アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

秀才とキッチュ

今ですね、『知能低下の人類史』というね、なかなかすごいタイトルの本を読んで、半分ぐらいまで読んだんですけども、この本だから人類の知能って、平均的な知能ってね、近年低下してきているんじゃないかっていう、そういうことを指摘した本で、なるほど、そういうこともあるかもねと思いながら読んでるんですけども、一方では人間の知能について、例えばIQとは何かとか、IQが高い人と低い人の違いとかっていうのをかなり赤裸々に綴ってる本で、この本の冒頭にも書いてありますけども、知能の話ってのは多くの人に嫌われている話題なんだっていうね、だから一般的にはタブーとされているわけですね。

で、この本はね、実はこのチャンネルでも度々紹介している橘玲さんの一連の著作と似てるところがあって、例えば『言ってはいけない』っていう橘玲さんの本もそうですけども、その言ってはいけないことっていうのは、つまりは知能に関したことなんですね。で、知能に関したことはやっぱり一般的な今の常識ではタブーとされてるので、嫌われる本だつってね。橘玲さんも、この著者も、これはイギリス人ですかね、二人、研究者の本なんですけども。

で、そこでIQとは何かっていう話、知能が高い低いはどういう意味なのかっていうことと同時に、その、さっき読んでた章は天才とは何かっていうことがね、いろいろと説明されていて、で、天才とは何かっていうこともね、あの、『天才を殺す凡人』というそういう名著はあって、でまあ、いろんな人がね、過去いろんな人が天才について言及しているので、例えば山本七平さんとかね、あと誰いたかな、とにかく天才ってのはこういうもんだってのも私もなんとなく分かってて、で、この本に書いてあった天才像っていうのも僕の認識とそんなに違いはないですけども、ここで改めて天才ではない秀才とは何かということが明らかになったわけですね、私の中でね。

だからこの中で、秀才とは何かっていう定義をしていないですけども、でも、まず1つは、IQが高い人はどういう人なのかっていう説明があって、IQが高い人っていうのは、例えば自分の得意分野ですね、数学が得意であるとか、言語の能力に秀でているとか、物理の専門家であるとか、そういう人はIQが高いんだけども、そのIQが高い人っていうのは一般的に他の能力も高いっていうんですね。だから、国語、算数、理科、社会で言うと、理科が飛び抜けて得意な子でも、IQが高い子は、理科ほどではないけども国語の成績も、社会の成績も、みんな押し並べて高いとね。そういう傾向にあるのが、IQが高い人の特徴だと言ってるわけですね。

で、それに対して天才っていうのは、そのある特殊な能力においてはものすごい飛び抜けてんだけども、意外と学校の成績悪かったりとかね、普通の人ができるようなことができなかったり、あとはその社会的な共感性がなかったりとかね。だから、社会的な共感性っていうのは、IQが高い人の特徴なんですね。だからIQが高い人っていうのは、社会的にも高い地位を得て、お金を儲けるのもうまいとね。すべて要領よくこなしていって、自分の得意分野でも能力を発揮するけども、それ以外の分野でもそつなくこなすことができるのが高IQの人ですね。

で、そうすると、そのIQが高い人の定義というのは、それはそのまま秀才に当てはまるんじゃないのかなというふうに思ったんですね。だから、まさに『天才を殺す凡人』という本でも、その天才と秀才は違うんだっていうね、そういう区別を明確に設けていましたけども、そこで納得した説明とその高IQの人と、それと飛び抜けた天才の違いというのは、符合するわけですね。つまり、高IQの人っていうのは秀才だということになって、それは一般的な認識でもね、専門家がわざわざ説明するまでもなく、そういうことになるわけですね。

で、そうすると高IQの人がアーティストになって美術家になって作品を作るとどういうことになるかっていうと、今の時代においてはその作品はキッチュになるというね、そういう自分なりの発見をしたわけですね。で、そんなことはこの本には1つも書いていないんですけども、実はだから、一方では今、どんなアーティストが売れてるのかなっていう研究もしてるんですね。で、そうすると、ある写真家さんですごく今人気が上がってる人がいて、その人の作品も繰り返し見てるんですけども、どうもね、作品がキッチュなんですよ。

で、キッチュっていうのは、いろんな意味があるというかね、時代ごとにその意味も変化していくんですけども、僕が思うところのキッチュってのは、まずは通俗的なんですね。だから、みんなが思う「芸術とはこういうもんだ」っていう通俗的なイメージで作られているわけですよ。だから、一見キレイキレイで人目は引くんだけども、僕なんかの目から見ると申し訳ないけど、なんかこう薄っぺらい感じがして、通俗的ってのは薄っぺらいという意味ですけどね。そうすると、この人の作品はずいぶんキッチュだなと思うし、キッチュだから人気があるんだってのも、ところまでは分かるんですね。キッチュっていうのは、みんなにとって分かりやすいという意味ですから、大衆性があるというね、それがキッチュの特徴で。

だから、それは古くはグリーンバーグというアメリカの評論家が『キッチュアヴァンギャルド』とかね、そういう形でキッチュというものを論じましたけども、アヴァンギャルドというのは芸術の可能性を追求するので大衆受けが悪いわけですね。言ってみれば天才の作品なわけですよね、アヴァンギャルドというのはね。で、一方でキッチュというのは、グリーンバーグはそこまでは言ってなかったかもしれないですけども、その秀才というのは、つまり押しなべてIQが高くて、芸術の方面で才能を発揮するけども、でも芸術以外の才能ですね。例えば、ビジネスの才能ですよね。自分の芸術の、つまり人より絵がうまいとかね、あと写真を撮るセンスが人よりもあるとか、そういう自分の特殊な才能を生かしながら、なおかつビジネスセンスにも秀でているとね。

