのかと、、最初は芸術家のつもりで自分の表現を突き詰めようと思って、で色々勉強していくうちにだんだん哲学の方に結局はのめり込んでいくんですけども、でも自分自身が芸術にのめり込み、そして哲学にのめり込んだというのは、結局のところそれが一つの権力だったからなんですよね。

だから芸術の権力、哲学の権力を奪取しようと思って私は必死になるというかね、夢中になってしまった訳ですよ。

だからと言って芸術の世界はまあともかく、哲学の世界で私が権力を握れるかって言うとね、そういうことはまた別なんですよね。

だからそこで言うと権力とは何かっていうこと自体が難しい問題になるんですけども、やっぱり人に認められようが認められまいが、自分は自分でできる限りの探求をして突き詰めるんだ、ということ自体が結局は自分自身の権力の追求なんですよ。

それはだから「人に認められようが認められまいが」って言うその「人に認められる認められない」っていうのはそれは地上の権力のことなんですよ。

で地上の権力以外にも権力があるということなんですよ。

でもそれは権力に違いがない訳ですよね。

だから結局は哲学を学ぶ、アートを学ぶっていうことになると、ちょっと二つ一緒にするとややこしくなるんで哲学の話をすると、哲学を学ぶっていうことは哲学の歴史を学ぶということですよね。

でそこに少しでも自分が参加できる余地ある訳ですよ。

ですから結局は僕自身はソクラテスとは違う時代に生きてるんですよね。

違う時代に生きているということだけで、哲学的に自分だけに私だけにできることっていうのがある訳ですよね。

でそこのめり込んでいくというね。

でそれっていうのは結局は自分が学んだの中での哲学の歴史に、自分自身が参加していくとうことの権力に、私自身が組み込まれていくと。

でそんな中で私も自分のできる範囲での権力を振るうと言うかね、そういうところに到達しようとするわけなんですけども。

だから結局はそれは芸術の芸術についてもそうな訳ですよね。

だから誰に認められなくても自分の芸術を追求するんだと。

最近、篁牛人(たかむらぎゅうじん)という墨絵の画家がいましてで、それの展覧会を見に行ったんですけども、篁牛人というのはもちろん私は全然知らなかったし、一緒に行った彦坂尚喜先生も知らなかったと、私のアートの師匠ですけども、知らないことはないぐらい博学の彦坂尚喜先生も篁牛人は知らなかったんですけども、篁牛人自体が大変に優れた画家で彦坂先生が絶賛したんで私も一緒に見に行ったんですけど、私が見てもねこれは凄い画家だと言う風に思う訳なんですよね。

で篁牛人っていうのは全く評価されずに、生前もほとんど評価されずに、戦後全く、戦後って言うか昭和の人ですけどね、戦後に作品展開した人ですけど、とにかく全然存在が知られなくて、今になってNHK日曜美術館で紹介されたらしいんですけども。

でも篁牛人はやっぱり自分の芸術を追求した訳ですよね。

誰に認められなくとも、自分の権力としての芸術を追求したんだと、そういうに言えると思うんですよね。

だからやっぱり世俗の権力に支配されないと、そうするとやっぱり自分が信じる権力に向かっていくと、そういうことになる訳ですよね。

だからそうやってあらゆる文明というのは、文明の産物というのは、基本的には権力と結び付いているわけで、権力の否定とかね、そういう左翼思想っていうのも、今ちょっとそれについてはまたさらに勉強中で、別に話そうと思うんですけども、とにかく価値観がひっくり返って錯誤してるんですよね。

ですからそういう間違いを、間違った教えを吹き込まれていたんだということを自覚して、もう一回勉強し直さなきゃいけないと、そういうお話でありました。