イデオロギーの抽象化

 最近の私は「宗教の抽象化」ということを述べてますけども、それ以前にね、そもそもイデオロギーというもの自体を抽象化しなければならないというふうにして、改めて思ったんですね。

 

そもそもで言うと、イデオロギーというものは具象的なものなんですよ。

 

だから人は様々な抽象的なイデオロギーにとらわれるわけですね。私もそうなんですね。

 

イデオロギーというのは抽象的であるがゆえに人によって違うわけです。

 

時代によって、地域によって、個人によっても違うんですけども、だからさまざまに衝突するわけですね。

youtu.be

人々の間で衝突するし、そして様々な間違いを犯すわけですよ、具象的であるが故にね。

 

だから私で言うと、自分が何を間違ってるのかっていうことも度々私は振り返るんですけども、やっぱり私はアーティストなので、芸術とは何かという事に対してね、イデオロギー的に凝り固まっていた時期があって、それを徐々に解きほぐしてきた経緯があるんですけども。

 

それでもまだその特定のイデオロギー、芸術に対して特定のイデオロギーに囚われてる部分はあって、もっと解きほぐして抽象化しなければならないなという風にして思ったんですね。

 

でこれで特に芸術とお金、アートとお金の問題ですよね、どうしてもそのやっぱりアートの価値はお金の価値とは違うんだ、っていうようなイデオロギーに囚われすぎていたわけですよ。

 

かと言って、アートの価値はお金で計れるという風にイコールでは結びつかないですけども。

 

でもそういうイデオロギーもあるわけですよね。

 

アートの価値というのはお金で計ることができるんだと、高い金額のアートというのはその金額に見合って高い価値があると、当然そういう価値体系がある、そういうイデオロギーがあるわけですよね。

 

イデオロギーに凝り固まってると、そういう他のイデオロギーそのものを排除してしまうと、自分の考えが排除してしまうと、検討材料から排除してしまうと、それはそれで考え方がイデオロギーに凝り固まっているということで、つまりそう言う意味でイデオロギーというのは具象的な、具体的な内容を持っているわけですね。

 

だからそれを解きほぐして抽象化しなければならない、という風にして改めて思ったわけですよ、

 

だから私は宗教の抽象化というの目指してきましたけども、でもまあ、もともと私は何とか教っていう宗教に所属しているわけではなくて、その意味では特定のイデオロギーに縛られていたわけではないとは言えるので、割と宗教に対してはフリーな立場で、宗教の抽象化というのは出来たのかもしれないですけども。

 

一方で自分はアーティストであるという自負があるんですよね。

 

そういう自負があるとかえって具象的な、特定的な特定のイデオロギーに縛られてしまって、それで色々つまずいてしまうところがあるわけですよね。

 

だからこのチャンネルにしたって、一応私の肩書きはアーティストで、芸術家でありまして、そのくせあんまり芸術についての発信がないっていうのも、やっぱり自分の中でのイデオロギーがフリーな領域に逃げているという、そういう言い方もできるんですよね。

 

私は宗教からもともと自由なんだと。だから宗教については自由に語ることができるという、そういう気楽さがあるわけですね。

 

それと哲学もそうですね、哲学書を最近は読んでますけど、で哲学についてもしきりに語ってますけども、自分は哲学者でもないんだと。

 

大学で哲学科出たわけでもないと言うね、そういう気楽さがあって、でその哲学の抽象化ってのもおかしな話ですけども。

 

一方でね入門書、解説書というのは哲学の具象化なんですね。

 

哲学のイデオロギー化なんですよ。

 

だからよくあるニーチェ入門書なんかもニーチェイデオロギー化、具象化しているわけですね。

 

だから分かりやすいんですけども、それに対して私は抽象的なものはあくまで抽象的に理解しようと。

 

そうすると話としては分かづらくなるところがあるんですけども、だからそうやって自分にとって、フリーに、自由な感覚でイデオロギーから、特定のイデオロギーから自由に抽象的に語れる領域があるんですけど。

 

もう一方で肝心のアートになるとやっぱり自分の何が現時点で悪いのか、何が悪かったのか、悪いところの何を自分が引きずっているのか、っていうところを思い返すとやっぱりその肝心の、自分はアーティストだっていう気負いがあって、「美大出てるんだ」ってねで、美術で賞ももらってるんだってね、そういういろんな自負があるわけですよ。

 

そうするとストレートに、やっぱりそういう自負ってのは、だから結局は自分のイデオロギーに関わってくるわけですよね。

 

そういう具体的な、そういう経歴なんてのはだから結局ね、肩書きとか経歴とか、そういうものも具体的なものなんですね、具象的なものなんですね。

 

具象的なものっていうのは人を縛るわけですよ。

 

だからその意味で言うと具象というのは人を縛るし、抽象というのは人を自由にするんですね。

 

だからその別にその美大の経歴があった、美大卒の経歴があったりとかね、賞をもらったりする肩書きってのは別にあるに越したことはないというか、あったらあったで良いわけです、なかったらなかったで良いわけですね。

 

一方でそれに自分が囚われて、それが具体的な、具象的なつまずきの石になってしまっては、それは本末転倒なわけなんですよね。

 

だから一方で僕自身が哲学について何の気負いもなくね、勝手なことをしゃべって、そして日本の名だたる哲学者、中島義道先生しろ、竹田青嗣先生にしろ、批判するわけですよ。

 

そういうことが平気でできるってのは私は別に哲学科を出てるわけじゃないですからってね、肩書きの無さが、私に抽象的な自由与えてくれるわけですね。

 

だから同じように美大出てるからとかね、なんか賞をもらったことがあるとかね、美術館に展示したことがあるとかね、そんなのまぁ、けっきょく知らない間にそういう具体的な経歴に私自身が囚われているわけですよ。

 

だからそのやっぱり、あらゆるイデオロギーを抽象化しなければならないと。

 

でそもそもイデオロギーというのは具象物、具体物なんだと。

 

だからイデオロギーを抽象化しなければならないと、抽象化したものっていうのはイデオロギーとは言えないのかもしれない、という言い方もありますけど。

 

でも宗教で言うと、宗教を抽象化してもそれは宗教ですからね、イデオロギーも抽象化したってそれはイデオロギーなんですよ。

 

それでまあその私で言うと、一方では明らかな苦手領域というのがあるんですよね。

 

例えばお金の事とかね、私は非常に苦手なんですよね。

 

あと政治のこともね、よく分かっていないところがあったし、あと歴史もね、最近はちょっと勉強するようになりましたけど、元々は歴史の勉強も苦手だし、あと数学苦手ですね。

 

算数苦手、計算も苦手なんですけども、やっぱりそういう苦手分野というのも結局はイデオロギーによって苦手だったり嫌いだったりしているのではないのかなと思うわけですよ。

 

だからこれは逆に考えてみればわかるんですけども、この前もアートについて全然興味がなくて知らないっていう方とちょっとお話をする機会があったんですけども、やっぱりアートに関係ない、その意味での普通の人っていうのは、アートというものに対して非常に恐れを抱いてるんですね。

 

「俺はあんなもの分からない」「ああいうのは分からない」と、「ああいう高尚なものはよく分からない」って言って、その意味で非常に怖がってるっていうね。

 

そんな怖がることないのにと思うし、あと哲学書なんかも、「フッサール読んでます」みたいな話をした時に、「やあ私はちょっと読んだけどあれも全然難しくてわかんなくてよく読めますね」つってね。

 

