一神教と現象学的還元
これまでも、結局哲学を突き詰めていくと宗教と一緒になるということは述べていたんですけども、いよいよそれが本当だなということが分かってきたんですね。だからフッサールの『現象学の理念』を一度読み終わったんですけど、何度も読み返してるというか、繰り返し寝る前にちょっとずつまた読み返したりして、それと旧約聖書ですね、これもちょっとずつ読んでるんですけども、そうすると同じところが見えてくるわけですね。
歴史を遡ると、ソクラテス、プラトンの対話編もそうですし、古代インドの『ブッダの言葉』もそうですし、古代中国の『老子』『孔子』の諸子百家もそうですけども、宗教と哲学って未分化だったんですけども、これが近代になって、哲学は哲学、宗教は宗教ということで分離した。結局、すべての認識というものが宗教として一緒くたになったものが、宗教から科学が分離することで宗教が相対化されるわけですよね。
そういう中で哲学というものも宗教から離れて独立するようになったのが、近代という時代の学問ですね。ところが結局は、フッサールを読み込んでいくと、フッサールに限らず西洋哲学というのは、つまり科学というものを含めた上での神学であり宗教であったわけなんですよね。そういうふうに私は捉えて、結局は宗教と哲学というのは一緒なんじゃないかと。だから私の元々の興味もそういうところにあったわけですね。
元々なんとなく哲学に興味があり、宗教にも興味があり、それは認識ってのは同時にスタートしたんですね。最初は入門書を読みあさってましたけども、だんだんいわゆる原書を読むようになったという経緯がありますけど、いずれにしろそうなんですよね。
そういうことで言うと、先日私の展覧会を水道橋で開催した時に来てくれた哲学科の学生さん、1年生ですね。その方とお話を伺ったんですけども、彼も元々は宗教に興味があったんだけども、いま日本の大学で宗教の勉強をできるところっていうと文学部哲学科というところで、だんだん哲学にも興味が出てきたというところで、そうやって人間の興味っていうのは、宗教に興味を持つ人は哲学にも自然と興味を持つ。なぜならそれは一緒のものだからという、そういうところがあるんじゃないのかと。もちろん人によって違うでしょうけども、私の場合はそうだし、いよいよ自分の認識が深まっていくとそういうところに来るというところなんですよ。
それで結局、旧約聖書の教えというのは何かって言うと、つまりはもうとにかく神様の教えというのは絶対で、疑う余地もなく正しいわけですね。神の無謬性なんですね。
今、改めて旧約聖書を読むと、色々と荒唐無稽な記述があって、神様が7日間で世界を作ったというところから始まってね、今読んでる下りはなかなか進まないですけども、モーセが神様から言葉を賜ったんだけども、神様が皮膚病の治し方とか、そういうことを述べるんですよ。
なるほど、そういうところまで神様がおっしゃるのかと思うんですけど、一つは旧約聖書って、前の動画でも言いましたけども、古代の人類の集合知なんですね。古代というか、原始時代から受け継がれている人間の知の集積で、様々な人間の言い伝えのパッチワークでできてるんですよ、旧約聖書というのはね。そういうふうに読めるわけですね。
だから、神が7日間でこの世界を作ったという記述にしても、記述が2回ダブついてんですね。神様は2回人間を作ったことになって、2回男女を作ることになって、その男女の成り立ちも、最初の記述は「神は人間を作って男女を作った」という記述ですけども、そのちょっと後に「神はまずアダムという男を作って、そしてアダムが眠っている隙に肋骨を取り出して、そこからエヴァを作った」という記述がダブついてて、あれおかしいなと思うんですけども、それもパッチワークでできているからなんですね。
パッチワークでできてるからだというふうに推測されるわけですよ。それで、それ以外にも神様が法律について語る下りがあって、つまり罪を犯した人をどうやって裁くかっていう、そういう下りが出てくるんですけども、それはハンムラビ法典のパッチワークなんですよ。私はハンムラビ法典も読みましたけども、明らかにそっからパッチワークして移植されてるわけですね。
