アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

映画と現象学20231030


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また引き続き現象学についてですね。でまた同じような内容の繰り返しになるかもしれないですけども、私は私で現象学というものをマスターしたいわけですね。で現象学をマスターするってのはどういうことなのかっていうと、いま哲学について考えながら喋ってますけども、あと本読んだりとかね、そういう時にだけ哲学的思考をして、そして日常生活に戻るとまた自然的な態度に戻ってしまうと、それではいかんわけですね。常に哲学的認識で生活すると、そういうことができて初めて現象学をマスターできたと言えるんじゃないのかなと思うわけですね。

で、それをいかになし得るか、いかにして可能にするかということで、「哲学と生活の一致」ということを目指して色々考えているわけです。

で、先日リアルに会った友達、実際に会った友達に「現象って何ですか?」って端的に聞かれて、その時に「現象学の現象っていうのは映画のようなものなんだ」というふうに答えたんですね。それによって相手に何が伝わるっていうこともないだろうと思うんですけども、でも私自身の理解としては、現象学の「現象」を、もはや「映画」と言い換えて言い切っちゃっていいのかなと思ったんですね。

それがフッサールの述べたことと一致するかどうかということではなくて、私自身がいかに理解するか、いかにさっきも言ったように哲学と生活を一致するか、というその課題において、現象学の現象というのは映画のことなんだと、だから現象学ってのは映画学と言い換えてもいいわけですね。現象学というのは現象の研究をするわけですけども、結局「現象」っていうといろんな意味があるので日常生活に応用しづらいというか、結局日常生活に戻ると現象って考えていたことが忘れられてしまうと、むしろ映画の方が具体的で私にとっては馴染みがあるわけですね。

現象学は科学を批判する形で出てきますけど、でも科学的認識の土台があって現象学ということが出てきたわけで、そして20世紀以降、映画というものが一般化して、今は映画も劇場で見るだけではなくて、かつてはテレビがあったし、YouTubeでも映画を見ることができるし、映画と謳ってなくてもこの私のYouTubeチャンネルもそうですけど、全部映画なわけですね。

今は映画の時代なんですよ。でこの映画の時代において、現象学の現象っていうのは結局は映画なんだと置き換えると、その置き換えをいかに徹底するかっていうことで、繰り返し言葉を変えながら喋っているわけですけども、最近のこのYouTubeチャンネルですね。だから単的に言うと、現実というものは存在しないんですね。現実は存在しないし真実は存在しないんですよ。で全ては映画の中の出来事に過ぎないわけですね。さらに肝心なことは、自分自身がこの映画の登場人物のうちの1人なわけですよ。

だからフッサールがなぜ科学者を批判するかと言うと、科学者っていうのは自分が映画の中の登場人物の1人であるという自覚がないんですね。だから自然的態度によって、自分の意識に外部世界が存在するんだと。でその外部世界が存在することを前提に、いちばん肝心なことは科学者が求めているのは論理的な整合性なんですね。論理的整合性なんです。だから科学者っていうのはこの世がどうなっているのかを解明しようとしてるわけですね。この世がどういうふうになっているのか、つまり矛盾なく辻褄が合うように、全ての事象について説明するというのが科学の目的なんですね。

でそれがそもそも間違いだということが私にもようやく理解できたんですよ。つまり世界が辻褄が合ってるはずだっていう設定が先にあるんですね。世界は論理的整合性によって矛盾なく説明できるはずだ、という設定が先にあるんですよ。でそれこそがフッサールがいうところの「超越」なんです。有りもしないことなんですよ。

これは『老子』の第一章の冒頭ですね。人間はよくう人間はっていうか、欲が無いと物事の妙を見ることができると、そして欲が有ると物事の表面上しか見ることができないという風にして老子は述べているんですけども、この場合の欲っていうのは、欲が有るっていうのはつまりそれは世の中というのは論理的整合性があって、そのように世の中というのは世界っていうのは組み立てられていて、それを矛盾なく説明できる原理を人間は解明することができるんだというところが欲なんですね。そういう欲なんですよ。でその欲が認識の間違いの元なんですね。