ある種それもすごく哲学というものを、ちょっと興味持ってかじったけども怖がって、やめちゃったっていうね、そういう態度なわけで、だからそれもだから一方でイデオロギーというのは苦手意識や、恐怖となって表れるのであって。

 

だからそうやって人の反応を見るとそれを自分に振り返って考えると、私のお金が苦手っていうのはね、あと金に関連してその政治のこと法律のこと、N国党の立花孝志さんなんて法律大好きで、法律のことなら何でも知ってるって言うような感じですけど、私は全然そういう興味が持てないんですけども。

 

だからそれは自分がそういうこと興味ないんだっていうそういうこと言うのは簡単ですけども、やっぱりの政治のことお金の事知った方が生きやすくなるのは確かですし、そういうものはどうしても苦手で、そういうこと考えようとすると頭も止まっちゃうとかね、それはだから実は、これもイデオロギーなんだと。

 

だからイデオロギー自体を抽象化すると様々な苦手分野が克服されるはずだというふうに思うんですね。

 

もちろん人にはできる事できない事っていうのはありますけど、それはだから人それぞれね、能力が違うというのは、それはその身体的な都合ですよね、脳みそも含めた身体的な都合で、人には得意不得意があって、さまざまに限界があるでしょうけども、でもそれとその具体的な具象的なイデオロギーによって何か足止めされていると、自分の興味が足止めされているっていう、そういう可能性は十分にあるわけですよね。

 

だから可能性は、負の可能性というのは排除しなければならないので、どの分野に限らずね。

 

「どの分野に限らず」っていうのは、それが「抽象的に考える」って事ですよね。

 

イデオロギーを抽象化するとそういうことを心がけたいなというね、そういうその自分に言い聞かせる為にも動画にしたという次第でありますね。



言語とは翻訳である

前回は聖書を引き合いにして、全ては言語であるという話をしましたね。

youtu.be


新約聖書ヨハネ福音書ですね。

で、もう一回ね冒頭を読んでみますけども、

初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。この言葉は神と共にあった。万物は言葉によってなった。なったもので言葉によらずになったものは何で一つなかった。


ということなんですよ。

ですから今私が喋ってる言葉、人間が喋ってる言葉がだけが言葉ではなくて、この世のあらゆるものが実は言葉であると。

聖書の解釈によるとそうなんですよ。

で思い返すとですね、思い返すとっていうか、私が何度も取り上げているヴィトゲンシュタイン論理哲学論考ですね。

論理哲学論考は、世界というのは論理空間の中にあるんだ、というふうに述べてるんですね。

だからそれっていうのは、聖書のヨハネ福音書の言葉と重なるんですよね。

だから「万物は言葉によってなった。なったもので言葉によらずになったものは何で一つなかった。
」ということですね。

そして「初めに言葉があった」と、つまり全ての前提、世界そのものの前提に論理空間があるんだと。

そういう風にして言語というものを捉え直すことができるんじゃないのかな、という風にして思ったんですね。

それで結局、世界そのものが言語なんですよね。

でそれを人間は、人間の言葉に置き換えて認識していくんですよ。

ですからそれが「翻訳」ということなんですね。

だから英語を日本語に翻訳するように、世界を翻訳しながら人間は読んでいく、認識していく、ということなんですよ。

人間というのは目に映るもの、耳に聞こえるもの、あと皮膚で感じるものですね、それを次々に言語に置き換えながら認識をしてしている訳ですよね。

だから「今日は晴れてますね」とか、「空を見上げると青空がある」とか、「地面には道があります」と、「私は今は道を歩いています」、という風にして言語に置き換えて物事を認識すると。

でも人間が言語に置き換えて認識する以前に、世界というものはそのものとして存在するわけですよね。

世界がそのものとして存在するということは、これは言語として存在するということを前回の話で述べた訳ですよね。

そもそもあらゆる生物が何らかの形で世界を認識しながら生きているわけで、そうするとあらゆる生物がその種に固有の翻訳の仕方で世界を認識していると。

翻訳しながら世界を認識していると。

だから生物の身体というのは、人間の身体もそうですけれども、種に固有の翻訳装置なんですね。

だから猫には猫に固有の翻訳の仕方がある訳ですね。

世界を翻訳するわけですよ。

どのように翻訳するかって言うと、動物にとって一番重要なのは餌ですからね。

そうすると猫にとって何が餌なのかという「これは餌だ」っていうふうに翻訳しながら世界を認識するわけですよね。

お魚くわえたドラ猫♪、って歌ありますけども、魚であるとかね、ネズミであるとかね、そういうものは食べ物として認識されると。

認識されるっていうのは、まそのようにして翻訳される訳ですよね。

翻訳っていうことはだから猫は猫で猫の言語体系を持ってる訳ですよね。

人間の言葉とは違いますけども、黙して語る言語ですね、そういうものを猫は持ってると。

そうするとウマとかヒツジとか、草食動物の言語とは違う訳ですよね。

言語というか、翻訳装置としてのヒツジっていうのはそもそも歯の構造が違う訳ですよね。

肉食動物というのは犬歯が発達して歯が尖ってますけども、草食動物っていうのは臼歯が発達していて、草をすり潰すようにできてる訳ですね。

その身体の構造自体が翻訳装置なんですよね。

ウシは消化しにくい草を食べるため、胃が四つもあるんですよね。

で、そのウシが四つ胃を持っているということ自体が翻訳装置なんですよ。

それは人間の翻訳の仕方、胃が一個しかないですから、それとら違う訳ですよね。

人間はだって牧草をそのまま、生のままモシャモシャって食べられない訳ですよね。

そういうことで翻訳の仕方が違うんだと。

そうやって動物種によって翻訳の仕方が違うんですけど、人間というのは「言語」というツールを使って翻訳するところが他の動物と違うわけですね。

言語っていうか「ヒト言語」ですね、ヒトに特有の言語ですね。

でヒトに特有の言語の特徴というのは可塑性がある訳ですね。

だから自由に変えることができるというか、有り体に言うと動物の言語というのは、翻訳装置というのは固定されている部分が大きいわけですよね。

固定されている、つまりはいわゆる本能ですよね。

人間もかなりの部分が本能に縛られているという、そういう話も以前にしましたけども、でも格段にその他の動物に比べると可塑性があって、それで人によってずいぶん違う訳ですよね。

同じ人でも子供から大人になるに従って違ってくるし、原始人と古代人とね、中世の人と現代人では
やっぱり言語のあり方、翻訳のあり方がずいぶん違うんですよね。

そして地域によっても違うし、同じ現代人で、同じ地域に依っている人の間でもずいぶん違う訳ですよね。

で結局、哲学的な営みっていうのは何かって言うと、翻訳もなるべく原語に近づけていくというね。

つまりけっきょく翻訳の場合っていうのは、例えば英語から日本語に翻訳をするにしても、百パーセントの翻訳はできないんですよね。

だからどうしても日本語風にアレンジしてしまうと。

その逆もあるし、例えば日本語の俳句っていうものは、正確に英語で俳句の味わいとかニュアンスとか、そういうものも含めて英語に翻訳することっていうのができない訳ですよね。

そういう翻訳の限界があるんですけど、同じように、同じようにっていうかもっと差があるんですけども、ウィトゲンシュタインというところの論理空間そのものですよね。

人間の言語に先立って存在する論理空間そのものですね。

それは要するに、人間には認識不可能な世界なんですね。

それはジャック・ラカンが言うところの「現実界」というもので、人間というのは現実を見たり聞いたりしているようでいて、実は人間の身体を通してものを認識してる訳ですよね。

