アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

言語の普遍性

人間の特徴として「人間は言語を話す」という点を挙げ、それが他の動物とは違うのだとすると、それは「言語の普遍性」ではなく「言語の特殊性」を述べたことになります。

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ところが『新約聖書』の「ヨハネによる福音書」第一章の書き出しは、下記のようになっているのです。

初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。この言葉は神と共にあった。万物は言葉によってなった。なったもので言葉によらずになったものは何で一つなかった。

これによると、何よりもまず先に言葉と言うものが存在して、その言葉から全てのものが出来上がって、つまりは全ては言語である、と「言語の普遍性」を述べているのです。

そしてこのことから、私がかねてより述べてるように、人間以外の動物も実は「言語」を使うと考える事ができるのです。

その考えで言えば、むしろ人間が使う言語というのは「普遍的な言語」に対して「ヒト言語」と仮に名付けらるものではないかと言えるのです。

そして動物としてのヒト(ホモ・サピエンス)は、ヒトに特有の「ヒト言語」を使うんだけどもでも人間以外の動物植物も全て言語を使うんだと。言語というのはそれだけ普遍的なものなんだと言うふうに思う訳ですよね。

と思うっていうのは、そういうふうに考えてみようと言う訳なんですよ。

で実際、二十世紀になって発見された遺伝子というものも言語だったんですね。

だからこれは、聖書の預言が的中したという風に言えるわけですよね。

っていうのは言語としての遺伝子を指しているとも言えるわけですよね。

遺伝子というのはATGCと略されますが、アデニン、チミン、グアニン、シトシン、その四つの言語でできている訳なんですよね。

で遺伝子だけでなくてあらゆる動植物あらゆる生物は言語を使うだとっていう風に私は考えてみたいわけですよ。

でそうするとその認識ということですね、動物っていうのは何らかを認識するわけですよ。

だから一番で言うと食べ物かどうかということを認識するわけですよね。

でそれが何であるのかって分かるっていうことが、その分わる分からないっていうその分かるということが、一つやはり言語な訳ですよね。

ですから犬や猫のような高等動物は言うに及ばずですよ、ハエトリグモなんて動いている虫を餌だというふうにして認識してパッと飛びつくんですけども、実際に観察しているとね、そうなんですよ。

そうすると「動いている」というその様子ですね、それ自体が言語なんですよね。

そうやって、それが餌であるというそのシニフィアンシニフィエの結び付きですね、記号表現と意味内容の結び付きですね、それが生じて餌を捕るという行動になる訳ですけど、この「餌を捕る」っていう「行動そのもの」もひとつ言語な訳ですよ。

記号表現と意味内容ですね行動と栄養摂取という意味内容が結びついているということになる訳ですよ。

とにかくね、その人間というのは言語を介してさまざまなものを認識しますけども、でも人間以外の動物というのは言語を介さないで物事を認識するわけですよね。

ですから猫にしたって犬にしたって人間の表情を読んだりとかね、大体考えること分かるととかね、そういうことあるんですけど、その分かるっていうこの自体がひとつ言語な訳ですよ。

だからこれは動物行動学者のコンラート・ローレンツ先生が指摘していますけども、犬や猫っていうのは一般的にいうところ人間の顔色を窺う訳ですよね。

で、顔色を窺うってことは、だからそれは人間の音声の言語とは違う言語な訳ですよね。

一般的に非言語と言われるものですけれども、元々人間自身も非言語コミュニケションがもっと発達していて、いわゆる言語によるコミュニケーション、言葉によるコミュニケーションっていうのは補助手段に過ぎなかったものが、文明になって音声言語、さらには文字言語に人間が頼るようになって、顔色を窺うとか、微妙な立ち居振る舞いとか、そういうもので互いの意図を探ったりっていうようなことがだんだん出来なくなってきたんだけども、でも野生動物というのはもっぱらそういうことでお互いに言語のコミュニケーションをしているんだと、それだって立派な言語のコミュニケションではないかと。