だからここにも書いてありますけども、IQの高い人ってのは数学の計算がまず得意なんですね。計算が得意っていうのはそのまま高IQの1つの指標になるんですけども、ちなみに私はもう暗算とか全然下手ですからね、苦手ですからね、ダメなんですけども。だから高IQの人の特徴としてね、例えばアート方面に能力が特化していたとしても、そのお金の計算の能力も平均値よりも高くてね、なんだったらビジネ

スも同時に得意と。そういう人がアーティストをやると、つまりはその大衆受けする作品じゃないと商売にならないわけですね。

で、そうすると、そのIQの高い人は自分の好きな作品、自分がいいと思う作品を作るのではなくて、今どういう写真を撮ったら、どういう作品を作ったら、どういう絵を描いたかね。絵を描いてる人だって、最近売れてる人の絵見ると、ずいぶんとビックリするぐらいキッチュな絵で、こんなんどうすんのって思うぐらいキッチュなんだけども、でも実際に売れてるわけですね。で、そういう人っていうのは、僕の今の認識だと、IQが高くて、どんな作品が人に受けて実際に売れるのかっていう、実際性を考えると、結果的に必然的にキッチュになるんですね。

で、言い方を変えると、意図的に自分でコントロールしてキッチュな作品を作ることはできるんですね、市場のニーズに合わせてね。だからその意味で言うと、実は村上隆さんももしかしたら秀才タイプなのかもしれない。村上隆さんは「僕はマーケティングで作品作ってますから」って度々言っていて、そのマーケティングというのは、実際に当たってるわけですね。だから、一方で、村上隆さんのことをあんまり引き合いに出してもあれですけども、天才タイプの作品の作り方ってのはまた全然違うわけですね。

で、天才っていうのは、少なくともその作品はキッチュにはなり得ないんですね。このチャンネルでも取り上げましたけども、その求道者っていうね、その道の探求者ですよね。言ってみれば、もしくは研究者の態度と言ってもいいかもしれないし、あとはその通俗性とかなんとかって、そういうのをぶっ飛ばして、共感性とかなんとかってのはぶちぎって、自分の芸術の、つまりアヴァンギャルドですからね。誰も表現していない表現を追求するんだというところに喜びを持つのが天才で。

で、そうするとキッチュとは対極に位置するし、歴史的な評価ですね。その人が死んで、しばらくして評価が上がってきて、歴史に名前が刻まれることがあったとしても、大抵生きている時にはお金が儲からなくて、貧乏のうちに死んでしまうというね、そういう例があるわけですね。

で、そうならないためにはやっぱりその秀才を目指すというね。高IQの人が、ま自分にIQが高くないとね、これはもうしょうがないっていう話もありますけども、でもやっぱり自分の能力ってのはもう決まってますからね。で、そうするとその能力の高い人、高IQの人がどういうふうに、何をしてるのかなっていうのを学ぶ必要があるわけですね。で、それはこういう本を見て、その高IQの人の定義ってのはこういうもんだっていうのを、見るというのもありますし、もしくは実際上ね、高IQの人がどうやってアートでお金を稼いでいるのかっていうね。

もしくは、このチャンネルでも度々批判していますけども、哲学の入門、解説書ですね。そういう人もIQが高いんですよね。だからその専門の、本当の意味でも哲学者ですね。だから、ニーチェにしろ、フッサールにしろ、ウィトゲンシュタインにしろ、彼らが天才だとすると、間違いなく天才なんだけども、そうすると一般的に言うと変人だし、ニーチェなんか梅毒で死んだりとかね、ウィトゲンシュタインもずいぶん貧乏なまま死んでるし、大体金を儲けようという意図はウィトゲンシュタインはなかったわけですね。

で、フッサールはなんかそつなく大学教授で生涯を終えたみたいですけども、いずれにしろ、私が度々批判していた竹田青嗣さんとかね、中島義道さん。中島義道さん、ちょっと性格はひねくれすぎてるから、でも一方では秀才的な能力があるので、入門書でお金を儲けることができると。だから中島先生、なんだかんだ言って、あの本読むと、けっこう大衆向きに分かりやすくサービス精神旺盛でね、みんなが何を望んでるのかよく分かって書いているんですよね。

だから私は、中島義道先生、「私は人間嫌いだ」ってね、「大衆も大嫌いだ」って言ってる割には、実はそんなことないんですね。秀才なんですよね。だから、やっぱりアートにおいても、哲学においても、何の分野もそうですけども、お金儲けのは秀才なんですね。で、秀才ってのはキッチュなんですよ。つまり、私が入門書を批判するのは、内容がキッチュだからなんですよね。大衆におもねっている内容で、それは哲学の本質から外れてるっていう、そういう批判はいくらでもできますけども、でもお金を儲けるということになると、そのキッチュな内容だからこそ、お金が儲かるわけですね。当たり前ですけどね。

で、それ以上を言うと、同義反復でトートロジーになりますけども、そういうことなんですよ。だから、改めてね、この本読んで、秀才ってのはそういうもんだっていうね。秀才ってのは、それはそれで機能しているというか、この資本主義の時代において、秀才の能力ってのは非常に威力を発揮しているとね。だから、その意味で言うと、IQが高い人が得をするようになってるってことは、橘玲さんもたびたび述べてるわけですね。

で、だから、そういう世界の中で我々はどうしましょうっていうのは、それの立場によるので、だから、こういう本が示すのは、人間の能力っていうのは遺伝子である程度決まっていると。遺伝子と環境の二つの要素の絡み合いなんですね。で、その話をまた別にしようと思うんですけども、どうしようもない部分があるのと、あとは自分の努力でどうにかできる環境を変えることができますからね。だから、環境を変えるって意味では、私としてはこういう本読んだりとかね、この本だって環境ですからね、そういうことで、そういうことまで考えましたというお話ですね。