だから結局ものを見ると言ったって、人間の目の構造に依存している訳だし。

今冬で、今年の冬寒いですけどね、「寒い」って感じるっていうのは結局人間の身体がそういう温度に耐え難いっていうね、そういう構造になってるから、そういう風にして感じる、それがまさに翻訳装置としての身体なんですね。

翻訳装置としての身体という限界があるので、世界そのものを「世界そのもの」として、つまり「論理空間」としてダイレクトに認識することは不可能なので、だから翻訳なんですね。

でも翻訳っていうのは百パーセント元の言語をトレースすることはできない訳ですよね。

で結局だから誤訳をしてしまうと。

だから厳密に言うと翻訳というのはどこまでも誤訳するしかないのであって、近似値でしかないんですね。

で、その近似値を近似値でありながら、なるべく原語近づけていこうというのが、哲学のあり方だと言えるんじゃないのかなと思うんですよね。

だから分かりやすい例で言うと古代ギリシャソクラテスですが、当時の都市国家アテナイの知識達にさまざまな問答を仕掛けて、「結局お前ら何も知らないじゃないか」って「知ったかぶりしてるだけだけじゃないか」って次々に論破していったわけですけど、それっていうのは結局みんな真実を言葉で言い当てたようなことを言っていて、それは全部ことごとく「誤訳」じゃないかと、翻訳として外れていると、そういう風に指摘したわけですよね。

で翻訳として外れているという指摘自体が、翻訳としては割と近似値としてはかなり本質に近いと。

だからこそ哲学だと、哲学の祖であるとソクラテスはね、そういう風にして言われていると思うんですけども。

ですから人間だけが言葉を喋って、動物というのは言葉を喋らないんだと、そういうふうに言うよりも、ウィトゲンシュタインのように世界は論理空間の中にあるんだと、そういう一見突拍子もないことを言ったほうが、真実に近い、翻訳としてはより近似値を言い当てていると、そういう風に言えるんじゃないのかなという風に思うんですね。

だから結局、人間が話す言語、人間が使う言語ですね、話すというよりも認識としてのツールとしての言語ですね、これっていうのは本質的には翻訳なんだと。

だから我々は世界を翻訳しながら認識すると。

認識するっていうのは翻訳することで、翻訳っていうのは近似値なんだということなんですよ。

あとね他にもちょっと話そうと思ったことがあるんですけども、今回はこの辺で終わろうと思います。

言語の普遍性

人間の特徴として「人間は言語を話す」という点を挙げ、それが他の動物とは違うのだとすると、それは「言語の普遍性」ではなく「言語の特殊性」を述べたことになります。

youtu.be

ところが『新約聖書』の「ヨハネによる福音書」第一章の書き出しは、下記のようになっているのです。

初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。この言葉は神と共にあった。万物は言葉によってなった。なったもので言葉によらずになったものは何で一つなかった。

これによると、何よりもまず先に言葉と言うものが存在して、その言葉から全てのものが出来上がって、つまりは全ては言語である、と「言語の普遍性」を述べているのです。

そしてこのことから、私がかねてより述べてるように、人間以外の動物も実は「言語」を使うと考える事ができるのです。

その考えで言えば、むしろ人間が使う言語というのは「普遍的な言語」に対して「ヒト言語」と仮に名付けらるものではないかと言えるのです。

そして動物としてのヒト(ホモ・サピエンス)は、ヒトに特有の「ヒト言語」を使うんだけどもでも人間以外の動物植物も全て言語を使うんだと。言語というのはそれだけ普遍的なものなんだと言うふうに思う訳ですよね。

と思うっていうのは、そういうふうに考えてみようと言う訳なんですよ。

で実際、二十世紀になって発見された遺伝子というものも言語だったんですね。

だからこれは、聖書の預言が的中したという風に言えるわけですよね。

っていうのは言語としての遺伝子を指しているとも言えるわけですよね。

遺伝子というのはATGCと略されますが、アデニン、チミン、グアニン、シトシン、その四つの言語でできている訳なんですよね。

で遺伝子だけでなくてあらゆる動植物あらゆる生物は言語を使うだとっていう風に私は考えてみたいわけですよ。

でそうするとその認識ということですね、動物っていうのは何らかを認識するわけですよ。

だから一番で言うと食べ物かどうかということを認識するわけですよね。

でそれが何であるのかって分かるっていうことが、その分わる分からないっていうその分かるということが、一つやはり言語な訳ですよね。

ですから犬や猫のような高等動物は言うに及ばずですよ、ハエトリグモなんて動いている虫を餌だというふうにして認識してパッと飛びつくんですけども、実際に観察しているとね、そうなんですよ。

そうすると「動いている」というその様子ですね、それ自体が言語なんですよね。

そうやって、それが餌であるというそのシニフィアンシニフィエの結び付きですね、記号表現と意味内容の結び付きですね、それが生じて餌を捕るという行動になる訳ですけど、この「餌を捕る」っていう「行動そのもの」もひとつ言語な訳ですよ。

記号表現と意味内容ですね行動と栄養摂取という意味内容が結びついているということになる訳ですよ。

とにかくね、その人間というのは言語を介してさまざまなものを認識しますけども、でも人間以外の動物というのは言語を介さないで物事を認識するわけですよね。

ですから猫にしたって犬にしたって人間の表情を読んだりとかね、大体考えること分かるととかね、そういうことあるんですけど、その分かるっていうこの自体がひとつ言語な訳ですよ。

だからこれは動物行動学者のコンラート・ローレンツ先生が指摘していますけども、犬や猫っていうのは一般的にいうところ人間の顔色を窺う訳ですよね。

で、顔色を窺うってことは、だからそれは人間の音声の言語とは違う言語な訳ですよね。

一般的に非言語と言われるものですけれども、元々人間自身も非言語コミュニケションがもっと発達していて、いわゆる言語によるコミュニケーション、言葉によるコミュニケーションっていうのは補助手段に過ぎなかったものが、文明になって音声言語、さらには文字言語に人間が頼るようになって、顔色を窺うとか、微妙な立ち居振る舞いとか、そういうもので互いの意図を探ったりっていうようなことがだんだん出来なくなってきたんだけども、でも野生動物というのはもっぱらそういうことでお互いに言語のコミュニケーションをしているんだと、それだって立派な言語のコミュニケションではないかと。