まあコンラート・ローレンツ自身はそのように述べていないと思いましたけども、でも結局はそういうことだとは思うんですね。

ですからその意味で言うと、さまざまな物事が言語を発しているんですよ。

だから人間だってね、黙ってたってね、言語を発しているんですよね。

むっつりと黙ってると「あの人の機嫌悪いんじゃないかしら」ってね、そういう言語を発することになる訳ですよ。

黙っていても何かニヤニヤしていると、「なんかあの人は嬉しいことがあったんじゃないかしら」っていうね、そういう言語を発することになる訳ですよね。

黙っていても何かそわそわして落ち着かないと、そういう不安な態度でいると、そういう言語を周囲に発することになるので、そういう気持ちを察せられてしまうと。

で人間でさえそうですから、それは犬や猫のような動物はまさにそうなんですよね。

黙っているだけで言語を発しているということなんですよね。

それは更にカエルであるとかカマキリであるとか、そういうもっといわゆる下等な生き物も言語を発しているわけですよ。

例えばカエルで言うとアマガエルなんていうのは擬態をするわけですよね。

擬態をして体を緑色に変色させて敵から身を守るわけですけども、それは「私はエサじゃないですよ」という言語を発していることになる訳ですよ。

だから昆虫で言うと枯葉にそっくりのチョウとかガがいるんですね。

沖縄のコノハチョウはまさに枯葉そっくりのチョウチョですけども、枯葉そっくりってことは「私は枯葉でございます」っていう言語を発しているわけですよね。

そして「私はエサじゃありませんよ」っていう言語を発している訳ですよ。

その意味で昆虫だって言語を使う訳なんですよね。

そしてその枯葉そのものだって、これは言語な訳ですよ。

一般に動物にとって枯葉ってものは餌じゃないですからね。

これはエサじゃないと、価値の無いものだというふうにして、そういう言語として地面に転がってる訳ですね。

いま冬ですから森に行けば枯葉がいっぱい積もってますけど、その枯葉が一つ一つの言語なわけなんですよね。

なぜ言語なのかっていうと、「これは何なのか?」っていうことを人間以外の動物も読むことができるんですよね。

それに対して冬でもなお縁の葉っぱというのは、ある種の動物に対して「これには特定の価値がある」という言語を発しているわけですよ。

それ自体が言語になっているわけですよ。

だから私が何度か取り上げてるアフォーダンス理論っていうのも、そもそもそういうものなわけですよね。

 つまりアフォーダンス理論によると、いま自分が歩いてるこういう平らな地面そのものがですね、「ここは歩くのにちょうどいい道ですよ」という情報を提供してるんですね。

アフォーダンスというのは「アフォード=提供する」が語源ですけれども、この手すりにしたってね情報を提供しているわけですね。

「こっちからあっちには行けませんよ」という情報を提供していて、それ自体が一つの言語になっていて、その言語というのは人間だけに向けられたものじゃなくて、動物にも共有のものなんですよ。

ですからこれは動物写真家の宮崎学先生の研究ですけども、「けもの道」というものがある訳ですよね。

いろんな動物がけもの道を通るわけですよ。

山の中のけもの道ですね。

そうすると踏み固められて通りやすい道になるんですよ。

だから野生動物にとってと、こういう藤沢のこの辺の山は非常に険しいんですね。

険しくて人が通れないんですけど、こういうところは動物が通るのも結構不便なんですよ。

ですから動物たちっていうのは自然にけもの道を作っていくわけですね。

そのけもの道というのも一つの言語になってる訳ですよ。

動物に共有の黙して語る言語になってる訳ですね。

で人間は人工的なけもの道としてのこういう舗装道路というものを作ってるに過ぎなくて、こういう舗装道路だって、動物にとってはこんな険しい山をかき分けて行くよりも、ここを通った方が楽なんですね。

でも人間っていうのはこの地球上を我がもの顔で支配しているので、動物はあっち行けということで、排除していますけども、だからやっぱり聖書に従うとね、人間だけが言語を使うんだということではないし、言語と言語でないものを区別するとか、そういうことではないんですね。

初めに言葉があって、そして全ては言語であって、で言語によらないものが一つとしてないと、そういうね、太古の昔からの人類の知恵ですね、直感ですね、そういう哲学的直感ですね、そういうものっていうのは実は重要なんじゃないのかなという風にして思う訳ですよ。

だから僕自身は言語の普遍性ということを結構前々から考えていたんですけども、なかなか確信が持てないと言うかね、そういう風に思っていたんですけども、とにかく新約聖書ヨハネ福音書っていうね、そういう教科書もありますからね。

教科書にそうやって書いてあったんだって言うとね、自信が持てるというかね、誰に文句を言われる筋合いはない。

「だって聖書に書いてあったんだから」って言ってね、そういう風に言えるんじゃないのかなと思うんですね。