アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

現実と現象20231023


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糸崎公朗です。「現実と現象」という話をしようと思いますけども、相変わらず現象学の話なんですね。とにかく現象学は難しいというのは、竹田青嗣さんも、そしてメルロ=ポンティも述べていますけども、そして私が読んでいた『現象学の理念』ですね、それの日本語の翻訳者もそのように述べていますけども、なんで現象学が難しいのかっていうと、それは現象学が難しいというよりも、人間の存在、ひいては自分の存在そのものが実は非常に難しいんですね。ですからやはりこの難しいという状況をどうにかするために、最近は現象学と私は格闘している最中で、それで色々連続して喋っているんですけども、最近、橘玲の『世界はなぜ地獄になるのか』っていう本を読んだんですね。そして『無理ゲー社会』というね、これも最近買って読み始めたんですけども、言ってみればどっちも通俗的な社会批評というか新書本なんですね。

有り体に言うと、現実をよく捉えている、現実の過酷さをよく捉えている本なんですよ。テーマとしては、世界はなぜ地獄になるのか?というと、世界がリベラル化していくと、つまり橘玲さんが言うところのリベラルというのは「誰もが自分らしく生きられる社会」というね、それの実現を目指していくというのがリベラルで、それは現代の感覚では当たり前とされているんですけども、人類史上で人間が自分らしく生きられるっていうことはずいぶん新しいんですね、ここ数十年のことなんですよ実はね。それによって実は逆説的に地獄が出現していると。誰もが自分らしく生きるっていうことを追求することによって、結果的には非常に息苦しい世界が現れていると。この矛盾をどうにかしなきゃいけないっていうようなことを訴えた本なんですけども、なぜこういう状況になるのかっていうと、私の認識で言うと、その一つは大衆社会だからということなんですね。

それも当たり前な話と言えるのかもしれないですけど、現代は大衆社会というのが当たり前の常識としてあるわけなんですけども、一方でオルテガが『大衆の反逆』を書いた時代ですね、それは第二次世界大戦の前ですけども、さらにその前の十九世紀にニーチェオルテガに先行する形で大衆批判をしたんですけども、その時代は、オルテガニーチェの時代は大衆とそれ以外の対比があったんですね。大衆社会が進行しつつあるとはいえ、大衆ではない人たちが存在していたんですけども、今や100%大衆の時代になったんですね、ほぼ100%の時代になったわけですね。

これはオルテガも指摘していましたけども、社会階層のあらゆるところに大衆が進出してきたということをオルテガが述べていて、今もう現時点でそうなってるわけですよね。だから有り体に言うと、社会の支配者層と言われている人たちですね、そして橘玲さんの言葉を借りると上級国民という存在も、それは大衆なんですよ。結局は上から下まで大衆なんですよ。で、そういう社会において非常に理不尽なことが起きていると。私から言わせると、そもそも大衆というのは理不尽な存在なんですね。大衆がいかに理不尽なのかっていうことをニーチェなりオルテガなりが切々として訴えたわけですよね。

それを引き継いで言うと、とにかく大衆が理不尽だとね。大衆社会が理不尽なのは、大衆が理不尽だからだっていう、そういうことではないかと私自身は思うんですけども、なんでそんな理不尽な状況が起きるのかというと、つまり現象学的に考えるとですよ、私の解釈ですけども、現象と現実ですね。つまり橘玲さんは『世界はなぜ地獄になるのか』とかね、『無理ゲー社会』とかね、そういう形で現実社会の現実を克明にあけすけに告発していますけども、でもその現実そのものというのは、実は現象なんですね。

理屈ではそういうことになってるんですけど、なかなか実感として理解するのは難しいと。だから現象学は難しいんですけども、だから橘玲さんの本は非常に優れていますけども、一方ではポジショントークなんですね。例えば、心理学を引き合いに出して、人間の脳というのはこれこれこういう性質があるから救いようがないみたいな、そういうことを言って人々の不安とか絶望感を煽るんですね。私には煽ってるように思えるんですよ。だから、人間の脳の性質による心理学っていうのは一方ではその通りなのかもしれないですけども、一方で100%それを鵜呑みにしていいのかしらって思うし、橘玲という人自体も匿名のペンネームなんですよね。で、ベストセラーをバンバンと矢継ぎ早に出して、だから売るための戦略として一般的にビジネスの世界で言われることは、人々の不安を掻き立てると本が売れると。だから橘玲さんもそういうセオリーに乗っ取って不安を掻き立てるという、その意味でのポジショントークをしているに過ぎないという風にも見えるし、だからその意味で非常に現実そのものが矛盾と不条理に満ちているということと、橘玲さんの本の書き方自体が錯誤を含んでいると、そういうところも全部含めて現象なんですね。