まあコンラート・ローレンツ自身はそのように述べていないと思いましたけども、でも結局はそういうことだとは思うんですね。

ですからその意味で言うと、さまざまな物事が言語を発しているんですよ。

だから人間だってね、黙ってたってね、言語を発しているんですよね。

むっつりと黙ってると「あの人の機嫌悪いんじゃないかしら」ってね、そういう言語を発することになる訳ですよ。

黙っていても何かニヤニヤしていると、「なんかあの人は嬉しいことがあったんじゃないかしら」っていうね、そういう言語を発することになる訳ですよね。

黙っていても何かそわそわして落ち着かないと、そういう不安な態度でいると、そういう言語を周囲に発することになるので、そういう気持ちを察せられてしまうと。

で人間でさえそうですから、それは犬や猫のような動物はまさにそうなんですよね。

黙っているだけで言語を発しているということなんですよね。

それは更にカエルであるとかカマキリであるとか、そういうもっといわゆる下等な生き物も言語を発しているわけですよ。

例えばカエルで言うとアマガエルなんていうのは擬態をするわけですよね。

擬態をして体を緑色に変色させて敵から身を守るわけですけども、それは「私はエサじゃないですよ」という言語を発していることになる訳ですよ。

だから昆虫で言うと枯葉にそっくりのチョウとかガがいるんですね。

沖縄のコノハチョウはまさに枯葉そっくりのチョウチョですけども、枯葉そっくりってことは「私は枯葉でございます」っていう言語を発しているわけですよね。

そして「私はエサじゃありませんよ」っていう言語を発している訳ですよ。

その意味で昆虫だって言語を使う訳なんですよね。

そしてその枯葉そのものだって、これは言語な訳ですよ。

一般に動物にとって枯葉ってものは餌じゃないですからね。

これはエサじゃないと、価値の無いものだというふうにして、そういう言語として地面に転がってる訳ですね。

いま冬ですから森に行けば枯葉がいっぱい積もってますけど、その枯葉が一つ一つの言語なわけなんですよね。

なぜ言語なのかっていうと、「これは何なのか?」っていうことを人間以外の動物も読むことができるんですよね。

それに対して冬でもなお縁の葉っぱというのは、ある種の動物に対して「これには特定の価値がある」という言語を発しているわけですよ。

それ自体が言語になっているわけですよ。

だから私が何度か取り上げてるアフォーダンス理論っていうのも、そもそもそういうものなわけですよね。

 つまりアフォーダンス理論によると、いま自分が歩いてるこういう平らな地面そのものがですね、「ここは歩くのにちょうどいい道ですよ」という情報を提供してるんですね。

アフォーダンスというのは「アフォード=提供する」が語源ですけれども、この手すりにしたってね情報を提供しているわけですね。

「こっちからあっちには行けませんよ」という情報を提供していて、それ自体が一つの言語になっていて、その言語というのは人間だけに向けられたものじゃなくて、動物にも共有のものなんですよ。

ですからこれは動物写真家の宮崎学先生の研究ですけども、「けもの道」というものがある訳ですよね。

いろんな動物がけもの道を通るわけですよ。

山の中のけもの道ですね。

そうすると踏み固められて通りやすい道になるんですよ。

だから野生動物にとってと、こういう藤沢のこの辺の山は非常に険しいんですね。

険しくて人が通れないんですけど、こういうところは動物が通るのも結構不便なんですよ。

ですから動物たちっていうのは自然にけもの道を作っていくわけですね。

そのけもの道というのも一つの言語になってる訳ですよ。

動物に共有の黙して語る言語になってる訳ですね。

で人間は人工的なけもの道としてのこういう舗装道路というものを作ってるに過ぎなくて、こういう舗装道路だって、動物にとってはこんな険しい山をかき分けて行くよりも、ここを通った方が楽なんですね。

でも人間っていうのはこの地球上を我がもの顔で支配しているので、動物はあっち行けということで、排除していますけども、だからやっぱり聖書に従うとね、人間だけが言語を使うんだということではないし、言語と言語でないものを区別するとか、そういうことではないんですね。

初めに言葉があって、そして全ては言語であって、で言語によらないものが一つとしてないと、そういうね、太古の昔からの人類の知恵ですね、直感ですね、そういう哲学的直感ですね、そういうものっていうのは実は重要なんじゃないのかなという風にして思う訳ですよ。

だから僕自身は言語の普遍性ということを結構前々から考えていたんですけども、なかなか確信が持てないと言うかね、そういう風に思っていたんですけども、とにかく新約聖書ヨハネ福音書っていうね、そういう教科書もありますからね。

教科書にそうやって書いてあったんだって言うとね、自信が持てるというかね、誰に文句を言われる筋合いはない。

「だって聖書に書いてあったんだから」って言ってね、そういう風に言えるんじゃないのかなと思うんですね。

芸術の時代と、芸術ではない時代


芸術の時代と芸術ではない時代


昨日ね、長野の小布施町北斎館、葛飾北斎の美術館ですね、実家に帰省するたびにそこ観に行くんですけども、素晴らしい北斎の作品が展示してありまして、それでとにかく全然見たことない作品が並んでましたね。

youtu.be

北斎館は帰省するたびに行くんですけども、そのたびに展示替えがあって、って言うか企画展があって、学芸員さんがずいぶんがんばってね。

昨日は北斎と視覚効果みたいな、そういう企画展でしたけども、ぜんぜん見たことない作品ばかりで、私はかなり興奮して一生懸命見て、眼が本当に疲れてしまったんですけども。

まあ改めて思うのは、まず北斎自身がすごく才能があって、それで本当にレオナルドダヴィンチ級の人だと思うんですよ。

一点一点作品が違うんですね。

だから同じように神奈川沖浪裏波がザッパーンとね、ああ言う同じような絵もいくつかあるんですけども、それぞれ違う波を描いているんですよ。

富士山の絵もたくさん描いてますけども、どれも違って工夫を凝らしていて、教養と知性と技術の限りを尽くして作品を作っていて、すごいなという風にして思うんですね。

北斎も頭使って書いてますからね、だからこっちも頭を使って色々「ああこういう風にして工夫してるんだな」って頭使いながら見るから余計疲れるんですけども。

だからそうやって北斎のレベルが高いってのはわかってるんですけども、見れば見るほどレベルの高さがより理解できてくると。

レオナルドダヴィンチの勉強もちょっとしたのでそういう関連で北斎を観ると、ぜんぜん引けを取っていないと言うかね。

時代は違いますけどもやっぱり一般的に言うと江戸時代というのは遅れた時代で、封建時代で、そっから西洋から進んだ文明が入ってきたというふうにして何となく思ってますけども、全然そんなことがなくて、北斎の作品を見る限り文化レベルってのはぜんぜん同時代のヨーロッパにもひけを取らない取らないぐらい成熟して、大変な域に達していたんだなというのがね、北斎の作品を通してよくわかったんですけども。

それも北斎一人だけが凄いわけじゃないんですよね。

つまり北斎というのは売るために絵を描いていたわけですから、北斎の浮世絵というのを江戸の庶民たちが買ってたわけですよね。

だから江戸の庶民というのはそういう北斎の作品の高さというものを理解していたし、北斎が背景としていた教養であるとか、文化レベルであるとか、そういうものを共有していたわけですよね。

だから北斎一人だけがポツンといたわけではないので、北斎のレベルの高さっていうのは江戸庶民の、江戸時代の市民文化のレベルの高さを表しているんだと思うんですよ。

ちょっと僕も歴史の勉強をし直してる最中で、帰省中は実家にいる時はイギリスの歴史をちょっとおさらいしていて、でそっからちょっと日本ももう1回振り返らなきゃいけないなと思ったんですけど。

近代の歴史ですよね、産業革命があるとあっという間に世の中が変わるとかね、フランス革命があるとあっという間に世の中変わるとか、そういうことじゃなくて歴史って言うのはあらためて勉強してみるとすごく複雑な要素が絡み合って、そして紆余曲折あるわけですよね。

だから葛飾北斎の時代っていうのは黒船が来航する直前の時代ですけど、もうその頃かなりのレベルの文化っていうか、もう近代ですよね。

本当に北斎の作品を見てるとこれはもう近代だと、少なくとも中世とは言わないし、近世というのもね、もっとこう本当に近代的な視点なんですよ。

現代とそんなに変わらないわけですよね。

それでいてレベルが全然高いわけですよね。

一つ私が改めて思ったのは、まだそうやって芸術の時代であったと、その当時江戸時代に芸術という言葉は日本にはなかったですけども、でもやっぱり絵画というもの、版画というもの、浮世絵というもの、北斎の肉筆画もありましたけども、それも素晴らしいものでしたけども、でもそういう芸術作品、美術作品そのものの、芸術という言葉はなかったですけど、芸術に相当するものの価値がものすごく高かった時代ですね。