どうもご視聴ありがとうございました。チャンネル登録是非よろしくお願いします。あと、最初にこれを言っとかなきゃいけなかったですけども、9月の22日から28日まで、水道橋JR水道橋から徒歩5分の路地と人という小さなスペースで、彦坂尚嘉先生と2人展をやりますので、どっちか在廊してるので、是非遊びに来ていただきたいと思いますということと、あとそう、本を執筆してますっていう話があって、一応一通り書き終えて、インデザインで編集して、もう入稿できるみたいなところまで来れたんですね。その校正をすれば切りがないんですけども、一応形にはできて、それで同人誌として刷ろうと思ったら、意外と安く刷れるんだけども、結局単価を上げられないので、それこそ千単位、万単位で売らないと儲けが出ないということは、例えば百部刷っても全然儲け出ないんですね。

で、そういだと辛いなと思ったんですけども、そういえばと思って、せっかく知り合いの編集者がいるんですよ、私にもね。だからその編集者に一応どうでかって送ってみたと。で、一応

読んでくれるということになって、そういうメールの返事をいただいたんですけどね。どうなるのかわかんないですけども、一方の進捗状況はそういうことですよという話でありました。以上です。どうもご視聴ありがとうございました。

ニーチェのここが間違いだ!

私はこれまでニーチェからウィトゲンシュタインからフッサールから、普通には難しいと言われている哲学書をいろいろ読んで、自分なりに咀嚼して、それで頂点を極めたっていうわけではないですけども、自分の中では1段落ついたところがあったので、これは折り返し点だなと思ったんですね。

 

で、これからどうしようかって思った時に、今の路線でもっと哲学を深めていくのもあるんですけども、もう1つは折り返しだと、方向転換するんだということで、改めて今回はニーチェの批判をしていこうということなんですね。

 

つまり私は今までニーチェを評価してきたんですけど、折り返してんですからね、その反対にニーチェを批判していくと、そういうことなわけです。

 

で、今回取り上げるのはニーチェ善悪の彼岸』ですね、これもいろいろ捉え方があって、代表作は『ツァラトゥストラかく語りき』なんですけども、とりあえずこの『善悪の彼岸』の二五七章というのが、私が見たところニーチェの哲学を端的に表した部分のひとつ言えるんじゃないかと思うのです。

 

まず引用してみますが、

 

およそ人間という型を高めることがこれまでの貴族社会の仕事であった。これからも常にそうであるだろう。こういう社会は人間と人間との間に位階と価値差の長い階梯を信じ、何らかの意味で奴隷制度を必要とする。

 

 

これは何かって言うと「進化論的ヒューマニズム」なんですね。これは『サピエンス全史』で述べられた概念ですが、著者のユヴァルノア・ハラリはヒューマニズム(人間至上主義)を「自由主義ヒューマニズム」「社会主義ヒューマニズム」「進化論的ヒューマニズム」の3種類に分けたのです。

 

そしてこのうち「進化論的ヒューマニズム」をナチズムだとしたのですが、私からするのそれは端的に間違いで、ニーチェの「およそ人間という型を高めることがこれまでの貴族社会の仕事であった」という指摘こそが「進化論的ヒューマニズム」であり、ナチズムはその通俗的な曲解に過ぎず、ハラリもそれに引っ張られたに過ぎないと、私には思えるのです。

 

ただしニーチェの指摘で肝心なことは、「人類がみんなで進化しましょう」ということではないんですね。

 

人間というのは「進化する人間」と「進化しない人間」の二種類がいて、その両者の差はどんどん広がっていくんだと、それが「人間と人間との間の位階と価値の差の長い階梯を信じる」ということ、そして「何らかの意味で奴隷制度を必要とする」ということなんですね。

 

つまり進化する貴族的人間は、進化しない奴隷的な人間を踏み台にして、そうやって人類文明というのは進歩してきたのだし、そのような時代に近代的が思い描くようなヒューマニズムは存在しないと、ニーチェは述べているのです。

 

*****

 

以上がニーチェの主張の概略なのですが、端的に言えばこの考え自体が間違いだと、そのように私は思うわけですね。

もっと言えば、そういう間違いを犯すからニーチェは発狂し、若くして亡くなってしまったのではないかと思うのです。

ニーチェは一八八九年に発狂し、十一年後の一九〇〇年に55歳で亡くなっていますが、言い方を変えれば新しい時代に敗北したのかもしれません。

まず、ニーチェの進化論的ヒューマニズムですが、先にも述べたように指摘としては間違いではなく、確かに貴族的な人間が文明の進歩を牽引してきたという側面があり、それを下支えした奴隷制度も存在したわけです。

 

で、そういうことがあってニーチェは『ツァラトゥストラかく語りき』の中で、人間は超人になるべきだと、猿から人間に進化したように、人間はさらに超人に進化なければならない、ということを述べているんですけども、実は産業革命以降の人類は、進化論的ヒューマニズム的に進化してるんですね。

 

実は人類というのはべて進化していて、そして近代以前の過去の人類とは比べ物にならないぐらい、もう比較にならないぐらい進歩してるわけですよ。

 

というのは、このチャンネルで私もたびたび指摘してるように、テクノロジーの進歩なんですね。人間は産業革命以降、テクノロジーを手に入れたわけですよ。機械によって物を動かすと、電気によって明りを灯して通信をすると。

 

今は情報革命ですからね。インターネット革命ですからね。AIもどんどん進歩して、スマホも進歩して。今この映像撮ってるのもデジカメですけど、撮った映像もすぐYouTubeにアップロードして、世界中の皆さんに視聴していただける環境にあると。そういうひと昔前の人間から比べても人間という

 

のは著しく進歩してるんですね。だから2011年がスマホ元年と言われてますけども、それ以前の世界もインターネット社会であるし、コンピューター世界ではありますけど、でもスマホ持ってない人たちの世界と、ガラケーですね、ピコピコってやってるガラケースマホではぜんぜん人間の進化の度合いが違うわけですよね。ましてや江戸時代の日本であるとか、中世のヨーロッパ人とか、だいたい中世のヨーロッパ人っていうのは科学以前の世界ですから、無知蒙昧の中を生きてるわけですよ。迷信の中を生きてるわけですよね。ヨーロッパって文明の昔から、近代以前から文明の先進国みたいな顔してますけども、そんなの嘘っぱちですから。中世ってのはどこだって、暗黒の中世っていう言葉がありますけども、暗黒の中世ってのもみんなが言うほど暗黒でもないっていう指摘もありますけど、でも結局は科学以前の世界ですから、無知蒙昧な迷信に囚われてるっていうのは、それは変わらないわけですね。だからこれも前の動画で言いましたけど、中世のヨーロッパ人っていうのは風呂に入んないわけですね。フランスの王様も風呂に入らないわけですね。風呂に入るとペストに感染するからって信じられていたわけですね。