つまりフッサール現象学に従うと、この橘玲さんの本というのは自然的態度における学問なんですね。あくまでも現象学的にものを語っているわけではなくて、自然的態度における学問と。その意味において厳密に書かれているという風にも言えるんですけども、だからこそ必然的に矛盾や不条理をはらんでしまうわけですね。フッサール現象学の理念において、自然的な学問というのは結局は矛盾や不条理を含んでしまうという風に述べているわけなんですけども。

だからなんで自然的態度の学問が矛盾や不条理を含んでしまうかというと、現象というのはそういうもんだからなんですね。現象というものは矛盾や不条理を含んでしまうんですよ。そういうもんなんですよ。で、それってのはつまりは私の解釈で言うと、フィクションと変わりがないんですね。つまり現実というのは実は確固として現実があるわけではなくて、全ては現象なんだっていう言い方は、つまり現象というのはフィクションと同じなんですね。フィクションっていうのは現象なんですよ。

だからこの橘玲さんの『無理ゲー社会』で興味深かったのは「メリトクラシーディストピア」っていう章があって、で、メリトクラシーっていうのは今のこのリベラルな社会というのがメリトクラシーの社会なんですね。で、メリトクラシーってのは何かっていうと、メリトっていうのはメリットなんですよ。メリットが社会を支配するという、そういう社会体制なんですね。つまり人々はチャンスにおいて平等に開かれているとね。誰でも高校や

大学への受験資格が与えられて、誰でも勉強して努力すれば高学歴を手に入れられるし、高学歴を手に入れると良い会社に就職できてお金が儲けられると。で、そうじゃない人は努力が足りないような人は低学歴に甘んじる、そして低所得に甘んじるしかないというね、そういう要は実力社会ですよね。

それをメリトクラシーと表現されていて、今の時代はメリトクラシーだと言われているし、アメリカは特に日本よりもメリトクラシーが徹底していて、学歴による社会格差っていうのは大きいんだという風に橘玲さんが指摘していましたけども、このメリトクラシー社会を予言した小説というのがあって、これは1958年にイギリスの社会学者であるマイケル・ヤングという人が小説にしたんですね。『メリトクラシーの興隆』という小説を書いていて、だからその1958年の段階で、これからの社会はメリトクラシーになるんだと。機会均等に基づいて人々の才能と努力を公平に評価する社会が訪れるという予想をしたSF小説なんだけども、同時にそれはディストピアですね。

で、つまり今の社会っていうのは、結局は生まれながらの身分っていうのが近代以前の社会だったわけですね。生まれながらの身分によってその人の運命が決まるというのが近代以前の社会でしたけども、近代以降、現代においては実力社会なんだとね。誰でも才能があれば、そして努力によっていくらでも社会的に高い地位に就けるということになると、逆に言うと私なんかもそうですけど、結局学校の勉強が苦手なんですよ。それってのは才能がないということもあるし、努力する才能がないということもありますし、結局はだから人間の能力って遺伝的な要素ってすごく強いわけですよね。

そうすると結局は、結局は才能という才能の有無という意味で、遺伝的な格差、生まれの格差っていうものから人間っていうのは逃れることができないというかね、結局格差ができてしまうというね、その問題が解決できないじゃないかと。で、そういう未来の状況をイギリスのヤングという人はメリトクラシーという言葉で指摘したんだけども、それが見事に当たってしまったわけですね。で、このヤングという人の『メリトクラシーの興隆』という小説は、実は橘玲さんに言わせると小説としては非常に読みづらくて退屈らしいんですよね。だから日本語訳もされてないみたいなんですけども、でもAIの登場まで予測していて、かなり的中率が高いんですね。それで橘玲さんのこの『無理ゲー社会』という本に取り上げているんですけども。