だからその意味で言うと、「芸術の時代」だというふうに言えるんですけど、その意味で言うと、今は「芸術の時代ではない」んですね。

芸術の地位が社会的地位が下がったわけですよ。

なぜかって言うと、芸術の芸術的価値が下がったと同時に相対化されたんですね。

だから北斎の浮世絵って言うのは、北斎一人で作ったわけじゃないんですよね、あれは共同作業なんですよね。

だから絵師としての葛飾北斎がいて、そして版木を彫る彫り師がいるわけですよ、版画ですからね。

木を彫るわけですよ、そして刷り師がいるわけですよね。

で刷り師もボカシ技法とかなんとかってものすごい技術を使ってるわけですよね。

そういうまあ非常に緻密なものですけども、そういう緻密な版画の技術というのは今は失われてしまってるわけですよねーー復刻している人もいますけどもーー極限の細かさを見せつけてくれるわけですよ。

北斎の版画っていうのは、今回の北斎館の展示は絵本が主だったんだですね。

絵本って言うと、富嶽三十六景の大判サイズに対してすごく小っちゃいわけですよ。

だから今で言うと四六判の単行本ぐらいの大きさですかね、すごく小っちゃい中にかなり細密に版木が彫られていて、そういう技術って言うのは今は失われているなというふうにして思ったんですけど、実はそうじゃないんですね。

そういう日本人の緻密な器用さが、そういう技術が産業革命の受け皿になって、それが今も続いてるわけですよね。

そういう手先が器用で先進的な思想を持った日本人だから、西洋の技術とか思想とかそういうものを受け入れることができたと。

それがなかった中国や朝鮮は、それに反発して産業革命遅れてしまったという事情があるんですけど。

だから日本人の浮世絵に見られるような精密で繊細な技術というのは、今で言うところのカメラ技術とかね、集積回路なんて凄く精密にできていますけども、そういう技術的な細かいところまでは私はわかんないですけども、そういうの日本人ならではの日本人が産業革命に成功して、戦後は工業が躍進したというところは、浮世絵の技術というものをベースにしていると。

浮世絵だけじゃないですけどね、江戸時代の文化ですね、そういうものの延長上にあると。

だから逆に言うと江戸時代の日本には精密機械工業というのは無かったわけですよね。

だからそうすると今の時代に精密機械工業に振り分けるところのリソースが、人的資源が、様々な才能であるとかね、そういうものが全部絵画に芸術に版画にそういうところに投入されていたわけですよ。

だからこれは日本だけではなくてその昔というか十年以上前ですけど『中国の至宝展』というのを観に行って、つまり古代中国の殷とか夏とか、本当に歴史的記述の最初の文明ですよね、中国のね。

それは後の中国文明とはまた違う、とにかくものすごい美術品が出土されるわけですよ、中国でね。

それは見事なものですけど、その当時ってのは芸術というものが最先端という、かとにかく人間の手先の器用さとそれと頭脳力ですね、美的センスを含めた頭脳の力手先の器用さを見せつけるのは、今は工業製品というのがありますけども、それが無い時代は全て美術作品に集中してるわけですよね。

それが芸術の時代、美術の時代であって、で今は、近代っていうのは、実は美術の地位が相対化されて失墜する時代なんじゃないのかなと。

だからやはり最近の芸術は質が落ちたとか何とかっていう話はいろんなところでありますけども、それはそもそもがそういう時代なんだと。

芸術の価値そのものが相対化されて地位が失墜して、もはや芸術の時代ではないと。

でその中で私なんて呑気ですからね、何も考えないで芸術の価値は至上なんだってね、芸術には至上の価値があるってね、金に換えられない価値があるんだとかね、そういう馬鹿なことを言ってると、時代錯誤なこと言ってると、だからそれは無知の産物にすぎないんですよ。

だから私は最近はとにかく反省して、全分野に好奇心を働かせなきゃいけないと。

芸術家だからって芸術のばっかり知ってれば良いものではないわけですよね。

ろくに美術史だって知ってないのに、でもそうじゃなくてもっと人類史、歴史とか、あと経済学ですよね。

やっぱりいちばんの間違いの元は、自分自身がアーティストだっていうふうにしてアイデンティティを位置付けると、なにかアートとか芸術というものが至上の価値があるように錯覚してしまうと。

でその認識というのは間違いなんですよ。

近代っていうのはその意味で言うと芸術とかアートとか言うもの
が相対化される時代なんですね。

近代以前っていうのは絶対化されていたんだけど、絶対の価値があるんだと。

だから浮世絵の文化というものを極限まで発達してその極限に葛飾北斎がいたんじゃないのかなと。

ルネッサンスにおいてはレオナルドダヴィンチがいたと。

そうやって極限的に進化してその後に近代が訪れると、芸術が相対化されるという時代になったんだと。

それを
ちゃんと自覚しなきゃいけないなというお話でありました。芸術の時代と芸術ではない時代

権力としての哲学

そもそもですね、現代の我々というのは私もそうですけども、私に限らず左翼の毒に侵されているとね、そういう風に思う訳ですよ。

 

youtu.be

ですからその左翼の毒抜きをしなきゃいけないと言う風にして思う訳ですよね。

でその意味で言うと、そもそも文明というものは権力があって立ち上がってくるものなわけですよね。

で権力というもの自体が文明と不可分なものなんですよ。

ところが左翼的思想に侵されていると、権力っていうのが何か悪いもののように思えてしまうということと、それと権力とは違うものを打ち立てようと、権力とは違う形の価値を打ち立てよう、という思考にどうしてもなってしまう訳ですよね。

でそうすると芸術というのは権力から遠く離れて純粋なものであると、そういうことになるんですけど、それはそもそもおかしなことなんですよ。

だから結局権力というものが文明を作って、そしてその文明の産物というものが自然状態にはない良いものなんですよね。

「良いもの」っていう言葉はニーチェが使っていましたけども、「良きもの」というのは「良きもの」としてそのままで評価しましょう、ということなんですけども。

だから芸術にしろそれと哲学もそうですけども、文明の産物としての良いものですね、高度な素晴らしいものというのは権力と不可分に結び付いていると、権力の産物であると言うことなんですよ。

だから元々芸術が権力と根源的に不可分に結び付いていたというのは、だから権力者というのは自分がどれだけ他の人と違って偉いのか、というのを示すために芸術を利用した、芸術と結びついた訳ですよね。

だから古代メソポタミアの時代から権力者は立派な宮殿を作って、宮殿なり寺院なりそういうものを作ってですね、建築や彫刻や絵画で飾り立てるわけですよね。

でそういうことで権力を誇示するわけですよ。

芸術と権力が結びついてこれは良いものなんだと、権力とは良いものなんだと、ハンムラビ王は偉大なんだと。

そういうことで日本で言うと、日本という統一国家ができ始めた頃に聖徳太子がおりまして、でその聖徳太子を称える絵画であるとか彫刻肖像彫刻ですね、そういうものが盛んに作られるようになったと。

だからその意味で権力と芸術というのは根源的に結びついているんだけど、それは芸術だけではなくて文明の産物の全ての良きものですね、自然にはないーー自然には自然の良さがありますけどーー文明っていうのは自然とは全く別の価値の高いものを生み出すもことが文明たる所以で、文明的な良きものですね、そういうものっていうのは文明の産物なんだと、だから哲学も文明の産物文明の産物じゃなくて権力の産物なんですよ。

