最近の私は「宗教の抽象化」ということを述べてますけども、それ以前にね、そもそもイデオロギーというもの自体を抽象化しなければならないというふうにして、改めて思ったんですね。
そもそもで言うと、イデオロギーというものは具象的なものなんですよ。
だから人は様々な抽象的なイデオロギーにとらわれるわけですね。私もそうなんですね。
イデオロギーというのは抽象的であるがゆえに人によって違うわけです。
時代によって、地域によって、個人によっても違うんですけども、だからさまざまに衝突するわけですね。
人々の間で衝突するし、そして様々な間違いを犯すわけですよ、具象的であるが故にね。
だから私で言うと、自分が何を間違ってるのかっていうことも度々私は振り返るんですけども、やっぱり私はアーティストなので、芸術とは何かという事に対してね、イデオロギー的に凝り固まっていた時期があって、それを徐々に解きほぐしてきた経緯があるんですけども。
それでもまだその特定のイデオロギー、芸術に対して特定のイデオロギーに囚われてる部分はあって、もっと解きほぐして抽象化しなければならないなという風にして思ったんですね。
でこれで特に芸術とお金、アートとお金の問題ですよね、どうしてもそのやっぱりアートの価値はお金の価値とは違うんだ、っていうようなイデオロギーに囚われすぎていたわけですよ。
かと言って、アートの価値はお金で計れるという風にイコールでは結びつかないですけども。
でもそういうイデオロギーもあるわけですよね。
アートの価値というのはお金で計ることができるんだと、高い金額のアートというのはその金額に見合って高い価値があると、当然そういう価値体系がある、そういうイデオロギーがあるわけですよね。
でイデオロギーに凝り固まってると、そういう他のイデオロギーそのものを排除してしまうと、自分の考えが排除してしまうと、検討材料から排除してしまうと、それはそれで考え方がイデオロギーに凝り固まっているということで、つまりそう言う意味でイデオロギーというのは具象的な、具体的な内容を持っているわけですね。
だからそれを解きほぐして抽象化しなければならない、という風にして改めて思ったわけですよ、
だから私は宗教の抽象化というの目指してきましたけども、でもまあ、もともと私は何とか教っていう宗教に所属しているわけではなくて、その意味では特定のイデオロギーに縛られていたわけではないとは言えるので、割と宗教に対してはフリーな立場で、宗教の抽象化というのは出来たのかもしれないですけども。
一方で自分はアーティストであるという自負があるんですよね。
そういう自負があるとかえって具象的な、特定的な特定のイデオロギーに縛られてしまって、それで色々つまずいてしまうところがあるわけですよね。
だからこのチャンネルにしたって、一応私の肩書きはアーティストで、芸術家でありまして、そのくせあんまり芸術についての発信がないっていうのも、やっぱり自分の中でのイデオロギーがフリーな領域に逃げているという、そういう言い方もできるんですよね。
私は宗教からもともと自由なんだと。だから宗教については自由に語ることができるという、そういう気楽さがあるわけですね。
それと哲学もそうですね、哲学書を最近は読んでますけど、で哲学についてもしきりに語ってますけども、自分は哲学者でもないんだと。
大学で哲学科出たわけでもないと言うね、そういう気楽さがあって、でその哲学の抽象化ってのもおかしな話ですけども。
一方でね入門書、解説書というのは哲学の具象化なんですね。
哲学のイデオロギー化なんですよ。
だからよくあるニーチェ入門書なんかもニーチェをイデオロギー化、具象化しているわけですね。
だから分かりやすいんですけども、それに対して私は抽象的なものはあくまで抽象的に理解しようと。
そうすると話としては分かづらくなるところがあるんですけども、だからそうやって自分にとって、フリーに、自由な感覚でイデオロギーから、特定のイデオロギーから自由に抽象的に語れる領域があるんですけど。
もう一方で肝心のアートになるとやっぱり自分の何が現時点で悪いのか、何が悪かったのか、悪いところの何を自分が引きずっているのか、っていうところを思い返すとやっぱりその肝心の、自分はアーティストだっていう気負いがあって、「美大出てるんだ」ってねで、美術で賞ももらってるんだってね、そういういろんな自負があるわけですよ。
そうするとストレートに、やっぱりそういう自負ってのは、だから結局は自分のイデオロギーに関わってくるわけですよね。
そういう具体的な、そういう経歴なんてのはだから結局ね、肩書きとか経歴とか、そういうものも具体的なものなんですね、具象的なものなんですね。
