ニーチェのここが間違いだ!
私はこれまでニーチェからウィトゲンシュタインからフッサールから、普通には難しいと言われている哲学書をいろいろ読んで、自分なりに咀嚼して、それで頂点を極めたっていうわけではないですけども、自分の中では1段落ついたところがあったので、これは折り返し点だなと思ったんですね。
で、これからどうしようかって思った時に、今の路線でもっと哲学を深めていくのもあるんですけども、もう1つは折り返しだと、方向転換するんだということで、改めて今回はニーチェの批判をしていこうということなんですね。
つまり私は今までニーチェを評価してきたんですけど、折り返してんですからね、その反対にニーチェを批判していくと、そういうことなわけです。
で、今回取り上げるのはニーチェ『善悪の彼岸』ですね、これもいろいろ捉え方があって、代表作は『ツァラトゥストラかく語りき』なんですけども、とりあえずこの『善悪の彼岸』の二五七章というのが、私が見たところニーチェの哲学を端的に表した部分のひとつ言えるんじゃないかと思うのです。
まず引用してみますが、
およそ人間という型を高めることがこれまでの貴族社会の仕事であった。これからも常にそうであるだろう。こういう社会は人間と人間との間に位階と価値差の長い階梯を信じ、何らかの意味で奴隷制度を必要とする。
これは何かって言うと「進化論的ヒューマニズム」なんですね。これは『サピエンス全史』で述べられた概念ですが、著者のユヴァルノア・ハラリはヒューマニズム(人間至上主義)を「自由主義的ヒューマニズム」「社会主義的ヒューマニズム」「進化論的ヒューマニズム」の三種類に分けたのです。
そしてこのうち「進化論的ヒューマニズム」をナチズムだとしたのですが、私からするのそれは端的に間違いで、ニーチェの「およそ人間という型を高めることがこれまでの貴族社会の仕事であった」という指摘こそが「進化論的ヒューマニズム」であり、ナチズムはその通俗的な曲解に過ぎず、ハラリもそれに引っ張られたに過ぎないと、私には思えるのです。
ただしニーチェの指摘で肝心なことは、「人類みんなで進化しましょう」ということではないんですね。
人間というのは「進化する人間」と「進化しない人間」の二種類がいて、その両者の差はどんどん広がっていくんだと、それが「人間と人間との間の位階と価値の差の長い階梯を信じる」ということ、そして「何らかの意味で奴隷制度を必要とする」ということなんですね。
つまり進化する貴族的人間は、進化しない奴隷的な人間を踏み台にして、そうやって人類文明というのは進歩してきたのだし、そのような時代に近代的が思い描くようなヒューマニズムは存在しないと、ニーチェは述べているのです。
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以上がニーチェの主張の概略なのですが、端的に言えばこの考え自体が間違いだと、そのように私は思うわけですね。
もっと言えば、そういう間違いを犯すからニーチェは発狂し、若くして亡くなってしまったのではないかと思うのです。
ニーチェは1889年に発狂し、11年後の1900年に55歳で亡くなっていますが、言い方を変えれば新しい時代に敗北したのかもしれません。
まず、ニーチェの進化論的ヒューマニズムですが、先にも述べたように指摘としては間違いだとも言えず、確かに貴族的な人間が文明の進歩を牽引してきたという側面があり、それを下支えした奴隷制度も存在したわけです。
で、そういうことがあってニーチェは『ツァラトゥストラかく語りき』の中で、人間は超人になるべきだと、猿から人間に進化したように、人間はさらに超人に進化なければならない、ということを述べているんですけども、実は産業革命以降の人類は、進化論的ヒューマニズム的に進化してるんですね。
実は人類というのはべて進化していて、そして近代以前の過去の人類とは比べ物にならないぐらい、もう比較にならないぐらい進歩してるわけですよ。
というのは、このチャンネルで私もたびたび指摘してるように、テクノロジーの進歩なんですね。人間は産業革命以降、テクノロジーを手に入れたわけですよ。機械によって物を動かすと、電気によって明りを灯して通信をすると。
今は情報革命ですからね。インターネット革命ですからね。AIもどんどん進歩して、スマホも進歩して。今この映像撮ってるのもデジカメですけど、撮った映像もすぐYouTubeにアップロードして、世界中の皆さんに視聴していただける環境にあると。
そういうひと昔前の人間から比べても人間というのは著しく進歩してるんですね。
だから2011年がスマホ元年と言われてますけども、それ以前の世界もインターネット社会だったし、携帯電話も普及してましたけど、でもガラケーしかなかった時代と、今のスマホ時代とでは、人間の進化の度合いが違うわけですよね。
ましてや江戸時代の日本であるとか、中世のヨーロッパ人とか、だいたい中世のヨーロッパ人っていうのは科学以前の世界ですから、無知蒙昧の中を生きてるわけですよ。迷信の中を生きてるわけですよね。
ヨーロッパって近代以前から文明の先進国でした、みたいな顔してますけども、そんなの嘘っぱちですから、無知蒙昧な迷信に囚われていたんですね。
例えば、中世のヨーロッパ人っていうのは風呂に入んないわけですね。フランスの王様も風呂に入らないわけですね。風呂に入るとペストに感染するからって信じられていたわけですね。そういう無知蒙昧の中を生きてるわけですよ。
でそういう前近代の人たちに比べると、現代人は人間的にも進化してるんですね。はるかに進化してるんですよね。昔の人が言うところの超能力を身につけてるわけですね。