 

そういう無知蒙昧の中を生きてるわけですよ。でそういう人たちに比べると、前近代の人たちに比べると、現代人は人間的にも進化してるんですね。はるかに進化してるんですよね。昔の人が言うところの超能力を身につけてるわけですね。だから僕が小学生の頃の昭和40年代、50年代というのは、私は石ノ森章太郎が描いた『幻魔大戦』という漫画にはまりましたね。『幻魔大戦』は原作が平井和正という小説家で、私は原作版は読んでなくて、石ノ森章太郎の漫画版と、その後アニメになりましたけども、超能力合戦ですね。テレポーションとかテレパシーとかサイコキネシスとか、そういうカタカナ語で超能力が説明されて、超能力者が出てくるわけですけども、そういう超能力っていうのはインターネットとスマホとAIによってどんどん実現化しているわけですよね。

 

テレパーシーというのは超能力ですけども、心の中は覗けなくても、SNSを見れば様々な人の言葉が飛び交っていて、大体その人がどんな人なのかってのは分かっちゃったりするわけですよね。リテラシーがあればね。結局テレパシー能力ってのもリテラシーのことですからね。

 

あとサイコキネシスですね。念動力ですね。念じただけで物が動くっていうのも、スマホのススっていうアイコンの操作だってね、フリック操作だってね、なんで指でなぞるとアイコンが動くのかっていうね、念動力じゃないかっていうね。でそういう感じでとにかく事態は全然変わってきてるわけですね。瞬間移動だってね、実際、瞬間移動できないですけど、今は会議をやるっていうと「じゃあズームでやりましょう」って



その場で会議ができるわけですね。移動しなくても瞬間移動で会議室にみんな集まることができるわけですよ。だからニーチェが言うのは、過去においては進化する人間と進化しない人間がいて、進化する人間と進化しない人間の差が著しく開いていたと、そういう指摘でありましたけども、しかしニーチェが生きた時代の近代においてはもうその時代は終わったんですね。

 

だからさっきの動画では、近代というのは奴隷解放の時代だと言いましたけども、まさに産業革命以降のテクノロジーによって奴隷が解放されたんですね。つまりニーチェが言うような進化しない人たちですね。進化する人たちの踏み台になってしかるべきような、しかるべき人間たちですね、そういう人間たちも産業革命による能力を身につけて、まず奴隷の身分から解放されるわけですね。単純な肉体労働から解放されて、奴隷の身分から解放されて、そして超能力をそれぞれ身につけると。

 

だから新聞の発明だって大変なもので、印刷物の発明ですね、文字が読めるっていう、それだけで超能力なわけですよね。情報収集能力が今までの人類とは比べ物にならないわけですね。だから産業革命以前は世の中を情報を知ると言っても方法がないわけですね。一介の農民が、何か世の中の情報を知ると言ってもせいぜい共同体の中での噂話程度ですよ。大体、江戸時代の農民たち、市民たち、庶民たちは徳川なんとかって征夷大将軍の名前も知らないっていうね、まして天皇の名前も知らないと。そんなの知らないと、そういう世界に生きていたわけですね。それに比べるとやっぱり我々は物心ついた時から近代人、現代人ですから今の環境が当たり前と思っているけども教育も含めてね、

 

昔から比べると全然超能力者の超人なんですよ。だからニーチェツァラツストラで言うとこところの超人というのは、もうみんながみんな超人になれる時代になってきてるわけですね。だから一部の人間だけが進化して超人になるっていう、その価値観自体がもう成り立たないし崩壊してるわけですね。で、なんだったら超人になんかならなくていいわけですよ。だからニーチェが言うところの超人というのは、生身の人間が超人になるということなんですね。生身の人間が修行して、勉強して、修行して、頭を鍛えて体を鍛えてね。宮本武蔵を度々私は引き合いに出しますけども、『五輪書』っていうのは日本を代表する哲学書の1つではないかと思うんですけど、それはニーチェが言うところの人間の型を極限まで高めようとしたのが宮本武蔵なんですね。でその宮本武が書き記したのが『五輪書』なんですよ。

ただ宮本武蔵っていうのは江戸時代の平和な時代において既にオワコンだったけですね。ましてや近代以降のニーチェの時代においても、もうとっくにオワコンで、ニーチェもオワコンだったわけですね。だからニーチェってのは何をしたかていうと、近代のおさらいをしたんですね。言ってみれば、これからはニーチェが言ったこととは違う時代が来るし、ある意味ではニーチェが言ったような超人の時代がまさに到来したんですね。現にね。それが何度も言うようですけれどもリベラルなんですよ。リベラルっていうのは「誰もが自分らしく生きられる社会」というのが、これが100%実現しているとは言えないですけども、でもそれを目指して人間社会っていうのは一応進化してるということになっていて、その意味で言うと私は楽観主義なんですね。楽観的なんですよ。戦争が起きたりね、あとディープステートとか色々という人いますけども、でも大局的に見ればリベラルということが広がっているのではないかと。でそれはテクノロジーを背景にしていて、でテクノロジーってのはなんだかんだ言って進歩するんですね。本当にAIがこれほど進歩するとは誰も思っていなかった。私もびっくりしましたけどね。だからチャットGTPまではまあまあって思いましたけど、絵を描く仕事っていうのはAIには無理だって言われていたのが、むしろチャットGTPよりもAIアートの方が、AIの実力が発揮されてるわけですね。

