アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

アーティストがなぜ哲学を語るのか20231018


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糸崎公朗です。アーティストがなぜ哲学を語るのかという話をしようと思いますけども。この私のYouTubeチャンネルは、結局のところアーティストである私が哲学について延々と考えながら語っているというチャンネルになってるわけですけども、なんで哲学を語らざるを得ないのかっていうことですね。それについてちょっと思ったことがあったので、喋ってみようということなんですけども。

実は、私の師匠の彦坂尚嘉先生がYouTubeチャンネル「彦坂尚嘉チャンネル」の方で、作家がアーティストが自分の作品について語ることの難しさっていうのを動画で撮ったんですね。私が撮ったんですけども。その前に彦坂先生は、今ミサシンギャラリーで個展をやっていて、その作品解説の動画も撮ったんですよ。実は編集で随分いい感じにしたんですけども、本人は結構苦しそうに喋っていて、半分ぐらいカットしていい感じの動画にしたんですけども、その中で彦坂さんが語っていたのは、アーティストが自分の作品について語ることの難しさですね。

そこで、ラウシェンバーグの例を出して、結局自分についての解説をすると作品が悪くなると言うんですよね。結局、自分で作品解説して「これこれこういう理屈で自分の作品作ってます」と言うと、その理屈に引っ張られて、結局作品がつまんなくなるというか、理屈で作品を作るようになってしまうわけです。それは僕も気をつけている点で、私は一方ではフォトモという作品でデビューしてくるんですけども、そのコンセプトを随分考えて、そのコンセプトについての文章を書いてきたんですね。

そもそも作品とはコンセプトであるということは普通に言われていることですし、私が直接影響を受けたのは、赤瀬川原平さんの超芸術トマソンでありまして、これは超芸術トマソンとはこういうものであるというコンセプトがあったわけです。そういうコンセプチュアルアートであったわけですよ。それはひいてはデュシャンレディメイドを下敷きにしているというか、そういう感じで、やはりアートというのはコンセプトなんだと。

フォトモというのは、ありていに言うとオモシロ芸術なわけで、単なるオモシロ芸術と思われたくないと。ちゃんと理屈で考えて作ってるんだというところで、現代思想の入門書や哲学の入門書を読み始めたという経緯があったんですね。だから一つは、なぜアーティストが哲学を語るのかというと、それは結局コンセプトの説明なんだと。自分の作品の解説なんですよね。だから、なぜ私が哲学を語るのかというと、それは自分の作品の解説のためなんですね。そういうことだったんだ、ということを彦坂さんの話を聞きながら思ったわけです。

ところが、私が入門書だけを読んでいた時期というのがあったんですけども、ある時から自分のフォトモとは何かという説明が毎回同じになってしまうということになったんですね。そういうふうになってきたんです。だから、毎回毎回「フォトモとは何か」という違う説明をしていくために、考えを掘り進めていくことが必要なんですが、ある時から同じ説明になったんですね。それをおかしいなと思ったわけです。

何かある正解にたどり着けば、それはいつも同じ説明になるという考えもありますけども、しかし何かおかしいなと思ったんです。それは最初に言った彦坂さんが「説明をすると作品が悪くなる」ということと繋がってくると思うんですけども、毎回同じ説明になってしまうということは、作品も毎回同じになってしまうということです。そういうふうになってしまうんじゃないのかなと。

実際、私のフォトモ自体も結局行き詰まるというか、フォトモというコンセプトで写真を切り抜いて立体化するということでいろんな手法を試していったんですけども、ある時から全ての手法を試し尽くして、自己模倣になってきてしまうというか、同じことを繰り返してしまうわけです。それが自分としては面白くないというか、クリエイティビティとは違うというかね。フォトモの面白さというのは、誰もやったことがない表現で、自分も見たことのない表現だから面白いからやってる、というのはあったんですけども、ある時から繰り返しになってしまったんですね。

それと共に、「フォトモとは何ぞや」という説明も結局は繰り返しになってしまい、それはまずいなと思っていたんです。その中で、まさに彦坂先生と出会って、「哲学に興味があるんだったら入門書なんか読まずにプラトンから読め」と。そして古代インドのブッダも勧められました。そういうちゃんとした哲学書、そしていきなり難しいフッサールを読むのは難しいので、古代の哲学ですね。古代の哲学というのは本質を突きながら読みやすい。そこで、ちゃんとした哲学書を哲学者が書いた入門書ではない哲学書を読むようになったんです。