結局、そのようにして、小説ってのはつまりは空想の産物なんですね。現象なんですよ、小説ですから。それは字で書いてある、字で表現された現象に過ぎないわけですね。現実ではないんですね。でも、その現実ではない現象でしかない小説が1958年の小説ですからね、65年経って当たり始めてるわけですね。で、そうやって現実に適中するSFってのはいくらでもあるわけですよ。

2001年宇宙の旅』も、スペースシャトルそのものは実現したんですけども、宇宙ステーションに人間が恒常的に往復したりとか、月面にアメリカ軍のものすごい基地ができるとか、そういうのは全部外れてますけども、例えばテレビ電話とかね、テレホンカードとかね、そういうものは現実には実現していて、なんだったらテレフォンカードそのものはもう現実の世界ではとっくに過去のものになってるんですね。あと顔認証っていうのもね、そんなもんできんのかって思ったら、2001年宇宙の旅ですよ。それも今は当たり前の技術としてあるわけで、つまり私が言いたいのは、サイエンスフィクションの想像の世界が、ある部分では外れてるんですけど、ある部分では当たるっていうね、そういうことがあるっていうこと自体、フィクションの世界と現実っていうのは変わらないっていうね、結局は同じ現象としてカテゴリーされるものに過ぎないわけですよ。

だからこれはその私の前の動画の繰り返しになるんですけども、肝心なことはですよ、やっぱりね、哲学的認識において当事者意識というのは非常に大切なんですね。だから哲学に限らず、学者と称する人が陥りやすいミスというか、そこで足元を掬われるのは、学者は学問を対象物として扱うのであって、対象物と学者としての自分自身は無関係だっていうね、距離を置くんだっていう、そういう立場でいると、それは実は学問にならないんですね。それこそ自然的学問の最たるものなんですよ。

ですから私もこのチャンネルで前にも述べましたけども、フロイトが『精神分析入門』を書いた時に、まず最初に取り上げるのは「自分自身を精神分析することが大事です」ということなんですね。他人のことよりまず自分のことをどうにかしろっていうことなんですよ。だから精神分析の方法論を説くために、まさにフロイト自身を様々に精神分析することで見本を示すんですね。で、そうやって精神分析っていうのを。だから精神分析っていうのは有り体に言うと、頭のおかしい精神の病気にかかった人を治療する方法論なので、健康であるところの医者は関係ないというかね、健康であって何にも問題のない医者が病気の人を治すと、そういう立場で精神分析にのぞむと、それは間違いだし、足元をすくわれるというふうにしてフロイトは述べているんですね。

そうじゃなくて、人は誰でも精神病者なんだというふうに認識したところが、フロイトの真に偉大なところの一つなわけですね。人は誰でも精神病から逃れることはできないと。そもそも精神的に正常な状態って何なのかっていうと、それはだから相対的なものであって、定義できるなものではないと。だから誰だって精神分析の対象者であるし、それは医者である自分自身も例外ではないと述べているわけですね。

それはプラトンソクラテスの時代から変わらないわけですよ。だからソクラテスが洞窟の例えで述べたことは、人は誰だって洞窟の中に閉じ込められて、そしてその影を本物だと錯誤している存在に過ぎないというふうに述べたのは、ソクラテス自身が自分もそのような認識をしているに過ぎなかったというね、そういう自分に対する反省を含めているわけですね。

ですからソクラテスが自分で死刑を受け入れて毒杯を仰いだというのは、直接自分が死刑と言われて死んだことが正しいかどうかっていうのは議論がありますけども、でも結局哲学というのは他人のことをとやかく言うのではなくて、自分自身のことを述べるわけですね。だからその意味で言うと自他の区別がないというかね、他人事と自分事を区別しないというかね、それが哲学の基本なんですよ。

だから自分のことを棚に上げて他人のことをとやかく言うということが最も哲学に反することなんですよ。ですからそれは現象学にも同じことが言えるはずなんですね。ですからまさに私自身の反省も込めて言いますけども、現象

学っていうのは、自分が現実だと思っていることが実は現象なんだということを冷静に判断し、認識することだていうね。

だから例えて言うならば、今私がこの目で見ているものというのは、生物学的に言うと網膜のスクリーンに映っている像にすぎないわけですね。で、それで言うと我々が見ている現実というのはまさに映画を見てるようなものなんですよね。映画のスクリーンに映像が映されて、そしてスピーカーから音が流れると。そして主人公がピンチに陥ると、我々も主人公に同調して何かハラハラドキドキしたりとかね、ミッションが成功すれば自分も嬉しく思うと、爽快な気分になると。