そうすると、同じ古代バビロニアから、これも有名な話ですけども、ノアの箱舟の下りですね。神様が人類を滅ぼそうと思って洪水を起こして、正しい人間であるノアの家族だけを救って、ノアに大きな船を作らせるわけですね。そして洪水が起きて、だんだん洪水が引いてって正しい家族だけが生き残ったっていうその下りは、古代メソポタミアのギルガメシュ叙事詩のパッチワークなんですね。そっからその一節だけを切り出して旧約聖書にパッチワークされてるってことが、これが19世紀になって明らかになったわけですね。
19世紀になって考古学というものが発達して、古代メソポタミアの粘土板に記された楔形文字が解明されていくと、あれ、これって旧約聖書の記述じゃないかっていうことが明らかになるわけですね。そうやって考えると、神様の言葉として「皮膚病の治し方」っていう具体的な記述があると、これも他の部分のパッチワークなんじゃないのかなというふうに思えて、なかなか面白いなと思うんですけども。
いずれにしろ、旧約聖書は全てこれは正しいんだと、前後の文脈が矛盾していようが、パッチワークみたいだなって感じようが、とにかく旧約聖書っていうのは神様の言葉なので、それは
全部正しいんだと、それが前提になってるわけですね。
なぜそうなのかって言うと、まず人間の主観というのは間違うんだっていう前提があるわけなんですよ。まず自分はこう思うっていうこと自体が人によって違うわけですね。そうするとお互いに喧嘩になって、結局暴力が強いものが強くなるという理不尽な状況になって、そうすると文明が発達しないという状況になるわけですね。
それでなくても人は不安なわけですよね。世の中どうなっているのかってのは不安なわけですね。そうすると、神様っていう絶対の神様、つまり自分の認識が正しいかどうか不安ということの裏腹には、それがなんでそういう想いがあるかって言うと、どっかに正しい認識っていうのがあるはずだという確信があるわけですね。
その確信の元に、神様という絶対的な神様がいるというところに宗教というものが生まれ、絶対の神様というものが生まれるわけですね。
実は『サピエンス全史』によると、『サピエンス全史』も色々問題のある書物ですけども、一つ納得できるところは、ホモ・サピエンスがそれ以外のサピエンス、ネアンデルタールとかアウストラロピテクスとか他の類人猿と違うところは、自分が直接見たものじゃなくて、人伝えに聞いた噂話を信じることができる。そういうところで団結力を得て、他の人類種を圧倒して、他をみんな滅ぼしてホモ・サピエンスだけが繁栄したという説を唱えていて、それがどこまで本当かってのは分からないですけども、一つ説得力はあるなということなんですね。
自分が見たものしか信じない、自分が経験したものしか信じないというと、やっぱり物事の認識に限界があるわけですね。何でも自分で実際に経験してみないといけないですからね。でも自分で経験していないことであっても、私はこういう経験したっていう他人から聞くわけですね。そうすると自分が経験していないけど、自分が経験したのと同じ効果を持つと。そういうところでホモ・サピエンスは繁栄したというのは、まあそれはそうだろうなと思うんですけども、一方ではまず自分が見聞きして体験したことが本当なのかどうかもあやふやなのに輪をかけて、人から聞いた話が本当かどうかってのも分からないという、そういう二重の不安に陥るということがあるわけですよね。
だから絶対の神様というものを人々は欲するわけですね。そこに、どういう経緯か分からないですけども、旧約聖書という絶対の書物として結晶化するわけですね。
人類は原始時代から様々に神様というものを想定してきましたけども、ある時点で言葉を、人々の言葉、伝説を集めて書物に書いて、字に書くとそれが固定化されるわけですね。その固定化した書物を寄せ集めて、そして絶対の神様、間違えることのない神様というものを作り上げたというか、そういうものが発生してとにかくあるわけですよ、旧約聖書というものがね。
それが長い間、何千年という長い間、人々に信じられてきたというか、絶対的な指針としての役目を果たしてきたんですけども、近代になるとそれが相対化されるというか、実はそれは旧約聖書のバージョンアップなんですよ。科学革命ってのは旧約聖書のバージョンアップなんですよ。だからガリレオ・ガリレイという人は、ガリレオだけではないですけど、コペルニクスにしろダーウィンにしろ、旧約聖書のバージョンアップをしようとしたんですね。
