アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

共同作業と参与

 誰にでも共通していることは、人は誰でもいつかは死ぬ、と言うことです。人間の自然的感受性は、暑いとか寒いとか空腹であるとか痛いとかなど、は「死」に向いています。共同体としての人間の中心に「死」があり、その辺縁が個人個人の生なのでしょうか?

 目の前の他者(人間)と、目の前の他者(ネコ)では何が違うのか?目の前の人間は、私とあるものを共同で創り出しますが、ネコとはそうした関係にはなりません。目の前の人間と私は共通言語を交わすことで共通した「世界」を作り出します。

 即ち、私と目の前の他者とはお互いが「人間」である事を指摘し合い、お互いの目の前に存在するネコを「ネコ」だと指摘し合います。しかし目の前のネコはそのような指摘はしてくれず、言語による世界構築という共同作業に参与しないのです。

 人間が人間に育てられれば人間になりますが、人間がネコに育てられても人間にはなりません。一方で人間に育てられたネコはネコになります。いや正確には、人間に育てられたネコは(自然への適応を欠いた)飼いネコになります。さらに言えば、人間に育てられたネコはその環境に適応したネコになります。

 ネコに育てられた人間は、その環境に適応した人間として育たないのでしょうか?つまりネコは、人間の子供に対して人間としての環境を与えることができず、人間を育てることができないのです。人間にとっての環境とは言葉です。正確には言葉により認識する環境世界です。

 人は言葉によって認識する環境世界を、言葉を交わすことによって相互に創り出し、創り続けます。その共同作業に、人間として生まれた子供は参与するのです。これに参与しない人間はその意味では人間とは言えず、ですからネコに育てられたも人間は人間になり得ないのです。

 人は家の正面を見て、その地点から見ることのできない家の裏側を同時に認識します。これと同じ原理によって、人は他人の姿を見て、目に見えない他人の心の存在を、認識するのです。

他我の身体は、他我についての近くの行う意味の構成からして、私が根源的な仕方でそれに近づくことが原理的に不可能な心を備えているが、その心と身体とは結合して、精神物理的実在を形成しているわけである。

フッサールデカルト省察