ところが映画が終わると素の自分に戻るわけですね。で、なんだったら映画を見ている最中でも、主人公に感情移入しつつ、その映画を見ている自分は映画の登場人物とは別人格なんだというのをちゃんと分かっていながら映画を見てるわけですね。だからそれ以前のもっと素朴な田舎の人は、映画を見て悪者が出てくると「こいつ怪しからん奴だ」ってスクリーンに向かって殴りかかってくるっていう例が、実際にも昔はあったみたいですけども、さすがに現代人でそこまで素朴な人はいないんですけども。

でも素朴で自然的な態度ということで言うと、まず現象学の入り口としては、この世界、自分が見聞きしている世界は実は映画のようなものだという風に認識するというのは現象学の入り口としては正しいんですけども、でもそこで止まってしまうと現象学にはならないんですね。つまりそれは自分ごとにはならないんですよ。映画のスクリーンっていうのは、映画っていうのは映画の中の出来事っていうのは、観客である自分とは分離した他人事でしかないんですね。

で、その現の認識の真に現象学たる所以、そして真に難しいところは、実は映画を見ている自分自身は映画を見ている観客であると同時に、映画の登場人物なんですね。これが重要なんですよ。だから、同様の話はそのSF、サイエンスフィクションと現象学かな、そういうタイトルの動画で私は述べましたけども、自分というのは物語の登場人物なんですね。映画の登場人物なんですよ。そこが難しいところなんですよ。

だから、現象というのは、つまり自分自身が体験して目に見えて、そして耳に聞こえる現実だと思えるものは、全て現象にしか過ぎないんだと。網膜に映った映像であり、そして耳の振動ですね、音の振動ですね、それが脳に伝達するわけですよね。で、そもそも網膜に映る像があるとして、その像に先立つ現実の世界ってのはあるのかないのかってのは人間には確認ができないっていうのも、フッサール現象学の指摘なんですね。

だから人間としては網膜像が映っていて、それが見えているという現象を丸ごと受け入れるしかないんですけども、一方で自分自身は映画の登場人物の一人でしかないんですね。だから現象学的に考えると、自分はその映画の中のストーリーであるとか、映画の中の設定に従うしかない存在なんですね。これがまた驚きなんですね。

だから、最近読んでる本で言うと橘玲さんが『世界はなぜ地獄になるのか』とか『無理ゲー社会』とか、そこで描かれる現実の社会ですね、現実のリアルな社会ですね、そんなもの現象に過ぎないんですね。ところがその現象に我々も従わざるを得ないんですよ。なぜかというと、そこで描かれる現象の登場人物なんですね、我々はね。そこから逃れることはできないんですよ。

だから、これも私の前の動画で何度か指摘したことがあるかもしれないですけども、つまり多くの哲学者とか精神分析家とか称する人は、多くの、ていうかね、私がこの人は信用ならないなとかね、この人全然分かってねえなって思う人は、自分は観客席にいる人はとにかく信用できないんですね。観客席にいて高見の見物をしているような立場の学者っていうのは全く信用できないし、それは学問ではないんですよね。学問っていうのは、つまり学者っていうのは当事者なんですよ。舞台の上の当事者なんですね。

舞台の上の当事者だから問題に向き合うという、どうにかしなきゃっていう問題意識があるわけですよ。だから、その意味で言うと、そのこれは何度も私は自分自身に言い聞かせるんですけども、そのこの世は映画であり舞台なんですね。それを私は見てるんですよね。これは映画の世界であり舞台の上でのお芝居に過ぎないんだと、そういう認識が一方であるのと同時に、自分は結局はその舞台の役者で、舞台を演じ、そしてそのストーリーの設定通りに動くしかないんですね、ということなんですね。

だからこれはかなり理不尽な状況なんですよ。だから僕自身は現象学を学び始めた当初ですね、フッサールが分かり始めてきたって実感したその最初の方は、この現象学をマスターしたら、この偽りの認識の世界から脱出できるっていうふうにして思ったんですよね。全部が現象だったら、この現象学をマスターしたら現象の外側に出ることができるのではないかと。それによってあらゆる問題が解決できる、解消できるのではないかっていうにして思ったことがあって。