私はガリレオ・ガリレイの本、このチャンネルでも以前に紹介しましたけども、ガリレオ・ガリレイというのはまずは敬虔なクリスチャンで、敬虔なカトリックの信徒なわけですね。そして聖書の無謬性をあくまでも信じている人なんだけども、神様が書いた書物というのは、神様が記した書物というのは聖書だけではないでしょうというふうに気づいたんですね。気づいたっていうか、そういうことは以前からも言われているんですけども、いよいよそれを全面に出すと。それがガリレオの考え方、認識なんですけども。
つまり、神様は7日間で世界を作ったと。つまり、この世界というもの自体、様々な動物、植物、そして宇宙に至るまで全ては神様がお作りになったので、それは世界自体が神様が書き記した書物に相当するわけですね。神様がどのように世界をお作りになったのかということを主体に観察することが宗教的な行為であるというふうに、ガリレオは述べたわけですね。
一方で、聖書というのは神様の言葉には違いがないけども、結局は人間の言葉で書き記してあるので、間違いがあるかもしれないということなんですよ。だからガリレオが述べたのは、まず聖書という書物があって、そして神様が書き記した書物としての世界があって、世界そのものがあって、どっちが信憑性があるんですかということがあるわけですね。
自然物っていうのは、つまりは人間の手が0%加わっていないことも明らかなんですよね。100%神様がお作りになった、神様の意思が反映された神様の言葉、これ100%なんですね。ところが聖書っていうのは、人間が書いた文字が混ざっちゃってるわけですね。最初に書いたのが神様だとしても、最初は印刷物はないですからね。だから聖書ってのも手で書き写すわけですね。書き写す中で記述の違いってのはいくつか出てきて、神学論争っていうのはありますけども、つまりどの記述が正しいのか、それとどの記述を聖書に含ませるのかっていう、そういうあやふやな状況というものが聖書の中には生じてしまう。それは神様の言葉であっても間接的に人間の言葉が入ってしまうという危うさがあるんだけど、ガリレオが言うのは、自然そのものというものはとにかく神様の言葉そのものであって、人間の意図は一切加えられていないから、これを主体に観察すべきだと。
そうすると、地球というのは実は平らじゃなくて丸いんじゃないのかと。そしてあらゆる天体は地球の周りを回ってるんじゃなくて、地球自体が自転しているんじゃないかと。そうすると、神様がお作りになった宇宙がどうなっているのかという合理的な説明ができる。合理的な説明ってのは、人間が説明するんじゃないんですね。神様がこのように合理的に世界をお作りになったと、神様の合理性の証明であり、神様の合理性の認識であるわけですね。それこそが人間の知性であり、神様のご意思に叶うことだというふうにしてガリレオは述べたんだけども、結局はつまらない人間の思惑によってその意見は封殺されて、ガリレオ・ガリレイは軟禁されて終身刑になってしまうわけですけども、結局はガリレオ以外のところから様々な科学革命というものが、科学的認識革命というものが起きて、結局
は科学の時代になって、宗教が相対化されてしまう。
宗教が相対化されるというか、旧約聖書の価値が相対化される、旧約聖書の意味が相対化される。それはガリレオの思惑通りだと言えるわけですよね。
この世界は神様がお作りになったと。この自然そのものを解明する、それはどうなっているのか解明すること自体が神のご意思に叶っているんだというね。
もはや、ニーチェが「神は死んだ」と述べて、多くの人はみんなそう思ってるんだけども、でも実は科学を極めた科学者ほど、神様の存在というものを意識するわけですね。科学的に認識を極めた科学者ほど、神様の存在というものを意識するわけですね。それは結局ガリレイの教えに沿っていると過ぎないというかね。
