優れたアートとはなにか?を現象学的に考える
この一連の動画ではですね、現象学的還元を徹底しようというところで考えているわけですけども、そうするとそもそも私がアーティストであって、自分がアーティストであるために、そして作品を作るために現象学まで行きついたわけですね。現象学的還元まで行きついたわけですね。そうすると、やはりその肝心のアートの中心のところから現象学的還元をしなければならないと。で、アートの中心部というと、つまり優れたアートというものが何なのかっていうところをきちっと現象学的還元しなければならないわけですね。
そうすると、現象学的に言うと、全ての存在というものを否定するわけですから、存在、そして実在ですね。だから全ての芸術作品は優れていようが優れていまいが、存在しないんですね、実在しないんですね。だから一方では優れたアートとは何か、どれが優れたアートと言えるのかっていう、そういう問いを立てておきながら、そもそも優れたアートは存在しないと、実在しないと、作品は実在しないと。それが現象学的還元なんですよ。
で、そうすると話が分かりづらくなるので、私の前回の動画のアイデアとしては、このところの私のアイデアとしては、現象学の現象を映画という風にして置き換えようと。で、全ては映画の設定であるという風にして、映画の設定に還元するわけですね。だから、優れた芸術とは何か、優れたアートとは何かと言った時に、優れたアートとして設定されてるものですね。全てが映画の設定ですから、映画の設定としてどの作品が優れた芸術であるという風にして設定されているかと。その設定を解明して見極めて行こうというのが、つまり現象学にとっての優れたアートということになるわけですね。
で、そうすると例えば私が優れたアートとは何かと言った時に、そもそもこのチャンネルでも紹介したヨーロッパルネサンスのアルベルティという人が画論を執筆しておりまして、そこに優れたアートというのはどういうものなのかってのがきちんと書いてあるわけですね。で、それを引き継いでレオナルド・ダ・ヴィンチがまた絵画論を書いておりまして、だからそういった理論が書いてある、そういう現象があるわけですね。
だから、過去の歴史の偉人はやはりアルベルティにしろダ・ヴィンチにしろ、その芸術とは何かっていうことに非常に格闘して、優れた芸術とはどのようにして設定されているのかっていう、その設定を解明したわけですね。力の限り解明したわけですよね。だからそれを引き継ぐというところが私の態度、優れた芸術とは何かということをいかに認識するかっていうことの私の態度なんですけども。
でも、そもそもそのアルベルティっていう人物、本当にいたのかとかね、ダ・ヴィンチっていう人物が本当にいたのかとかね、直接的には確認しようがないんですね。だから直接的に確認しようがないことに囚われても仕方がないというのが現象学の立場なんですよ。でも直接的に言うと、とにかく私はアルベルティの本も読んだし、ダ・ヴィンチの本も読んだんですね。で、本読んだってね、その内容が良かったっていうことは私が直接的に認識でできることなんですよ。
で、そもそもで言うと、本当に私はレオナルド・ダ・ヴィンチの本読んだのかっていう、私がそうやってそう主張してるだけで、全部夢かもしれないっていう風にしてそうやって疑うこともできるわけですね。これが懐疑論の立場なんですけども、でも映画の設定としては、糸崎さんは確かに、自分自身は確かにアルベルティの本もダ・ヴィンチの本も読んだっていう設定になってるわけですね。そういう記憶が私の中にあるわけですよ。で、その記憶なり、その読んだっていう設定なり、ためになったっていう設定なり、というのは直接的に私が認識できることなんですね。直接認識できるっていうので設定されるわけですね、設定されてるわけですね。
で、その設定というのは映画の設定なので、映画の中の登場人物としての私としては逆らいようがないし、映画の中の登場人物の私にとってはそれは確実なことで、それ以上遡って疑うことはできないわけです。このようにして懐疑論というものは論破されるというのが現象学の立場なんですよ。
だから、一方で優れた芸術とは何かという問いというのは、実は今の多くのアーティスト、そしてアートの愛好者はそういう問いは立てないんですね。それよりもその自分が好きなアートは何かっていうね、自分にとってのアートとは何かっていうね。自分が主語になるという、これが立花玲さんも述べていたリベラルな時代のあり方なんですね。