だから古代ギリシャソクラテスというのは権力者ではなくて、ギリシャアテナイの市民でしたけど、都市国家の市民でしたけども、市民というのはその当時は特権階級で権力者だったわけですよ。

古代アテナイの市民というのは一家の長男しかなれなかった、男子の長男しかなれなかったと。

でその他の兄弟や他の家族というのは召使いみたいな扱いだったわけですよ。

でその下にさらに奴隷がいたわけですよね。

でその上に特権階級としての市民が働かないで哲学談義を日々していたと。

でそういう権力の産物として哲学が形成されていったと。

そしてさらにソクラテスが自分の哲学を全うするために死刑になったというのは、その裏には実は世俗的な権力とは違う哲学的な権力を打ち立てようとソクラテスはしたんですよ。

哲学的な権力というのは、それは世俗の権力が侵すことができない権力なんだと。

だから世俗の権力にソクラテスは屈しない為に死刑を受け入れたわけですよね。

で同じことが実は古代インドのブッダにも言えるわけですよ。

だから古代インドのブッダは王子様だったんですね。

権力者の息子だったんですね。

でその権力者の息子という地位を捨てて出家して、そして世俗の権力に関わらない境地に達した訳ですよね。

悟りの境地に達したんだけども、その悟りの境地って何かっていうのは結局は世俗の権力にとらわれない権力を打ち立てたんですよね。

だからすべての権力を捨ててブッダは出家して、権力とは無関係の宗教的境地、哲学的境地に赴いたというふうにして解釈されますけど、実はそうじゃないんですね。

結局哲学というのは権力なんですよ。

それは世俗の権力が及ばない範囲の権力なんですよ。

だから価値がある訳ですよ。

そういうわけで私自身もなぜ哲学に惹かれるのかと、、最初は芸術家のつもりで自分の表現を突き詰めようと思って、で色々勉強していくうちにだんだん哲学の方に結局はのめり込んでいくんですけども、でも自分自身が芸術にのめり込み、そして哲学にのめり込んだというのは、結局のところそれが一つの権力だったからなんですよね。

だから芸術の権力、哲学の権力を奪取しようと思って私は必死になるというかね、夢中になってしまった訳ですよ。

だからと言って芸術の世界はまあともかく、哲学の世界で私が権力を握れるかって言うとね、そういうことはまた別なんですよね。

だからそこで言うと権力とは何かっていうこと自体が難しい問題になるんですけども、やっぱり人に認められようが認められまいが、自分は自分でできる限りの探求をして突き詰めるんだ、ということ自体が結局は自分自身の権力の追求なんですよ。

それはだから「人に認められようが認められまいが」って言うその「人に認められる認められない」っていうのはそれは地上の権力のことなんですよ。

で地上の権力以外にも権力があるということなんですよ。

でもそれは権力に違いがない訳ですよね。

だから結局は哲学を学ぶ、アートを学ぶっていうことになると、ちょっと二つ一緒にするとややこしくなるんで哲学の話をすると、哲学を学ぶっていうことは哲学の歴史を学ぶということですよね。

でそこに少しでも自分が参加できる余地ある訳ですよ。

ですから結局は僕自身はソクラテスとは違う時代に生きてるんですよね。

違う時代に生きているということだけで、哲学的に自分だけに私だけにできることっていうのがある訳ですよね。

でそこのめり込んでいくというね。

でそれっていうのは結局は自分が学んだの中での哲学の歴史に、自分自身が参加していくとうことの権力に、私自身が組み込まれていくと。

でそんな中で私も自分のできる範囲での権力を振るうと言うかね、そういうところに到達しようとするわけなんですけども。

だから結局はそれは芸術の芸術についてもそうな訳ですよね。

だから誰に認められなくても自分の芸術を追求するんだと。

最近、篁牛人(たかむらぎゅうじん)という墨絵の画家がいましてで、それの展覧会を見に行ったんですけども、篁牛人というのはもちろん私は全然知らなかったし、一緒に行った彦坂尚喜先生も知らなかったと、私のアートの師匠ですけども、知らないことはないぐらい博学の彦坂尚喜先生も篁牛人は知らなかったんですけども、篁牛人自体が大変に優れた画家で彦坂先生が絶賛したんで私も一緒に見に行ったんですけど、私が見てもねこれは凄い画家だと言う風に思う訳なんですよね。

で篁牛人っていうのは全く評価されずに、生前もほとんど評価されずに、戦後全く、戦後って言うか昭和の人ですけどね、戦後に作品展開した人ですけど、とにかく全然存在が知られなくて、今になってNHK日曜美術館で紹介されたらしいんですけども。

でも篁牛人はやっぱり自分の芸術を追求した訳ですよね。

誰に認められなくとも、自分の権力としての芸術を追求したんだと、そういうに言えると思うんですよね。

だからやっぱり世俗の権力に支配されないと、そうするとやっぱり自分が信じる権力に向かっていくと、そういうことになる訳ですよね。

だからそうやってあらゆる文明というのは、文明の産物というのは、基本的には権力と結び付いているわけで、権力の否定とかね、そういう左翼思想っていうのも、今ちょっとそれについてはまたさらに勉強中で、別に話そうと思うんですけども、とにかく価値観がひっくり返って錯誤してるんですよね。

ですからそういう間違いを、間違った教えを吹き込まれていたんだということを自覚して、もう一回勉強し直さなきゃいけないと、そういうお話でありました。

相争う哲学的見解を超えて怒りを鎮める方法

*こちらの動画の文字起こしです。

糸崎公朗です。

今回もこの『ブッダのことば』なんですけども、これを私は再びちょっとずつ、かみしめながら、よく考えながら、吟味しながら、読んでいこうとしてるわけなんです。

 

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

 

 

それで前回『ブッダの言葉』を紹介した時にこの「怒り」の問題ですね、第一章の、とにかく一番最初に怒りの問題がこの本に出てくるんですよ。

で、翻訳者の中村元さんですが、ただ翻訳したわけじゃなくて、ものすごく詳細に研究して、そして翻訳したというものですけども、その中村元さんによる後ろの解説によると、最初の「蛇の章」が一番古いわけではないんですけども、とにかくこの経典の一番最初に「怒り」というものの鎮め方が書いてあって、それが非常に人間にとって難しい問題でありまして。

で、この前の動画では自分はこれ読んでよく解釈して、怒りの鎮め方をマスターしたみたいなことを言いましたけども、実際にはそう上手くいかないんですね。

で、そのあと色々と 考える事があったんです。

それでは、前回紹介した第一章の、最初の言葉を読んでみます。

「蛇の毒が体の隅々に広がるの薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。蛇が脱皮して、古い皮を捨て去るようなものである。」

ということなんですけども、だから「この世とかの世とをともに捨て去る」というのは、結局は自分を捨てると、そして公共のために生きるんだ、というふうにして私は解釈したわけなんですよ。

怒るのは自分ですからね、自分の怒り、自分の、たかが自分個人の怒りなんですよ。

そんなものはちっぽけなんですよ。

それより人間っていうのはもっと大きな「公共」のために生きなきゃいけないと。

ちっぽけな自分の怒りにこだわっても仕方がない、という風にして思ったんですけども、それだけだとまだまだ足りなくてですね、で、今日読もうと思ったのは、この「蛇の章」の中の3番目の「犀の角」という章がありまして、その中の、この55番目の詩なんですけども、ちょっと読んでみますね。

「相争う哲学的見解を超え、悟りに至る決定に達し道を得ている人は「我は知恵が生じたもはや他の人に指導される必要がない」と知って、犀の角のようにただ独り歩め。」

 