でこれ最近読んでる立花玲さんの本を読んでいて、『世界はなぜ地獄になるのか』とあと『無理ゲー社会』と、あとなんだかな、まとにかくその辺の一連の本の中で立花玲さんが主張してるのはその人はなぜ陰謀論にはまるのかっていうことですね。つまり彼はディープステートを批判しているんですけど、そういう陰謀論になぜ人ははまるのかというと、その世界っていうのは非常に複雑にできてて分かりづらいわけですね。だからその自分に分かりやすい物語に落とし込んで、辻褄の合った物語を信じると、それがその様々な陰謀論になるんだという風にして述べていて、それは一方ではもっともだと思うんですけども、でもその世界を辻褄の合った物語で理解したいというのは実は科学者がそうなんですね。

でそれと陰謀論者を批判している立花玲さん自身がそういう態度なわけですね。それっていうのは人の欲望の根底にあるんですけども、それっていうのはつまりは自然的態度なんですね。

で私がその現象学の現象を映画に置き換えるというのは、そこをどのように理解するかというポイントとしては非常に重要なんですよ。つまり全ては映画なんですね。映画の世界の中なんですね。そして全ては映画の設定に過ぎないんですよ。映画の設定に過ぎないということは、この動画でも、このチャンネルの動画で前の動画で繰り返し述べましたけども、その辻妻なんて合ってないんですね。論理的整合性もないんですよ。恣意的で不条理ででたらめなんですね。恣意的で不条理で出鱈目な、そういう法則によって我々は縛られているんですね。

なぜかというと我々もまたそのでたらめな設定の映画の登場人物だからなんですよ。ここが肝心なんですよ。全ては映画であり、映画というのは映画の都合に合わせたでたらめな設定によって成り立っているんだけども、そのでたらめの設定の中に我々も含まれているんです。だからその物理法則、絶対の物理法則に我々は従わなければならないわけですけども、それっていうのはその法則が絶対の真実であるとか、絶対の真理であるとか、絶対の実在であるとかではないんですね。

でそもそもその物理法則はなぜ存在するのかっていうね。だから前の動画でも言いましたけども、なんでその人間は地面からふわふわ浮いたりしないで

歩いていられるのかっていうね、地球上の全ての物体は地面にこうくっついてるわけですね。でそれが何なのかっていうのは究極のところは分からないんですね。

で科学者の側で言うとそれはいつか解明できるはずだと思っていろんな実験したりいろんな理屈を述べたりするんですけども、そういう態度自体がナンセンスなんですよ。なぜならその重力というもの自体がナンセンスだからなんですね。でそしてそのナンセンスな重力という法則に人間は従わざるを得ないんですね。なぜならそういう設定の映画の登場人物だからですよ。だから映画の登場人物は映画の設定から逃れることはできないというただそれだけなんですね。

フッサールがこの現象学の理念の冒頭から問題にしているその「認識は事象に適中するのか」というね、そういう事象の的中性ということを問題にするんですけども、この場合の事象というのは何かって言うと、つまり映画の中で起こりうることなんですね。映画の中でどんなことが起こりうるのかということを予測して、その予測が的中するかどうかっていう、そういう話なわけですよ。

でその場合にフッサールが述べるのは、つまりその自然的態度の科学者、自然的態度の科学というのは事象に適中しないではないかということを批判的に述べているんですね。なんで科学は事象に適中しないのかと言うと、それは世界というのは合理的にできているんだと。人間の今の知能では計り知れないぐらいの複雑で高度な合理性でできているんだけども、でもいずれにしろその合理性でできているから、いつか解明できるはずだと、そういう映画の設定にありもしないようなことを勝手な欲望を持ってるわけですね。勝手な思い込み、勝手な決めつけによって世界を知ろうとしているんだけども、そういう形で世界を知ることはできないわけですね。

だからそういう余計な欲、余計な決めつけを捨てて、老子が言うように無欲の態度であるということはどういうことかっていうと、つまりはこの映画がどういう設定になっているのかを冷静に観察して冷静に分析することはできるわけですね。