 

だからそういう中でリベラル化というのがますます実現しつつある中で、やっぱりニーチェ的な貴族主義っていうのは完全に終わってるわけですね。だから結局、前回の動画でも言いましたけども、人間の本質というのは奴隷なんですね。どちらかというと奴隷なんですよ。で、それは私の解釈によると人間が群体動物だからだと。人は単体では生きることはできないわけですね。みんながみんな助け合って集団で生きる。で、その集団で生きる中で、それぞれが何らかの役割の中にはまっていくと。その中で人々は安住して、生きがいを見つけて、そしてある程度の自由を差し出す代わりに、責任を回避することができるわけですね。というそのバランスで社会が成り立ってるし、そういう社会がいかに安定して継続できるかというね、そういう方向に、紆余曲折ありながらも進んでいるという、そういう意味では楽観主義でいるっていうか、楽観主義でも悲観主義でもどっちでもいいんですけど、どっちにしろ自分にできることってのはないですからね。せいぜいYouTubeで吠えるぐらいで。

 

だから結局、貴族こそが人間の本質だと、人間は進化しなければならないと、そのためには、人間進化のためにはヒューマニズムは踏みにじってもいいんだっていう、そういうことをニーチェがいくら一生懸命言ったとしても、結局はこの人は敗北してしまうわけですね。敗北して発狂して死んでしまうわけですね。だから時代は仮にもリベラルの方向に向かっていって、その意味で言うと、なんだかんだ言って良くなってくるんじゃないかと。

 

だから私の折り返し点というのは、そういうところを認めながら、いかに抵抗しないで行けるかというところですね。

 

はい視聴ありがとうございました。



優れたアートとはなにか?を現象学的に考える


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この一連の動画ではですね、現象学的還元を徹底しようというところで考えているわけですけども、そうするとそもそも私がアーティストであって、自分がアーティストであるために、そして作品を作るために現象学まで行きついたわけですね。現象学的還元まで行きついたわけですね。そうすると、やはりその肝心のアートの中心のところから現象学的還元をしなければならないと。で、アートの中心部というと、つまり優れたアートというものが何なのかっていうところをきちっと現象学的還元しなければならないわけですね。

 

そうすると、現象学的に言うと、全ての存在というものを否定するわけですから、存在、そして実在ですね。だから全ての芸術作品は優れていようが優れていまいが、存在しないんですね、実在しないんですね。だから一方では優れたアートとは何か、どれが優れたアートと言えるのかっていう、そういう問いを立てておきながら、そもそも優れたアートは存在しないと、実在しないと、作品は実在しないと。それが現象学的還元なんですよ。

 

で、そうすると話が分かりづらくなるので、私の前回の動画のアイデアとしては、このところの私のアイデアとしては、現象学の現象を映画という風にして置き換えようと。で、全ては映画の設定であるという風にして、映画の設定に還元するわけですね。だから、優れた芸術とは何か、優れたアートとは何かと言った時に、優れたアートとして設定されてるものですね。全てが映画の設定ですから、映画の設定としてどの作品が優れた芸術であるという風にして設定されているかと。その設定を解明して見極めて行こうというのが、つまり現象学にとっての優れたアートということになるわけですね。

 

で、そうすると例えば私が優れたアートとは何かと言った時に、そもそもこのチャンネルでも紹介したヨーロッパルネサンスのアルベルティという人が画論を執筆しておりまして、そこに優れたアートというのはどういうものなのかってのがきちんと書いてあるわけですね。で、それを引き継いでレオナルド・ダ・ヴィンチがまた絵画論を書いておりまして、だからそういった理論が書いてある、そういう現象があるわけですね。

 

だから、過去の歴史の偉人はやはりアルベルティにしろダ・ヴィンチにしろ、その芸術とは何かっていうことに非常に格闘して、優れた芸術とはどのようにして設定されているのかっていう、その設定を解明したわけですね。力の限り解明したわけですよね。だからそれを引き継ぐというところが私の態度、優れた芸術とは何かということをいかに認識するかっていうことの私の態度なんですけども。

 

でも、そもそもそのアルベルティっていう人物、本当にいたのかとかね、ダ・ヴィンチっていう人物が本当にいたのかとかね、直接的には確認しようがないんですね。だから直接的に確認しようがないことに囚われても仕方がないというのが現象学の立場なんですよ。でも直接的に言うと、とにかく私はアルベルティの本も読んだし、ダ・ヴィンチの本も読んだんですね。で、本読んだってね、その内容が良かったっていうことは私が直接的に認識でできることなんですよ。

 

で、そもそもで言うと、本当に私はレオナルド・ダ・ヴィンチの本読んだのかっていう、私がそうやってそう主張してるだけで、全部夢かもしれないっていう風にしてそうやって疑うこともできるわけですね。これが懐疑論の立場なんですけども、でも映画の設定としては、糸崎さんは確かに、自分自身は確かにアルベルティの本もダ・ヴィンチの本も読んだっていう設定になってるわけですね。そういう記憶が私の中にあるわけですよ。で、その記憶なり、その読んだっていう設定なり、ためになったっていう設定なり、というのは直接的に私が認識できることなんですね。直接認識できるっていうので設定されるわけですね、設定されてるわけですね。

 

で、その設定というのは映画の設定なので、映画の中の登場人物としての私としては逆らいようがないし、映画の中の登場人物の私にとってはそれは確実なことで、それ以上遡って疑うことはできないわけです。このようにして懐疑論というものは論破されるというのが現象学の立場なんですよ。

 

だから、一方で優れた芸術とは何かという問いというのは、実は今の多くのアーティスト、そしてアートの愛好者はそういう問いは立てないんですね。それよりもその自分が好きなアートは何かっていうね、自分にとってのアートとは何かっていうね。自分が主語になるという、これが立花玲さんも述べていたリベラルな時代のあり方なんですね。

 