で、リベラルの時代というのは、誰もが自分らしく生きると、それこそが社会の最大限の目的なんだという問題設定をするのがリベラルな時代なので、リベラルな時代においては、アーティストは自分らしい作品を作るんだと。優れた作品かどうかってのは問題ではなくて、自分らしい作品をいかに作るかというのが最大の問題になるわけですね。
そしてアートの愛好者、鑑賞者、購入者の方は、つまり自分らしく好きなアートですね。自分が好きなもの、自分の好きな作品を選んで鑑賞したり、購入したり、応援したりする。全てが自分らしくっていう。だから例えば、現代アートのギャラリーさんで言うと、美術史として優れたアート、美術史的に見て優れたアートを選ぶのではなくて、一つは市場価値ってのもありますけど、それよりもやっぱり自分の好きな作品を選ぶんですね。「私これ好き」っていうね。「私これ好きだからこれ売りたい」っていうね。そういう作家の作品を選んで、そして作家の作品の中でも自分が好きな作品というものを選ぶと。そういう風になってるんだなというのは、私はアートマーケットを見てつくづく思ったりするんですけども。
それっていうのは、今言った現象学的態度とは真反対なんですね。つまりそれはフッサールが『現象学の理念』の冒頭で批判した自然的態度そのままなんですね。自然的態度というのは、つまり自分が映画の登場人物で全ては映画の設定でしかないという意識がない、自然で素朴な考え方なんですね。そうすると今の時代はリベラルで、誰もが自分らしくという価値観で生きるという、そういう映画の設定がされてるわけですね。そして各自が自分らしく、「私は自分らしく生きたいんだ」っていう風にして性格設定されているわけですよね。映画の中のキャラクター設定として自分がリベラルで生きたいんだとね。「私は私の好きな絵を描いて、好きな絵を買って、好きな絵の画集を買うんだ」と。
で、その意味で言うと、優れた芸術とは何かって、客観的な意味でも優れた芸術、客観的っていうのは、古今東西さまざまな芸術作品、アート作品がある中で、どれが優れていてどれに価値がないのかという、その比較による順列ということは一切興味がないと。
だからそれは現象学的に言い換えると、この映画がどのように設定されているのかという、その映画
の設定そのものに全く興味がないわけですね。で、まさに映画の登場人物になりきって映画の中を生きていくわけですね。これが映画の中だという自覚なしでね。それこそ素朴で自然な人間のあり方であるわけですね。
で、それは実は近代になってからだし、もっと言うと現代以降ですね、第二次世界大戦後なんですよ。だから、実は近代の初期というのは、芸術というのはどのように受容されていたのかというと、つまり芸術というのはヨーロッパにおいては、とりあえず分かりやすくヨーロッパに限定しますけども、ヨーロッパにおいては芸術というものは貴族が独占していたわけですね。それがそのフランス革命以降、イギリスの市民革命以降、世の中が近代になって貴族が没落して、市民階級が台頭するわけですね。
お金を儲けたブルジョアジーが社会的地位の上の方を占めていく中で、新興の成金がかつての貴族の真似をしてアートを購入するようになるわけですね、芸術を購入するようになるわけですね。ところがどの作品が良くてどの作品が良くないのか、何を自分はコレクションしたら良いのかっていうのは、新興成金は教養がないから分からないわけですね。教養がないから分からないので、貴族のアドバイザーを雇って作品を収集すると。そしてアメリカの新興成金がフランスのアートを買い漁って、そして私設の美術館をアメリカに建てて、それを自分が亡くなった後アメリカに寄贈して、アメリカという新興国家を偉大な国にしていくとね。「これだけの大きな美術コレクションがうちの国にはあるんだ」と。そういうことで国造りをしていくと。それが近代の芸術のあり方で、その時代までは教養が生きていたわけですね。
つまりその、どれが優れている作品なのか、どれが優れた芸術でどれが優れていないのかというのは、結局教養が背景にあるわけですね。で、その教養というのはさっきも言ったアルベルティの絵画論、ダ・ヴィンチの絵画論、そういうものの理論に照らしてきちっとそういうことが守られているのかっていうね、高度に総合的に様々なことが考えられていた上で描かれてているのか、それとも感覚的になんとなくチョロチョロっと本物っぽく描いてあるだけなのかっていうね、そういうことを見極めるために教養というのが必要になるんですけど。