だからその立花玲さんはその一連の著作の中で様々なデータを挙げて、その陰謀論っていうのは自分の思い込みであるとか願望によって感情的に自分が納得できるような簡単なストーリーを組み立てるんだけども、そうじゃなくて、世の中には様々な調査があってデータがもう出てるんだと。そのデータを並べると、陰謀論とは違った事実が見えてきますよというのが立花玲さんの主張ですけども、でもこのデータって何かって言うと、それは事実であるとか真実であるとかね、この世の理であるとか、そんなこととは関係ないんですね。映画の設定なんですよ。あくまで映画の設定上こうなってるじゃないかとね、この映画がこういう設定になってるっていう、そういうことに過ぎないわけですよね。

でだから別にそのデータを収集して分析することは何も間違いではないし、その意味で言うと現象学的には間違いではないんだけども、やはりその前提として「真実は存在しないし、存在ということも存在しない」、全ては映画ですからね。全ては映画であるということを前提にするのかしないのか、その前提の問題なんです。

だからそうすると、この哲学的思考を離れたこの生活の場においても全てが映画だと認識すると、映画だと思うんだと、映画なんだという認識で生活するわけですね。でそうするとそのまず常識の根底からして違うわけですね。哲学的常識に入れ替わるわけですね。自然的態度の常識から哲学的常識へというね、そして哲学的常識に基づいて生活をしていくという、そういう新しい地点が見えてくるのではないのかなと思うわけですよ。

だから、例えば今も私も町を歩きながら撮ってますけども、実際の映像がどういう映像になるのかまだ決まっていないですけども、私はその街を歩くのが好きなんですね。街の風景を色々見ながら、家並とかなんとか色々見ながら歩くのは好きなんですけども、これ全て映画のセットなんですね。そういうことなんですよね。実物の家とか実物の道だと思ってはならないわけですね。実物なんて存在しないんですよ。これみんな映画なんですね。

で道行く人々も、これもだからその映画の中の登場人物に過ぎないし、なんだったらCGかもしれないわけですよね。でそれが現象学的還元っていうことなんですね。

でもっと重要なことは、今また傍を車が通り過ぎましたけども、この自動車の前に飛び込んで、自動車に猛スピードで走る自動車にぶつかると死んでしまうということは、これは実は確実なんですね。だからその全てが映画なんだから映画の中の出来事なんだから何も確実なことがないじゃないかっていう、そういう話じゃないんですね。

つまり映画の中の設定がいかに荒唐無稽であっても、我々も映画の中の登場人物である以上、映画の荒唐無稽な設定に従うしかないわけですよ。だからその自分の目の前に車が高速で走ってきて、そこに飛び込むと確実に死ぬっていうことは、これはだからフッサールが言うところの、まだフッサールが重要視するところの「直接的な確実な認識」なんですね。

でなんでその実際に車に究極的に言うと、実際に車に跳ねられてみないと本当に死ぬかどうか本当に痛いかどうかってのはわかんないじゃないかっていうのはもう1つの、いわゆる懐疑論的な立場ですけども、そうじゃないんですね。懐疑論をどうやって克服するかってのも哲学的な問題ですけども、つまり我々はだからその映画の中の登場人物だから、映画の設定に従うしかないし、映画の設定がそうなってる以上、自分も確実にあの映画の設定上に設定されたことが起きるわけですね。それは絶対に確実なんですよね。

いろんな人が車に跳ねられてて死んでるというその報道があったりとか、人づてに聞いたりとか、それこそ映画の中でそういう場面が描かれているのを私は見てるわけですね。で他の人もそれを共有しているわけで、そうするとこの映画の設定としては車に跳ねられると人が死ぬってのはこれ確実だなっていうことが直接的に理解できるわけですね。直感として理解できるわけですね。これ以上確実なことはないわけですよね。

なんでこれ以上確実なことがないと言えるか。つまり、それっていうのはその自動車が本当に存在するかどうかってのは関係ないんですね。つまりそのさっき言ったみたいに、その自動車が、自動車だって映画のセットかもしれないわけですね。なんだったら自動車ってのは全ての自動車ってのは映画のセットにすぎないわけですよね。でなんだったらCGかもしれないわけですよね。

でそのCGかもしれないような実態のない車に轢かれたって、自分はどってことないよっていうことではないんですね。自分もまた映画の中の登場人物だから、いかにCGであろうが段ボールでできた車であろうが轢かれたら死ぬんですね。そういう設定