 

これも普通に読むと難しい詩なんですね。

「相争う哲学的見解を超えて」いうのはいいんですけども、「自分には智慧が生じたのでもはや他の人に指導される要がない」と。

これはね、もうなんか天狗になってんじゃないかって。そんな簡単に真理に到達することなんかあるの?ってね、言うわけですよ。

そもそも自分を真理に到達して、誰にももう教わることがない、なんてほざいてるから、喧嘩になるんじゃないかと。

「お前の真理は間違ってる」とかさ、「俺が正しい」とかさ、そういう風になるんじゃないかという風に、思っちゃうわけなんですよ。

これは以前ニーチェのことを話した時にも、そういう風に述べたんですけども、私はね。結局ね、哲学的見解ですよ。

例えば「ニーチェがわかった」とかね、「フッサールがわかった」とかね、この「わかった」って何かっていうとね、結局はフッサールの言っていることそのままわかったりとかはできないんですよ。

ニーチェの言ってることをそのままわかったりもできない。

なぜかっていうと、ニーチェにはニーチェの人生があって、ニーチェ生きた時代背景があって、社会的背景があって、それは今の、この我々が生きているこの日本とは、状況が全然違うわけですね。

で、その同じ日本人の中でも「糸崎公朗」というね、この私です。

私には私の固有の人生があって、他の人と同じ日本人だからね、共通している部分 もありますけども、全然違っている部分がありますし、そもそもその読んできた本とかね、私固有の経験もあるわけですよ。

「写真家やってます。」とか「フォトモみたいな変な手法の表現で作品をつくってます。」とかね、そういうのも含めてなんですよね。「子供の頃から虫が好きで、虫の写真撮ってます。」とか、そういうのも含め てなんですよ。

だからけっきょく「ニーチェがわかる」「フッサールわかる」っていうのも、その人の固有の分かり方をするしかないんですね。だから僕は僕で、長年ニーチェになかなか手がつかなくて、なかなか読めないっていう思いがあったんですけども。

去年かな?今年かな?とにかくニーチェを読み始めたら、まあ「わかる」っていう感じはしたんですけど、それも「自分なりにわかる」ということに。

一応このチャンネルの動画では「どうわかったのか」ということの説明しましたけども、しかしそれは「これがニーチェの正解だ」という風にしては思わないし、私固有の理解の仕方でしかないんですよ。

だからそれは、究極的に言えば、誰にわかってもらう必要もないし、変に誤解されて「お前の考えは間違ってる」って議論を吹っかけられても困るって、いう問題があるんですよ。

だからまあ、批判していただくのは結構なんですけども、批判してもらっても困る領域、っていうのはやっぱり哲学にはあると思うんですよね。

でそれが一つは「固有性」という問題なんですね。

だからさっきの怒りの問題で言うと、公共性の話をしましたけども、つまり「私」に対して「公共」ということですけども、哲学においては、共通の公共的な共通見解、ま、公共と共通見解はまた違いますけどね、これは「ニーチェの解釈の正解だ」っていうのはね、全然そういう要素がないと言えないですけども哲学の入門書的に、公式見解的に「ニーチェはこういう風に言ってました。」っていう風にしていうのもね、だいぶ違うなという風にして思うんですね。

それよりもやっぱりこの時代、この前ラカンの解釈の問題を、私言いましたけれども、ラカンが講義をしたのは1950年代とか1960年代、昭和でいうと昭和30年代、昭和40年代ですよ。

そうすると小津安二郎とか、『三丁目の夕日』とか、そういう映画でいうと、昔の世界ですね、その昔の世界の人の言ったことを、今の我々の、今の時代、この私が生きている今の時代に当てはめると、また新しい解釈が生まれてくると。

それが生きた思想であり、生きた哲学なんじゃないかな、というふうにして思うわけですね。

だから「生きる」っていうのはやっぱり「個人が生きる」わけですから、固有性というのが、重要になるんですね。

でそうすると一つ、怒りの問題で言うと、この『ブッダのことば』の別の箇所にも書いてありますけども、人が怒るっていうのは、一つは「自分のことを分かってもらえない」とかね、「自分の話し聞いてくれない」とかね、そういうことで怒りが生じることがあるんですけれども、まぁねぇ、そんなの関係ないんですね。

そもそも自分の哲学的見解を「誰かわかってもらおう」とかね、思わなくていいんですね。

「誰かに聞いてもらおう」とも思わなくていいんですね。

だからこの youtube は僕にとってはすごく相性がよくて、勝手にしゃべって勝手にアップロードして、勝手に聞いてくれればいい、という風に思うわけなんですよ。

それはソクラテスの昔からそうでありまして、ソクラテスは『ソクラテスの弁明』ってね、大広場でみんなに自分の弁明をして、話を聴衆に聴かせるんですけども、誰もソクラテスの話なんて聴いちゃいなくてね、もうとにかく「死刑にしろ」ってね、死刑にしちゃってるわけですよね。

だからその意味で言うと、同じなんですよ。

ソクラテスの固有性というのも、当時のギリシャ人、同時代のギリシャ人には理解できないわけですね。

それはキリストも同じですけどね。

だからまあ、「ぶっ殺しちゃえ!」って話になるんですけど、だからそれは「ぶっ殺しちゃえ」って言う裏には、誰も話なんか聴いてないっていうね、「あいつはインチキだ!」ってんで、もう決めつけてるわけですね。

究極的に、誰にも理解されなくて、自分が死刑になろうがなんだろうが「怒らない」と。

「自分を死刑にしやがってけしからん!」ってね、そういうことは、ソクラテスもキリストも言ってないわけですよね。

ですからこの怒りの問題と関連して言うと、ブッダのこの「犀の角のようにただ独り歩め」というのは、繰り返し、繰り返される詩なんですね。

この『犀の角』っていう章がありまして、いろんな詩が並んでますけども、最後に「犀の角のようにただ独り歩め」と。

だから今日読んだところで言うと、「相争う哲学的見解を超える」と、そして「悟りに至る決定に達して道を得ている人は、「我は智慧ーが生じた。 もはや他の人に指導 される要がない」と知って、犀の角のようにただ独り歩め」 と。

それは自分だけが本当の真理に到達したというよりも、「自分固有の理解の仕方」を手に入れるっていうのがね、一つ、哲学的な段階じゃないかと。

まぁ私が言うのもなんですけどね、 そんな哲学専門家でもないし、キャリアも浅いですけども、自分の中ではね、その一つ段階に移行たしたな、っていう思いはあったんですね。

だからある程度いろんな本を読んできて、まぁ、たかが知れてますけどね、自分の範囲ですけどね、でまぁ、いろんな経験をするなかで、自分固有の哲学の仕方を理解することができたと、それがある程度高揺るぎないものだ、という実感があるわけですね。

だから、誰かの入門書の言葉を鵜呑みにするんじゃなくて、自分なりの解釈ができるようになったと。

で、それは人にとやかく言われる筋合いはないわけです。

で、もしかしたら間違っているかもしれないですよ。

だから間違ってる時は、いやもう「間違ってました!」という風にして、全面的に言いますけど、しかしそれは、人から言われるとかじゃなくて、この自分に納得して「間違ってる。」とね、それも自分の固有の問題として「間違っている。」と認めるという。

具体的に言うと、私は「非人称芸術」というコンセプトを掲げてフォトモとか作品作ってましたけども、作品ともかく「非人称芸術」というコンセプトは「間違っている」と、いう風して最近は認めているわけなんですけども、その認めるにもいろいろ理由があるんですけど、
これは自分の私の固有問題でね。