その延長でフッサールの現象学もあるわけなんですよね。フッサールの現象学っていうのは、実は科学的認識を超えているわけですよ。フッサールの問いかけというのは、フッサール哲学の問いかけというのは、科学的認識をいかに超えていくのかということなんですね。科学的認識というのは、まだまだ素朴な段階にある。つまり科学的認識っていうのは、人間の思い込みが含まれて、神のご意思そのものをきちんと認識するには至らないのではないかと。そういうふうにしてフッサールは現象学の理念の冒頭で述べているわけですね。
だから、人間の自然な感覚ということですね。科学的認識っていうのは、人間の自然な感覚を超えた客観的認識のようでありながら、実はまだまだ素朴な感覚が残っているんだと。この人間の素朴な感覚、勝手な主観的な思い込み、それでは神のご意思には到達することができないわけですね。人間の勝手な思い込みが邪魔するわけですね。それを100%完全に排除して神のご意思というものを理解して認識するにはどうしたらいいのかということで、フッサールは現象学的還元というところに至ったわけですね。
現象学的還元というのは、それだけは絶対に確実で間違いのない領域なんですよね。それっていうのは、元を正せば旧約聖書の記述は無謬性で絶対であるというところにつながるわけですね。
旧約聖書によると、神の教えに背くと死刑になるわけですね。さっきも言ったように、ノアの箱舟の記述ですけども、神様が自分で人間を作ったんだけども、人間の倫理感が堕落してきたので、じゃあもういっそのこと全部滅ぼしてしまおうと。神のご意思に反して人間の倫理感が失われると、それは死刑ということになるわけですね。
それと、神様が生贄をどのように捧げるかという手順をこと細かにモーセに伝える場面があるんですけども、その手順を間違ったり、それに反して違う手順を踏んだりすると、即死刑になったりするというすごい記述があって、とにかく旧約聖書の神様は怖いんですよね。でもそれは旧約聖書の記述なんですよね。
科学に沿って神様ってのはどういう、結局、科学的な法則、科学的な絶対的法則、物理的法則というのは、これは神様の絶対の法則なんですね。例えば、人間が食べ物を食べないと死刑になるんですよ、そういうことなんですよ。
そういうことなんですよ。だからそのまま人間、何日断食に耐えられるのかってのは、わかんないですけど1週間ぐらいはみられんのかな。水だけ飲めばきられんのかな。でもまあその飲まずでね、まあ3日もすれば死んでしまうと思うんですね。まあ1週間すれば確実に死にますよね。で、それはその科学的な現象だとも言えますけども、それ神様の絶対の掟なんですよね。人は7日間食わなければ死刑っていうね、そういうことなわけですよ。
あと呼吸ですね。呼吸止めるともっと早く死にますよね。だから人間、なぜ呼吸してるかって言うと、人間は呼吸しないと死刑なんですよ。そういうふうにして神様の掟が定めているわけですよね。
だから実は旧約聖書というのは様々な誤認が含まれていて、その例えばその神様に贄を捧げる時に、傷のない小羊1匹用意して、それを殺して血を抜いて焼いてね、焼肉にしてそれで捧げて、なんとかとかって、もうすごい面倒くさい手順があって、そんなのやってられないわけですね。で、そんなことやってなくても別に罰なんか当たりしないんですよね、実際はね。
で、それよりももっと具体的にね、人間、息止めて、なんか何十秒、1分、何分止められんのかな。まあとにかくあんまり自分で試したくないですけども、まず息止めると息が苦しくなるわけですね。苦痛が与えられるわけですね。それ、神様の罰なんですよね。息を止めると数十秒後にだんだん苦しくなるという罰が神様から与えられるんですね。そしてその罰に逆らってね、ずっと息止めたままにすると、お前は死刑だ、死刑になってしまうというね、神様によって。
で、それがだから科学的法則なんですよ。科学的法則ってのは神様が決めた決まり事なんですね。で、それは人間は絶対に守らなきゃいけないわけですよ。その約束を守るってことはありえないんですよね。それが科学的にありえないことはありえないということなんですね。
でもその段階ってのはまだ素朴なんだっていう。その認識の段階ってのはまだ素朴なんだというふうにしてフッサールは述べていて、それの究極的なところが現象学的還元だというふうに言ってるわけですよ。