そう言えば小学生の頃、石ノ森章太郎の『幻魔大戦』という漫画にはまりましたが、いろんな種類の超能力者が出てきて戦うんですね。テレポーションとかテレパシーとかサイコキネシスとか、そういう超能力は今やインターネットやスマホやAIなんかによって、どんどん実現化しているわけですよね。
テレパーシーというのは超能力ですけども、心の中は覗けなくても、SNSを見れば様々な人の言葉が飛び交っていて、大体その人がどんな人なのかってのは分かっちゃったりするわけですよね。リテラシーがあればね。結局テレパシー能力ってのもリテラシーの一種ですからね。
あとサイコキネシスですね。念動力ですね。念じただけで物が動くっていうのも、スマホのフリック操作だってね、なんで指でなぞるとアイコンが動くのかっていうね、念動力じゃないかっていうね。
ともかくそういう感じで時代はどんどん変わってきてるわけですね。瞬間移動だってね、今は会議をやるっていうと「じゃあZoomでやりましょう」って、瞬間移動で会議室にみんな集まることができるわけですよ。
だからニーチェが言うのは、過去においては「進化する人間」と「進化しない人間」がいて、その両者の差は著しく開いていたという指摘でありましたけども、しかしニーチェが生きた時代にはもうその差がなくなってきてたんですね。
だからさっきの動画では、近代というのは奴隷解放の時代だと言いましたけども、まさに産業革命以降のテクノロジーによって奴隷が解放されたんですね。
つまりニーチェが言うような進化しない人たちですね。進化する人たちの踏み台になってしかるべき人間たちですね、そういう人間たちも産業革命による超能力を身につけて、奴隷の身分から解放されるわけですね。
例えば印刷の発明だって大変なもので、それまで特権階級が独占していた「文字を読む」っていう超能力を、誰もが身につけられるようになり、そのように人類が進化したわけです。
一方で産業革命以前は、例えば一介の農民が、何か世の中の情報を知ると言ってもせいぜい共同体の中での噂話程度ですよ。
大体、江戸時代の庶民たちは征夷大将軍の名前も知らないし、まして天皇の名前も知らないし、そういう世界に生きていたわけですね。
ですからわれわれ現代人は、昔から比べると誰もが超能力者で超人なんですよ。
そしてニーチェが『ツァラツストラ』で超人の思想を述べてた19世紀末のヨーロッパにおいては、もうみんなが超人になれる時代になってきてたわけですね。
だから一部の人間だけが進化して超人になるっていう、その価値観自体がもう成り立たないし崩壊してるわけですね。
なんだったらもう超人になんかならなくていいわけですよ。だからニーチェが言うところの超人というのは、あくまで生身の人間が超人になるということなんですね。生身の人間が、勉強して、修行して、頭を鍛え体を鍛え超人へと向かっていくわけですね。
『五輪書』っていうのは日本を代表する哲学書の一つではないかと思うんですけど、それはニーチェが言うところの「人間の型を極限まで高めようとした」のが宮本武蔵なんですね。そんな宮本武が書き記したのが『五輪書』で、その意味でこれは日本を代表する哲学書だと私は思うんですね。
ただ宮本武蔵が『五輪書』を書いたのは、世の中が平和になり始めた江戸時代初期ですから、そこに記された兵法としての哲学も、その意味でオワコン化していたんですね。
そして同じようにニーチェが『ツァラトゥストラ』を書き記したその時代、園に示された超人思想、貴族的価値観はすでにオワコン化していたわけです。
だからニーチェは何をしたかっていうと、前近代のおさらいをしたんですね。
だからこれ以降はむしろニーチェが言ったこととは逆の時代が来るし、ある意味ではニーチェが言ったような超人の時代がまさに到来したんですね。
それが何度も言うようですけれどもリベラルなんですよ。
この場合のリベラルっていうのは、橘玲さんが言うような「誰もが自分らしく生きられる社会」と言う意味でのリベラルで、これが100%実現しているとは言えないですけども、でもそれを目指して人間社会っていうのは一応進化してるということになっていて、その意味で言うと私は楽観主義なんですね。
もちろん今でも戦争が起きたりとか、それ以外の国際情勢もいろいろ不穏な動きはありますが、でも大局的に見れば「誰もが自分らしく生きられる社会」と言う意味でのリベラル化が、ゆっくりではあっても確実に広がっているようにも思えるんですね。
でそれはテクノロジーを背景にしていて、テクノロジーってのはなんだかんだ言って進歩するんですね。AIにしたって、これほど進歩するとは誰も思っていなかったし、私もびっくりしましたけどね。
そんなふうに技術が進歩して、リベラル化ががますます実現しつつある中で、ニーチェ的な貴族主義っていうのは完全に終わってるわけですね。
だから結局、前回の動画でも言いましたけども、人間の本質というのは奴隷なんですが、それは決して悪い意味ではないんですよ。
つまりそれは、私の解釈によると人間が「群体動物」だからだと。人は単体では生きることはできず、みんながみんな助け合って集団で生きるんですね。
集団で生きる中で、それぞれが何らかの役割の中にはまっていくと。その役割の中に人々は安住して、生きがいを見つけて、そしてある程度の自由を差し出す代わりに、責任を回避することができるわけですね。
だから結局、貴族こそが人間の本質だと、人間は進化しなければならないと、そして人間進化のためにはヒューマニズムは踏みにじってもいいんだっていう、そういうことをニーチェがいくら一生懸命言ったとしても、結局はこの人は敗北してしまうわけですね。敗北して発狂して死んでしまうわけです。
だから時代は仮にもリベラルの方向に向かっていって、その意味で言うと、なんだかんだ言って良くなってくるんじゃないかと、私は思うわけです。
20240302