で、リベラルの時代というのは、誰もが自分らしく生きると、それこそが社会の最大限の目的なんだという問題設定をするのがリベラルな時代なので、リベラルな時代においては、アーティストは自分らしい作品を作るんだと。優れた作品かどうかってのは問題ではなくて、自分らしい作品をいかに作るかというのが最大の問題になるわけですね。

 

そしてアートの愛好者、鑑賞者、購入者の方は、つまり自分らしく好きなアートですね。自分が好きなもの、自分の好きな作品を選んで鑑賞したり、購入したり、応援したりする。全てが自分らしくっていう。だから例えば、現代アートのギャラリーさんで言うと、美術史として優れたアート、美術史的に見て優れたアートを選ぶのではなくて、一つは市場価値ってのもありますけど、それよりもやっぱり自分の好きな作品を選ぶんですね。「私これ好き」っていうね。「私これ好きだからこれ売りたい」っていうね。そういう作家の作品を選んで、そして作家の作品の中でも自分が好きな作品というものを選ぶと。そういう風になってるんだなというのは、私はアートマーケットを見てつくづく思ったりするんですけども。

 

それっていうのは、今言った現象学的態度とは真反対なんですね。つまりそれはフッサールが『現象学の理念』の冒頭で批判した自然的態度そのままなんですね。自然的態度というのは、つまり自分が映画の登場人物で全ては映画の設定でしかないという意識がない、自然で素朴な考え方なんですね。そうすると今の時代はリベラルで、誰もが自分らしくという価値観で生きるという、そういう映画の設定がされてるわけですね。そして各自が自分らしく、「私は自分らしく生きたいんだ」っていう風にして性格設定されているわけですよね。映画の中のキャラクター設定として自分がリベラルで生きたいんだとね。「私は私の好きな絵を描いて、好きな絵を買って、好きな絵の画集を買うんだ」と。

 

で、その意味で言うと、優れた芸術とは何かって、客観的な意味でも優れた芸術、客観的っていうのは、古今東西さまざまな芸術作品、アート作品がある中で、どれが優れていてどれに価値がないのかという、その比較による順列ということは一切興味がないと。

 

だからそれは現象学的に言い換えると、この映画がどのように設定されているのかという、その映画

 

の設定そのものに全く興味がないわけですね。で、まさに映画の登場人物になりきって映画の中を生きていくわけですね。これが映画の中だという自覚なしでね。それこそ素朴で自然な人間のあり方であるわけですね。

 

で、それは実は近代になってからだし、もっと言うと現代以降ですね、第二次世界大戦後なんですよ。だから、実は近代の初期というのは、芸術というのはどのように受容されていたのかというと、つまり芸術というのはヨーロッパにおいては、とりあえず分かりやすくヨーロッパに限定しますけども、ヨーロッパにおいては芸術というものは貴族が独占していたわけですね。それがそのフランス革命以降、イギリスの市民革命以降、世の中が近代になって貴族が没落して、市民階級が台頭するわけですね。

 

お金を儲けたブルジョアジーが社会的地位の上の方を占めていく中で、新興の成金がかつての貴族の真似をしてアートを購入するようになるわけですね、芸術を購入するようになるわけですね。ところがどの作品が良くてどの作品が良くないのか、何を自分はコレクションしたら良いのかっていうのは、新興成金は教養がないから分からないわけですね。教養がないから分からないので、貴族のアドバイザーを雇って作品を収集すると。そしてアメリカの新興成金がフランスのアートを買い漁って、そして私設の美術館をアメリカに建てて、それを自分が亡くなった後アメリカに寄贈して、アメリカという新興国家を偉大な国にしていくとね。「これだけの大きな美術コレクションがうちの国にはあるんだ」と。そういうことで国造りをしていくと。それが近代の芸術のあり方で、その時代までは教養が生きていたわけですね。

 

つまりその、どれが優れている作品なのか、どれが優れた芸術でどれが優れていないのかというのは、結局教養が背景にあるわけですね。で、その教養というのはさっきも言ったアルベルティの絵画論、ダ・ヴィンチの絵画論、そういうものの理論に照らしてきちっとそういうことが守られているのかっていうね、高度に総合的に様々なことが考えられていた上で描かれてているのか、それとも感覚的になんとなくチョロチョロっと本物っぽく描いてあるだけなのかっていうね、そういうことを見極めるために教養というのが必要になるんですけど。

 

そして教養とは何かっていうと、結局は映画ですね、映画がどのように設定されるかっていうことの教養なんですね。だから私のこの一連のYouTubeの動画の中では、つまり映画の設定っていうのは恣意的でデタラメで不条理にされていて整合性はないんだけども、でもそうは言っても全くのデタラメではなくて、映画の中での設定がその中では整合性があるし、いや整合性のことあんま考えなくていいんですね。とにかく複雑なんですよね。優れたアートとは何かっていうのも複雑なんですね。アルベルティの本だって複雑だし、ダ・ヴィンチの絵画論だって複雑だし、そして矛盾もたくさん含んでいるし、そしてアルベルティやダ・ヴィンチが言ったことが全てではないわけですね。

 

なぜならそれは映画の設定に過ぎないんだけども、でもその映画の複雑な設定というものが、だからその何が優れた芸術なのかっていうのも、それも映画の設定なんですよ。映画の設定の話なんですよね。

 

で、その映画の設定というものを教養として知ろうとするのか、それともそんなのを無視して自然な態度で映画の登場人物として素朴に自分の好きな絵を描くっていうね、自分の好きな絵を描くっていうね。買ったり描いたりっていうね、そういうことに過ぎないんですけども。

 

だから近代以前ってのはリベラルではないわけですね。そしてある意味で言うと、様々な設定に忠実というかね。その話を掘り下げるとまためんどくさくなりますけども、リベラルというのは誰もが自分の自由を追求すべきという世界ですけども、近代以前のリベラル以前の世界というのは、結局各自が自分の役割があったんですね。そういうことなんですよ。

 