そして教養とは何かっていうと、結局は映画ですね、映画がどのように設定されるかっていうことの教養なんですね。だから私のこの一連のYouTubeの動画の中では、つまり映画の設定っていうのは恣意的でデタラメで不条理にされていて整合性はないんだけども、でもそうは言っても全くのデタラメではなくて、映画の中での設定がその中では整合性があるし、いや整合性のことあんま考えなくていいんですね。とにかく複雑なんですよね。優れたアートとは何かっていうのも複雑なんですね。アルベルティの本だって複雑だし、ダ・ヴィンチの絵画論だって複雑だし、そして矛盾もたくさん含んでいるし、そしてアルベルティやダ・ヴィンチが言ったことが全てではないわけですね。
なぜならそれは映画の設定に過ぎないんだけども、でもその映画の複雑な設定というものが、だからその何が優れた芸術なのかっていうのも、それも映画の設定なんですよ。映画の設定の話なんですよね。
で、その映画の設定というものを教養として知ろうとするのか、それともそんなのを無視して自然な態度で映画の登場人物として素朴に自分の好きな絵を描くっていうね、自分の好きな絵を描くっていうね。買ったり描いたりっていうね、そういうことに過ぎないんですけども。
だから近代以前ってのはリベラルではないわけですね。そしてある意味で言うと、様々な設定に忠実というかね。その話を掘り下げるとまためんどくさくなりますけども、リベラルというのは誰もが自分の自由を追求すべきという世界ですけども、近代以前のリベラル以前の世界というのは、結局各自が自分の役割があったんですね。そういうことなんですよ。
で、役割っていうのは全ては映画ですからね。登場人物に即した役割って誰もが負っていて、その中で芸術家っていうのはやはり芸術家として振る舞わなければならないし、優れた作品を生み出さなければならないという、そういう役目を負っていたわけですね。そのために教養を身につけなければならないというのは、その映画の設定というのを覚えなければならないですね。そしてその設定に即して優れた絵画として設定されるものを描くと。それがレオナルド・ダ・ヴィンチでありアルベルティであり、そして葛飾北斎なんですね。
葛飾北斎というのも、イタリアルネッサンスから時代も地域も隔たった日本の江戸時代の浮世絵ですけども、でも世界というのはつながってるんですね。実は人間の思い込みに反して、の人の思い込みに反して世界というのは近代以前からダイナミックに繋がっているんですよ。そういう映画の設定になってるわけですね。で、それは様々な証拠があるわけですよ。で、その証拠っていうのはもちろん映画の設定としてそういう風にして証拠が揃ってるわけですね。
これは具体的に言うと、梅棹忠夫の『文明の生態史観』ですけども、日本とヨーロッパっていうのは同じ「第一地域」ですね。世界的に見ると、第一地域と第二地域とに梅棹忠夫さんは分けていますけども、その第一地域にヨーロッパと日本が、西洋と東洋の端っこで実は繋がっているという指摘をされましたけども、それもだから事実かどうかということではなくて、映画の設定としてそのようにどうも決まっているらしいとね。
そういうことなんですけども。
で、だから私自身は反リベラルなんですよね。その意味で言うと時代遅れだし、このYouTubeチャンネル自体も反リベラルなんですね。だから時代錯誤なんですけども、だから映画の設定にこだわるわけですね。映画の設定を解明しようと。そもそも映画の設定なんだっていうね、それを解明するところにずいぶん時間かかりましたけど、でも我ながらなかなか良いところまできたなと思うんですね。
現象学を映画に還元して、全ては映画の設定だっていう認識ですね。でも一方でこれは時代錯誤だなと。なぜなら今はリベラルの時代なんですね。で、私は反リベラルなんですよ。だから各自が自分らしくという意味で言うと、私も自分らしく振る舞っているのでリベラルの枠内なんですね。だから私の立場からすると、これ別の動画でこの話をしようと思ったんですけども、だから私自身はリベラルの枠内で反リベラルであろうとするんだけども、でも私の反リベラルっていうのは自分に対して反リベラルなんですね。
でも他人に対してはリベラルなんですよ、私はね。だからこの私のYouTubeの動画も基本的には自分の独り
言で、誰かを説得しようとか、誰かを批判しようとか、文脈上何人かのアーティストの批判はしてますけども、でも基本的には自分には反リベラル、他人にはリベラルと。そういう立場。
そしてその中で、現象学的な意味での優れたアートとは何かという問いを立てながら、私は私の作品を作っていって、今回の動画もそうなわけですね。そういう設定になってるわけですよね。私が設定したんじゃないんですね。そういう風に設定されていると、という設定の中で私はあくまでも動いてますよ、という話でありました。
(2023年10月30日)