具象的なものっていうのは人を縛るわけですよ。
だからその意味で言うと具象というのは人を縛るし、抽象というのは人を自由にするんですね。
だからその別にその美大の経歴があった、美大卒の経歴があったりとかね、賞をもらったりする肩書きってのは別にあるに越したことはないというか、あったらあったで良いわけです、なかったらなかったで良いわけですね。
一方でそれに自分が囚われて、それが具体的な、具象的なつまずきの石になってしまっては、それは本末転倒なわけなんですよね。
だから一方で僕自身が哲学について何の気負いもなくね、勝手なことをしゃべって、そして日本の名だたる哲学者、中島義道先生しろ、竹田青嗣先生にしろ、批判するわけですよ。
そういうことが平気でできるってのは私は別に哲学科を出てるわけじゃないですからってね、肩書きの無さが、私に抽象的な自由与えてくれるわけですね。
だから同じように美大出てるからとかね、なんか賞をもらったことがあるとかね、美術館に展示したことがあるとかね、そんなのまぁ、けっきょく知らない間にそういう具体的な経歴に私自身が囚われているわけですよ。
だからそのやっぱり、あらゆるイデオロギーを抽象化しなければならないと。
でそもそもイデオロギーというのは具象物、具体物なんだと。
だからイデオロギーを抽象化しなければならないと、抽象化したものっていうのはイデオロギーとは言えないのかもしれない、という言い方もありますけど。
でも宗教で言うと、宗教を抽象化してもそれは宗教ですからね、イデオロギーも抽象化したってそれはイデオロギーなんですよ。
それでまあその私で言うと、一方では明らかな苦手領域というのがあるんですよね。
例えばお金の事とかね、私は非常に苦手なんですよね。
あと政治のこともね、よく分かっていないところがあったし、あと歴史もね、最近はちょっと勉強するようになりましたけど、元々は歴史の勉強も苦手だし、あと数学苦手ですね。
算数苦手、計算も苦手なんですけども、やっぱりそういう苦手分野というのも結局はイデオロギーによって苦手だったり嫌いだったりしているのではないのかなと思うわけですよ。
だからこれは逆に考えてみればわかるんですけども、この前もアートについて全然興味がなくて知らないっていう方とちょっとお話をする機会があったんですけども、やっぱりアートに関係ない、その意味での普通の人っていうのは、アートというものに対して非常に恐れを抱いてるんですね。
「俺はあんなもの分からない」「ああいうのは分からない」と、「ああいう高尚なものはよく分からない」って言って、その意味で非常に怖がってるっていうね。
そんな怖がることないのにと思うし、あと哲学書なんかも、「フッサール読んでます」みたいな話をした時に、「やあ私はちょっと読んだけどあれも全然難しくてわかんなくてよく読めますね」つってね。
ある種それもすごく哲学というものを、ちょっと興味持ってかじったけども怖がって、やめちゃったっていうね、そういう態度なわけで、だからそれもだから一方でイデオロギーというのは苦手意識や、恐怖となって表れるのであって。
だからそうやって人の反応を見るとそれを自分に振り返って考えると、私のお金が苦手っていうのはね、あと金に関連してその政治のこと法律のこと、N国党の立花孝志さんなんて法律大好きで、法律のことなら何でも知ってるって言うような感じですけど、私は全然そういう興味が持てないんですけども。
だからそれは自分がそういうこと興味ないんだっていうそういうこと言うのは簡単ですけども、やっぱりの政治のことお金の事知った方が生きやすくなるのは確かですし、そういうものはどうしても苦手で、そういうこと考えようとすると頭も止まっちゃうとかね、それはだから実は、これもイデオロギーなんだと。
だからイデオロギー自体を抽象化すると様々な苦手分野が克服されるはずだというふうに思うんですね。
もちろん人にはできる事できない事っていうのはありますけど、それはだから人それぞれね、能力が違うというのは、それはその身体的な都合ですよね、脳みそも含めた身体的な都合で、人には得意不得意があって、さまざまに限界があるでしょうけども、でもそれとその具体的な具象的なイデオロギーによって何か足止めされていると、自分の興味が足止めされているっていう、そういう可能性は十分にあるわけですよね。
だから可能性は、負の可能性というのは排除しなければならないので、どの分野に限らずね。
「どの分野に限らず」っていうのは、それが「抽象的に考える」って事ですよね。
イデオロギーを抽象化するとそういうことを心がけたいなというね、そういうその自分に言い聞かせる為にも動画にしたという次第でありますね。