その意味で自分は超人になれるんだと。現象学をマスターしたら人は超人になれるっていうね、そういうふうに思った時期があったんですけども、で、これも最近の動画で言いましたけども、『進撃の巨人』の主人公のエレン・イェーガーが塀の外に出たいと思って、かなりの犠牲を払って塀の外に出たんだ。出たんだけども、塀の外に出たって認識は変わらなかったし、なんだったら外の世界なんか知らなければ良かったって思うわけですね。

だからその意味で言うと、結局現象学をマスターしたからといって、現象学的認識を習得したからといって何か変わるわけではないし、むしろ何も変わらないということが理解されるだけにすぎないわけですね。なぜなら結局は、自分が現実だと思ってるこの世界は映画にしか過ぎないんだっていう、そういう認識が得られたとしても、でも自分はその映画の登場人物の一人にすぎないんだっていう、このことの現象自体を変えることはできないんですね。

どこまでも自分自身は現象に対して他人事であることはできないんですよ。だから私が夢想した超人になれるということは、この現象に対して自分自身だけは他人事の立場でいられると、その意味で現象に対して自由な立場でいられるというふうにして思ったんだけども、実際にはそうではなくて、いかに現象を現象として認識したところで、自分は現象の登場人物の一人であり、現象の設定に従うしかないんですね。現象の理不尽ででたらめな、何の根拠もない設定に従うしかないんですね。

で、この現象がいかに理不尽でデタラメなのかということは、橘玲さんの一連の著作に記されている通りなんですね。だから結局は人っていうのは、現象学的な認

識を深めることが実は大切なんですけども、同時に自然的態度の学問ということは必要不可欠なんですね。

だから今回取り上げた橘玲さんの一連の本を深く理解して、今の状況っていうのはこういう状況なんだと、その中で自分はどうしたらいいのかっていうことを仔細に考察すること、仔細に認識して、仔細に考察することは、これはだから現象学的認識ではなくて、その限りにおいては自然的態度の学問なんですね。自然的態度の学問を現象学的態度において行うんですね。

そういうことなんですよ。自分は映画の中の登場人物の一人に過ぎないと、そしてこの映画の中の設定っていうのは物語設定ってのはどういう風にされているのかっていうね、そういうことを深く調べるということが、結局登場人物としてはそういうふうにするしかないわけですね。

この映画の設定の中では、例えばどのような物理法則が設定されていて、そしてどのような歴史的経緯が設定されているのかっていうね、そういう設定の問題でしかないんですけども、でもその設定を仔細に認識するしかないわけですね。

この世界では法律がどのように設定されているのか、そして人々の倫理感とかモラルというのはどのように設定されているのか、もしくは人々の性格設定、自分の性格設定、そして多くの人の性格設定と自分の性格設定の差異、能力差、自分の能力そのもの、人間の能力そのもの、それは架空のフィクションにおいてどのように設定されているのかっていうことを仔細に認識する。それはだから精密に設定されたSF小説SF映画と変わらないわけですね。現実というのはね。現実っていうのはだから精密に設定されたフィクションにすぎないんですよ。

そしてその精密に設定されたフィクションの中の登場人物の一人が自分自身であり、自分自身もまたフィクションの中で性格設定、人格設定、能力設定されているわけですね。それは自分が望んだものではないですからね。で、その意味では、これも繰り返しになりますけど、自分というのは非常に無力だし、自分が行う哲学的認識というのも無力なんですね。

だからその無力さということを十分に認識するということが、認識を深めるというね、そういうことに繋がるわけなんですけども。

だからこのチャンネルの方針としてはですね、私のYouTubeチャンネルの方針としては、おかげさまで登録者が600人を超えて、1000人までもうちょっとっていう、なかなか難しいですけども、やっぱ人間の認識って二種類あるんですね。つまり現象学的なメタ認識と、それとフッサールが言うところの自然的態度の認識ですね。で、自然的態度の認識っていうのも実は必要なんですよ。

だから自然的態度の認識に一方ではシフトしていくというかね、そっちの方向でもこれから喋っていこうというのはあるんですけども、このチャンネルに関しては自分のために喋っているので、何が優先されるのかってのまた別問題ですけども。

とにかくそこまでは整理がつきましたよという話でありました。どうもご視聴ありがとうございました。