で、役割っていうのは全ては映画ですからね。登場人物に即した役割って誰もが負っていて、その中で芸術家っていうのはやはり芸術家として振る舞わなければならないし、優れた作品を生み出さなければならないという、そういう役目を負っていたわけですね。そのために教養を身につけなければならないというのは、その映画の設定というのを覚えなければならないですね。そしてその設定に即して優れた絵画として設定されるものを描くと。それがレオナルド・ダ・ヴィンチでありアルベルティであり、そして葛飾北斎なんですね。

 

葛飾北斎というのも、イタリアルネッサンスから時代も地域も隔たった日本の江戸時代の浮世絵ですけども、でも世界というのはつながってるんですね。実は人間の思い込みに反して、の人の思い込みに反して世界というのは近代以前からダイナミックに繋がっているんですよ。そういう映画の設定になってるわけですね。で、それは様々な証拠があるわけですよ。で、その証拠っていうのはもちろん映画の設定としてそういう風にして証拠が揃ってるわけですね。

 

これは具体的に言うと、梅棹忠夫の『文明の生態史観』ですけども、日本とヨーロッパっていうのは同じ「第一地域」ですね。世界的に見ると、第一地域と第二地域とに梅棹忠夫さんは分けていますけども、その第一地域にヨーロッパと日本が、西洋と東洋の端っこで実は繋がっているという指摘をされましたけども、それもだから事実かどうかということではなくて、映画の設定としてそのようにどうも決まっているらしいとね。

 

そういうことなんですけども。

 

で、だから私自身は反リベラルなんですよね。その意味で言うと時代遅れだし、このYouTubeチャンネル自体も反リベラルなんですね。だから時代錯誤なんですけども、だから映画の設定にこだわるわけですね。映画の設定を解明しようと。そもそも映画の設定なんだっていうね、それを解明するところにずいぶん時間かかりましたけど、でも我ながらなかなか良いところまできたなと思うんですね。

 

現象学を映画に還元して、全ては映画の設定だっていう認識ですね。でも一方でこれは時代錯誤だなと。なぜなら今はリベラルの時代なんですね。で、私は反リベラルなんですよ。だから各自が自分らしくという意味で言うと、私も自分らしく振る舞っているのでリベラルの枠内なんですね。だから私の立場からすると、これ別の動画でこの話をしようと思ったんですけども、だから私自身はリベラルの枠内で反リベラルであろうとするんだけども、でも私の反リベラルっていうのは自分に対して反リベラルなんですね。

 

でも他人に対してはリベラルなんですよ、私はね。だからこの私のYouTubeの動画も基本的には自分の独り

 

言で、誰かを説得しようとか、誰かを批判しようとか、文脈上何人かのアーティストの批判はしてますけども、でも基本的には自分には反リベラル、他人にはリベラルと。そういう立場。

 

そしてその中で、現象学的な意味での優れたアートとは何かという問いを立てながら、私は私の作品を作っていって、今回の動画もそうなわけですね。そういう設定になってるわけですよね。私が設定したんじゃないんですね。そういう風に設定されていると、という設定の中で私はあくまでも動いてますよ、という話でありました。

(2023年10月30日)

 

映画と現象学20231030


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また引き続き現象学についてですね。でまた同じような内容の繰り返しになるかもしれないですけども、私は私で現象学というものをマスターしたいわけですね。で現象学をマスターするってのはどういうことなのかっていうと、いま哲学について考えながら喋ってますけども、あと本読んだりとかね、そういう時にだけ哲学的思考をして、そして日常生活に戻るとまた自然的な態度に戻ってしまうと、それではいかんわけですね。常に哲学的認識で生活すると、そういうことができて初めて現象学をマスターできたと言えるんじゃないのかなと思うわけですね。

で、それをいかになし得るか、いかにして可能にするかということで、「哲学と生活の一致」ということを目指して色々考えているわけです。

で、先日リアルに会った友達、実際に会った友達に「現象って何ですか?」って端的に聞かれて、その時に「現象学の現象っていうのは映画のようなものなんだ」というふうに答えたんですね。それによって相手に何が伝わるっていうこともないだろうと思うんですけども、でも私自身の理解としては、現象学の「現象」を、もはや「映画」と言い換えて言い切っちゃっていいのかなと思ったんですね。

それがフッサールの述べたことと一致するかどうかということではなくて、私自身がいかに理解するか、いかにさっきも言ったように哲学と生活を一致するか、というその課題において、現象学の現象というのは映画のことなんだと、だから現象学ってのは映画学と言い換えてもいいわけですね。現象学というのは現象の研究をするわけですけども、結局「現象」っていうといろんな意味があるので日常生活に応用しづらいというか、結局日常生活に戻ると現象って考えていたことが忘れられてしまうと、むしろ映画の方が具体的で私にとっては馴染みがあるわけですね。

現象学は科学を批判する形で出てきますけど、でも科学的認識の土台があって現象学ということが出てきたわけで、そして20世紀以降、映画というものが一般化して、今は映画も劇場で見るだけではなくて、かつてはテレビがあったし、YouTubeでも映画を見ることができるし、映画と謳ってなくてもこの私のYouTubeチャンネルもそうですけど、全部映画なわけですね。

今は映画の時代なんですよ。でこの映画の時代において、現象学の現象っていうのは結局は映画なんだと置き換えると、その置き換えをいかに徹底するかっていうことで、繰り返し言葉を変えながら喋っているわけですけども、最近のこのYouTubeチャンネルですね。だから単的に言うと、現実というものは存在しないんですね。現実は存在しないし真実は存在しないんですよ。で全ては映画の中の出来事に過ぎないわけですね。さらに肝心なことは、自分自身がこの映画の登場人物のうちの1人なわけですよ。

だからフッサールがなぜ科学者を批判するかと言うと、科学者っていうのは自分が映画の中の登場人物の1人であるという自覚がないんですね。だから自然的態度によって、自分の意識に外部世界が存在するんだと。でその外部世界が存在することを前提に、いちばん肝心なことは科学者が求めているのは論理的な整合性なんですね。論理的整合性なんです。だから科学者っていうのはこの世がどうなっているのかを解明しようとしてるわけですね。この世がどういうふうになっているのか、つまり矛盾なく辻褄が合うように、全ての事象について説明するというのが科学の目的なんですね。