になってるんですよ。

だからその真実とか現実とかね、実態とか、そういうことじゃないんですね。全部が映画の設定なんですよ。だから全てが映画の設定で、この映画の設定がどうなってるのかということに注力するのがもはや現象学以降の学問であると、現象学を土台にした学問である。

だから私が現象学以前に入れ込んでいた構造主義というのも、その有効な分析手法ではありますけども、これもだから現象学を前提にしないと意味がないんですね。現象学を前提にしないと単なる自然的態度の学問に終わってしまうわけですよ。だから現象学構造主義をリンクすることはできるわけですね。

つまり現象学っていうのはこの映画の世界の設定がどのようになっているのかを詳細に分析する学問なわけですよね。でそのために構造主義の技法というのは有効であると。ま、そういう順番になっているわけですね。

だからその、結局その哲学的思考を離れて実生活に戻ると、哲学を忘れてしまって自然的態度に戻ってしまうのはなぜかって言うと、結局これは一般に言われてることですけども、その意味での哲学っていうのは現実逃避になってるんですね。哲学のこと考えている間は辛い現実から逃げることができるということで、哲学を始め学問とか、あと趣味の領域でもそうですけどね、逃げる人がいるわけで、私もその傾向がないとは言えないわけなんですけども、でもこれも私のチャンネルの動画で言いましたけども、その辛いこととか苦しいこととか不安なことっていうのはさも現実であるかのように感じられるわけですよね。

だからその現実と感じられるものに引っ張られて哲学のことを忘れてしまうんですけども、そうではなくて、その自分に差し迫っていると思われるような様々な苦しみであるとか、不安であるとか、痛みというものは、これは現象学的に言えば現象ですけども、それで分かりづらければ全部映画の中の出来事なんですね。映画の中の出来事で、映画の中の登場人物であるところの私がそう感じているに過ぎないんですね。

だからこの現実逃避っていう言葉自体がもはや現象学的には意味がないんですね。現象学にとって現実は否定されているんですね。じゃあ何から逃避してるのかというと、これはだから映画の設定からの逃避なんですよね。自分は映画の登場人物なんだから映画の設定からは逃れることができないんですね。

そしてその映画の設定からなぜ人は映画の設定から逃げたがるのかっていうね。人にとって映画の設定っていうのは様々な意味で過酷な側面を持つんですけども、それはつまり映画の設定だからゆえに非常に理不尽で非合理で辻褄の合わないものを含むわけですね。でだから逃げたくなるんですよ。映画の登場人物としては映画の設定に対して非常に弱い立場にあって、まあとにかく従わざるを得ないわけですね。

そしてもう1つ肝心なことは自分のキャラクター設定ですね。自分の能力であるとか、自分の性質であるとか、自分の生い立ちであるとか、そういう自分のキャラクター設定も映画の設定として設定されてるわけです。でそれとその映画全体の世界観の設定と対応して、ある人にとってはこれは平気だけども自分にとってはこれはすごく辛いんだと。この設定はすごく辛いんだと。この辛い設定から逃げたいと、そういう欲望が出てくるというかね、それも映画の設定のうちなんですけど。

だからこれを現実だと思うと、現実は過酷なんだと。この過酷な現実から逃げ出したいと言うと、結局ね過剰な反応になるんですね。

だからそのフッサールが述べていて肝心で画期的なことは現象学的還元だっていうわけですよね。だから現実も現象のうちに入れるわけですね。そうすると現象というものは現実というものは存在しなくなるわけですよ。だって現象に還元できるわけですからね。でもその現実を現象に還元すると言っても、なかなかピンとこないところがあるんだけども、現実というのは映画に還元するんだと。全ては映画なんだという、全てと映画を結びつけて、だから現象というのは映画なんだと。そして全ては映画なんだと。で現実というのは映画なんだとね。

そしてその人間にとって何が現実として差し迫っているか、そのやっぱりその人間が感じる現実感でも、その夢のような現実、本当に現実なのかどうか分からないような現実から、もう本当に辛すぎて、辛い現実ほど現実味を帯びるわけですよね。