そうやって認識が深まっていったわけですけども、そういうことで言うと、結局私は自分の作品解説の延長で哲学を語っていて、そこから境界線がなくなってきたんですね。つまり、私の場合は作品と作品解説の境界線がなくなってきて、結局作品解説をするところの哲学そのものが作品になってきた。それがこのYouTubeチャンネルの一連の動画のコンセプトで、「なるほど、そういうことだったのか」と思ったわけです。

結局、芸術とは何かというと、それは認識の問題になります。つまり、アーティストがどのようにして世界を認識しているかということがダイレクトに作品に現れる。それが作品なんですね。アーティストがどのようにして世界を認識しているかということが、すなわち作品なわけです。それはレオナルド・ダ・ヴィンチの作品にしろ、葛飾北斎の作品にしろ、彦坂尚嘉先生の作品にしてもそうなんです。今、ミサシギャラリーで彦坂尚嘉展をやっていますけども、彦坂尚嘉がどのようにして世界を見ているのか、どのように世界を認識しているのかということが作品に現れているわけです。

そういうことで、彦坂先生も哲学を読んでいる。だから、彦坂先生の影響で私もフッサールを読むようになったわけで、フッサールを読んでラカンを読んで、そしてフロイトも読むようになり、『ブッダの言葉』も読むわけです。なんでそうやって哲学をやるのかというと、それはやっぱり哲学というのは認識の枠組みなんですよね。だから、美術家というのは結局哲学をやらざるを得ないし、美術というのは、芸術というのは、言ってみれば哲学そのものなんですね。アーティストが哲学を表現する。それが絵であり、彫刻であり、私の場合は今映像を撮ってますけども、そういうものになるし、そして今私で言うとこの喋り自体ですね。この映像と喋りの組み合わせです。

一方で、最近のアーティストには哲学がない。哲学がないのが今的とも言えますけども、結局哲学のないアートがどういうものかというのは、今のアーティストはよく表していると思います。しかしさらに言うと、哲学に哲

学があるのかという問題もあります。例えば、武田青嗣先生やメルロ・ポンティにしても、「現象学は難しい」と書いています。現象学が難しいのは確かですが、これはやはり必須課題なんですね。現象学というもの自体をマスターしないと始まらないところがあるんじゃないかと。分かるとか分からないという問題ではないような気がします。

やはり、芸術というものも、そして哲学というものも現象学的に捉えないと始まらないわけです。フッサール現象学というところまで人間の認識を掘り下げたわけで、現象学というのは人間の認識の到達点なわけです。近代文明が進み、現代文明が進み、そうやって今の進歩した世の中があるわけですけども、進歩した世の中における進歩した認識が現象学で、これをマスターしないと始まらないわけです。実際に言うと、前の動画でも言いましたけども、結局人力の時代が終わりました。何もかも機械に置き換わってしまった時代で、人力で現象学を理解する時代はその意味で終わっているということです。

人力の世界においては哲学のないアートがまかり通る。つまり、コンセプトのない芸術がまかり通り、説明のない芸術がまかり通るわけです。一方では説明困難な領域というのがあって、私も自分の作品について、この映像だって「この映像はどういうコンセプトで撮りました」「どういうカメラを使って、どういう組み合わせで映像を加工している」ということは口で言えますけども、その口で説明したことが全てなのかというと、そうではないわけです。

結局、観客の側、あるいは多くの人は両極端に傾く。説明すると説明しか理解しないし、説明が不可能だというと、説明ゼロで何かを作ったり、説明ゼロ、つまりコンセプトゼロで作品を作ろうとするわけです。どっちかの両極なんですね。説明できる領域と説明できない領域があるわけです。むしろ私は、説明できない領域をはっきりさせるために説明するというところがありますし、あるいは私が語っている哲学が何かの説明なのかというと、そうではないわけです。

つまり、フッサールにしたって現象学の説明をしているわけではないわけです。私が認識したこと、今回私が認識したことというのは、説明ですよ。説明でいいんです。なぜ私が哲学を語るのかというと、それは作品の説明のためなんですね。元はそういうもんなんですよね。その説明そのものが作品になっていく。私の場合はね。哲学とは説明であるということで、その意味では良いのではないかと思うわけです。

という話でした。どうもご視聴ありがとうございました。