それは私の生き方だけではなくて、日本の状況取り巻く全体ですね、時代背景ですね。

一つは共産主義運動ですけども、そういうところに自分なんか全然…私は40年生まれ、
1965年生まれですから、全共闘、終わっちゃった時代で、そういうのぜんぜん意識しないで生きてきましたけれども、実はかなりに深く影響を、知らない間に受けてるわけですね。そういう自己分析を通して、「自分の考えは間違った。」という風にして、やっとのこで到達することができたわけです。

そういうまあ固有性の問題なんで、「他人にとやかく言われる筋合いはない。」と。

だからこれも相反する要素なんですけども、「他人にとやかく言われる筋合いじゃない。」レベルと、「他人の意見は受け入れますよ。」と、そういうものの併存が必要なんですけども、ただね、やっぱり自分もとにかく「他人にとやかく言われたくない。」という領域を持つっていうのが大切なんですね。

これ難しい問題なんですけどね。

だいたい、たいていの人はね、他人にとやかく言われたくなくて、もう意固地になって自分の中に凝り固まったり、 他人の意見なんか聞きたくないんですよ。

それは困る。

今回話しているのは、なかなか人に伝えるのは難しいかもしれないですけど、それとは全然違う、違う問題なんですね。

それが畢竟、怒りを鎮める問題になると。

いつも落ち着いて、心は平安で、他人の意見に動かされないと。

他人の意見に動かされない。心が動かされなければ、他人の意見も 聞き入れることができるだろう。

と、そういうお話でありました。

 

ソクラテスの弁明・クリトン (1964年) (岩波文庫)
 

 

 

中型聖書 旧約続編つき - 新共同訳

中型聖書 旧約続編つき - 新共同訳

 

 

 

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

 

 

 

フォトモ―――路上写真の新展開

フォトモ―――路上写真の新展開

 

 

 

精神病〈上〉

精神病〈上〉

 

 

ALWAYS 三丁目の夕日 通常版 [DVD]

ALWAYS 三丁目の夕日 通常版 [DVD]

 

 

小津安二郎 大全集 DVD9枚組 BCP-027

小津安二郎 大全集 DVD9枚組 BCP-027

 

 

顕教と密教

以下、空海の『三教指帰(さんごうしいき)を読んで連続tweetしたまとめです。

空海「三教指帰」―ビギナーズ日本の思想 (角川ソフィア文庫)

空海「三教指帰」―ビギナーズ日本の思想 (角川ソフィア文庫)

 

密教顕教、「密教」と言う概念は「大乗」仏教だからこそ生じ得た概念で、大乗仏教は「誰にでも教えられる教え」と言う前提があるから、だからこそ「誰にでも教えられるわけではない教え」の存在が対比として顕在化する。

 

仏教に限らず、一般的に人間は物を覚えることができる存在であり、従って人には物を教えることができる。それと同時に多くの人には教えられないけど、ごく一部の人間だけに教えられる事柄がある。それは端的に言えば人間の能力には「共通性」があると同時に「差異」も存在すると言う「事実」による。

 

哲学とは本質的に密教なのだが、大乗仏教が哲学を顕教化した。顕教とは「誰にでも理解可能な教え」でだから教えが誰にとっても顕在化している。

 

一方で密教とは、ことさら人々の目から隠蔽されていなくとも、一般に「難解な哲学は読めない」と言われているように、実際に多くの人からその内容は閉ざされている。

 

密教とか、秘密教義とか、秘奥教義などと言うと何か神秘的なイメージを持たれるかもしれないが、それはあくまで「顕教側のイメージ」であって、当の密教を実践している側としてはそんなつもりは微塵もない。

 

密教はつまるところ「自明性」を疑う知的営みに他ならない。しかし多くの人は「自明性」を疑うことを最も嫌うのである。これは非常なストレスを伴う行為で、このストレスに抗して知的行為を行うことを「密教」、ストレスを回避しながら知的行為を行うことを「顕教」という。

 

人は自分が嫌だと思うことに対し目を背け認識しない。そのことによって密教は必然的に多くの人から隠されることになり、実質的に「密教」となる。

 

実は、現在の日本では大学の哲学科を出ていなければ一般に哲学者と認められないし、さらに言えば大学で哲学科の教授をやっていなければ哲学者とは認められないが、このように経歴や立場と哲学とを紐づけるこの認識こそが「顕教」なのである。

 

純粋に密教的な認識をすれば、その人の学歴がなんで職業がなんであるかは関係なく、ただその人の「教え」を聞けば、その人が「何者」であるかが認識できるのである。

 

しかし「多くの人」にとって、その人が何者なのか?その内容のレベルが上がるほどに認識不可能になる。そこで「顕在化」した属性であるところの出身校や職業が認識の材料となる。

 

それは「教える」側の人間もそうで、自分が有名大学の哲学科を卒業し、大学の哲学科教授になるという、その「顕在的な認識材料」によって、自分を哲学者であるというふうに認識する。

 

しかし本来の、最初に大乗仏教を唱え始めた人たちは「顕教」と「密教」とを使い分けていたはずで、だからこの概念が言葉としても生じたと考えられる。

 

この「密教」と「顕教」の使い分けは、少なくとも日本の哲学界ではもうされていないように思えるが、しかし工業製品においては開発サイドが密教であり、ユーザーサイドが顕教であるという具合に、この二者の区別はさまざまな分野に存在するように思われる。

 

ただしこの「密教」と「顕教」の区別がなくなり、もっぱら「顕教」だけとなった分野は「終わっている」と言える。その意味で日本の哲学も現代アートも「終わっている」。この二つの分野において顕在化した目に見える徴(しるし)以外の何ものをも人々は認めようとしない。

 

密教顕教のフィルターを通して顕在化するとこのような「イメージ」として現れるが、この構造はオウム真理教と全く同じである。
https://www.cmoa.jp/bib/speedreader/speed.html?

www.cmoa.jp

 

本当の意味での密教僧がいくら真面目に授業したところで、金銭や名声はじめとする世俗的な成功を手に入れることが出来ない。

 

本来、顕教の思想の根底には金儲けではなく救済の思想があった。つまり密教僧を理解せず認識せず差別し排除する側の人々を「救済」する思想、これが密教僧が顕教を使用する本来的な動機となる。

 

密教僧は自ら学んで修行するが、文字通り人々に教えることは「何もない」。だから密教僧がその他の人々と関係をとり結ぶとしたらそれは「救済」しかあり得ない。だが一体、密教僧は自らを理解せず認識せず差別し排除する人々を一体何から救済しようというのか?…

 

いや確かに、多くの人が現世で苦しんでいるのであり救済を求めている。そして密教僧も同じく苦しみ、だからこそ自己救済のために授業する。しかし密教僧がそのように体得した「教え」のことごとくを人々は断固として拒絶する。そこで密教僧は自らの教えを「顕教」として変換する。

 

実に万人は「救い」を求めているのではないか?つまり密教僧の修行もつまるところは自己救済に違いなく、しかしその「救い」は多くの人々が求めている救いとは異なっているために「密教」なのである。

*下記、同日に撮影した関連動画です。Twitterで書いたのと同じ内容をしゃべろうとしたのですが、それができずに違う内容になってしまったので(笑)、ぜひご覧頂ければと思います。


顕教と密教/大乗と小乗①




密教と顕教/大乗と小乗②


顕教と密教/大乗と小乗③