でそうした場合に、その現実とだから人間にとっては現実と現実じゃないものっていう2つがあるわけですよね。映画っていうのは現実じゃないんだと。映画館で夢のようなSF映画を見て、そして映画館出ると現実に戻ると。現実のちっぽけな存在の惨めな自分に戻ってしまうと。そうすると映画と現実っていうその2つがあるわけですね。映画に限らず空想と現実であるとかね、まあ映画だって空想世界ですからね。

でもそうじゃないんですね。還元なんですね。現象学的還元なんですよ。現象学的還元っていうことはつまりはその全ては映画で、だから映画と映画じゃないものを区別しないんですね。だから映画と現実を区別しないんですよ。

そして映画の登場人物と映画を見ている自分を区別しないんですね。これが肝心なんですよね。自分も映画の登場人物なんですよ。だからこそ映画の設定から自分は逃れることはできないんですね。

でなおかつ現実は存在しないんですよ。いかに現実が迫っているように思えても、それは映画の設定に過ぎないという、そういう、その結局だから哲学と生活の一致ということで言うと、哲学上は全ては現象に還元できると言いながら、生活上で現象と現実を別物として考えてしまうと。そうするとことが大げさになるんですね。

だから現実っていう言い方は大げさなんですよね。全ては現象だ、全ては映画だ。本当にだからその生活も含めて現象学的還元を行うと、その客観的に総合的に判断することができるわけですよ。客観的にっていうか冷静にですね、冷静に物事が判断できるわけですよ。

だからここには主観も客観もないんですね。全ては映画の中の出来事ですから。そして全てが映画の設定なんですよ。だからどういう風にして映画が設定されているのかというのを理解すればいいわけですね。自分はどういう性格設定なのか、キャラ設定されているのかっていう。それが自己認識なんですよね。自己認識って何かって言うと、現実の自分がどういう人間かじゃないんですね。映画の登場人物として自分はどういうキャラ設定をされているのかと。そしてそのキャラクターがどういう世界観の設定の中に存在しているとされるのかっていう。

そしてその科学法則とか、科学法則って、だからフッサール現象学の理念の中で、結局は科学者が言うところの科学法則というのは「科学現象に過ぎない」と言ってるんですけども、この科学現象ってのはどういうことなのかって言うと、つまりは映画の設定なんですね。サイエンスフィクションなんですよ。サイエンスフィクションっていうのも、実際にはフィクションサイエンスで、フィク

ションのサイエンスで物語が出来上がってるわけですね。でその意味で言うとフィクションのサイエンスとフィクションではないサイエンスの区別はないんですね。現実のサイエンスと思われているものも全部フィクションに過ぎないんですよ。映画の設定にしか過ぎないんですよね。

で映画の設定なんだから、バカバカしいとかじゃなくて、映画の設定から我々は逃れることができないので、その設定を仔細に知るということは無意味ではないわけですね。

でなおかつその映画の設定に整合性を求めてはならないわけですね。宇宙戦艦ヤマトの波動エンジンにちゃんと整合性のある理屈を求めても仕方がないのと同じなんですよね。宇宙戦艦ヤマトの波動エンジン、そして波動砲が荒唐無稽なのと同じように、我々もその地球に物が落下して、人間も落下するに地面を歩くことができるという、そういう荒唐無稽なSF的設定の中を生きてるわけですね。

あとまあ人は知らない間に生まれて、そしていつかは死んでしまうというね。フッサールだって死んじゃいましたからね。だからフッサールですらも映画の設定から逃れることはできないわけですね。

だから私は現象学的な認識というのは自分なりにはできてきたという風に思うわけで、だからこれも繰り返しになりますけども、その現象学的な認識の生活への応用、つまり生活と哲学の一致というのを実践していきたいですよね。そのために哲学的認識を深めてきたというかね。

そうは言ってもこんなものはその大げさなことではなくて、大体人生うまくいっている人っていうのは大体そういうことができてるんですね。特に現象学的還元とか、世界は全て映画であるとか、そういうこと意識しなくても、それこそ自然的態度においてできているんじゃないのかなと。

まあ私はめんどくさい人間だから色々遠回りしないと普通の人と同じにできないというかね、それも私の映画の登場人物としてのキャラクター設定だから、まあ仕方がないわけですね。

(2023年10月30日)