だから、むしろ現象学的還元というのは科学を神学として認識し直すという行為に近いのかもしれない。つまりフッサールが批判した科学者が素朴だというところは、まあそういうとこにあるわけですね。だからその人間が息を止めると死ぬというのは、まあ科学的現象、物理学的現象、生物学的現象としては、それは確実に存在するんだというふうに述べていて、それはだからその科学的な体系として閉じてるわけですね、言ってみればね。
で、その閉じたところの科学的体系が世界を支配しているんだというふうに科学者は述べていて、その意味で神の存在は否定されているとも言えるんですけども、つまり科学的法則の中に、その外側に神の存在が想定される余地はないわけですね。科学的な閉じた体系の中に神様は存在しえないし、外にも神は存在し得ないというのが科学的体系なんだけども、それは実は客観的な認識ではなくて、素朴な自然な認識にとまっているんだと。
素朴実在論ですね。人間が本当に実在していて、息を止めると死ぬということも実在している。呼吸という現象も実在している。それはだから素朴な感覚に過ぎないというふうにしてフッサールは述べていて、それで現象学的還元というのはそうじゃないんだということなんですね。
で、それがいかに素朴なのかってのも散々、散々というか手を変え品を変え私は説明してきましたけども、だから全ては人間の主観的な現象に過ぎないわけですね。
だから息を止めて苦しくなるという主観的な現象、私が今息を止めたら苦しい。今喋ってる最中なんで息止められないですけども、そういう現象そのものは否定しえないわけですね。息が苦しいっていう現象そのものは否定しえない。だって自分が苦しいんだからですね。
でもそのじゃ自分の体内で何が起こってるのかっていうことは、それは分からないわけですね。それは人から聞いた噂話でしかないわけですよ。人間は肺によって呼吸をしていて、酸素を血液に送ってっていうのは単なる一つの知識であって、現象としては直接観察しえないわけですね。でも一方で、一つで聞いたその呼吸のメカニズムということ自体も、私自身の直接体験した現象としてあるわけですね。そうやって聞いたことがあるっていうのは確実ですからね。で、そういう知識が今ここにあるわけですね。自分でこうスラスラと言葉で出てくる。それは事実としてはあるわけですね。
だからそうやってその自分の主観に全てを還元すると、自分の主観的現象に全てを還元すると、それだけが確実なんだというところで、そうすると、その自分の主観に生じる現象というのは、どんな現象が自分の中に起きてるのかっていうのを仔細に観察するとね。この世界がどうなってるかじゃないんですよ。この世界、もうここに世界が存在するっていうのも自分の主観的な現象として存在して、その現象として存在するというところだけが確実なんですね。
その現象、確実な現象がどうなってるかっていうのを仔細に観察すると、それが現象学なんだけども、それが実はその、つまり現象ってのは絶対なんですね。つまり絶対の神様なんですよ。絶対に間違えることがない神様なんですよ。
で、絶対に間違えることがない神様が何をなさってるのか、何をご用意なさってるのか、何をお作りになったのかっていうね、そういうところをだから仔細に観察すると。そういう意味で、その現象学的還元、フッサールの現象学的還元というのは、その旧約聖書の時代から、それ以前かもしれないですけども、結局は人間はその世界がどうなっているのか知りたいというね。そしてその世界がどうなってるかという絶対の基準が欲しいという欲望があるわけですね。
それの今のところの究極形態、終わりの形態がフッサールではないかと。私が読んだ限りで言うと、そういうことになるわけですね。
だからフッサールより先に行くとしたら、フッサールの成果を踏まえて、つまりその現象がどうなってるのかっていうのを仔細に観察するとね。で、そうやって進める中で、私もこの『日本のうれしい場所』というね、こういう写真集、写真を作ることになって、で、これだから私の現象学的還元の成果の一つだと言えるわけですね。
結局、そうやっていくしかないわけですね。
というわけで、だから聖書読んで、フッサール読んで、そういう認識に至りましたというお話でした。