でそれがそもそも間違いだということが私にもようやく理解できたんですよ。つまり世界が辻褄が合ってるはずだっていう設定が先にあるんですね。世界は論理的整合性によって矛盾なく説明できるはずだ、という設定が先にあるんですよ。でそれこそがフッサールがいうところの「超越」なんです。有りもしないことなんですよ。

これは『老子』の第一章の冒頭ですね。人間はよくう人間はっていうか、欲が無いと物事の妙を見ることができると、そして欲が有ると物事の表面上しか見ることができないという風にして老子は述べているんですけども、この場合の欲っていうのは、欲が有るっていうのはつまりそれは世の中というのは論理的整合性があって、そのように世の中というのは世界っていうのは組み立てられていて、それを矛盾なく説明できる原理を人間は解明することができるんだというところが欲なんですね。そういう欲なんですよ。でその欲が認識の間違いの元なんですね。

でこれ最近読んでる立花玲さんの本を読んでいて、『世界はなぜ地獄になるのか』とあと『無理ゲー社会』と、あとなんだかな、まとにかくその辺の一連の本の中で立花玲さんが主張してるのはその人はなぜ陰謀論にはまるのかっていうことですね。つまり彼はディープステートを批判しているんですけど、そういう陰謀論になぜ人ははまるのかというと、その世界っていうのは非常に複雑にできてて分かりづらいわけですね。だからその自分に分かりやすい物語に落とし込んで、辻褄の合った物語を信じると、それがその様々な陰謀論になるんだという風にして述べていて、それは一方ではもっともだと思うんですけども、でもその世界を辻褄の合った物語で理解したいというのは実は科学者がそうなんですね。

でそれと陰謀論者を批判している立花玲さん自身がそういう態度なわけですね。それっていうのは人の欲望の根底にあるんですけども、それっていうのはつまりは自然的態度なんですね。

で私がその現象学の現象を映画に置き換えるというのは、そこをどのように理解するかというポイントとしては非常に重要なんですよ。つまり全ては映画なんですね。映画の世界の中なんですね。そして全ては映画の設定に過ぎないんですよ。映画の設定に過ぎないということは、この動画でも、このチャンネルの動画で前の動画で繰り返し述べましたけども、その辻妻なんて合ってないんですね。論理的整合性もないんですよ。恣意的で不条理ででたらめなんですね。恣意的で不条理で出鱈目な、そういう法則によって我々は縛られているんですね。

なぜかというと我々もまたそのでたらめな設定の映画の登場人物だからなんですよ。ここが肝心なんですよ。全ては映画であり、映画というのは映画の都合に合わせたでたらめな設定によって成り立っているんだけども、そのでたらめの設定の中に我々も含まれているんです。だからその物理法則、絶対の物理法則に我々は従わなければならないわけですけども、それっていうのはその法則が絶対の真実であるとか、絶対の真理であるとか、絶対の実在であるとかではないんですね。

でそもそもその物理法則はなぜ存在するのかっていうね。だから前の動画でも言いましたけども、なんでその人間は地面からふわふわ浮いたりしないで

歩いていられるのかっていうね、地球上の全ての物体は地面にこうくっついてるわけですね。でそれが何なのかっていうのは究極のところは分からないんですね。

で科学者の側で言うとそれはいつか解明できるはずだと思っていろんな実験したりいろんな理屈を述べたりするんですけども、そういう態度自体がナンセンスなんですよ。なぜならその重力というもの自体がナンセンスだからなんですね。でそしてそのナンセンスな重力という法則に人間は従わざるを得ないんですね。なぜならそういう設定の映画の登場人物だからですよ。だから映画の登場人物は映画の設定から逃れることはできないというただそれだけなんですね。

フッサールがこの現象学の理念の冒頭から問題にしているその「認識は事象に適中するのか」というね、そういう事象の的中性ということを問題にするんですけども、この場合の事象というのは何かって言うと、つまり映画の中で起こりうることなんですね。映画の中でどんなことが起こりうるのかということを予測して、その予測が的中するかどうかっていう、そういう話なわけですよ。

でその場合にフッサールが述べるのは、つまりその自然的態度の科学者、自然的態度の科学というのは事象に適中しないではないかということを批判的に述べているんですね。なんで科学は事象に適中しないのかと言うと、それは世界というのは合理的にできているんだと。人間の今の知能では計り知れないぐらいの複雑で高度な合理性でできているんだけども、でもいずれにしろその合理性でできているから、いつか解明できるはずだと、そういう映画の設定にありもしないようなことを勝手な欲望を持ってるわけですね。勝手な思い込み、勝手な決めつけによって世界を知ろうとしているんだけども、そういう形で世界を知ることはできないわけですね。

だからそういう余計な欲、余計な決めつけを捨てて、老子が言うように無欲の態度であるということはどういうことかっていうと、つまりはこの映画がどういう設定になっているのかを冷静に観察して冷静に分析することはできるわけですね。

だからその立花玲さんはその一連の著作の中で様々なデータを挙げて、その陰謀論っていうのは自分の思い込みであるとか願望によって感情的に自分が納得できるような簡単なストーリーを組み立てるんだけども、そうじゃなくて、世の中には様々な調査があってデータがもう出てるんだと。そのデータを並べると、陰謀論とは違った事実が見えてきますよというのが立花玲さんの主張ですけども、でもこのデータって何かって言うと、それは事実であるとか真実であるとかね、この世の理であるとか、そんなこととは関係ないんですね。映画の設定なんですよ。あくまで映画の設定上こうなってるじゃないかとね、この映画がこういう設定になってるっていう、そういうことに過ぎないわけですよね。

でだから別にそのデータを収集して分析することは何も間違いではないし、その意味で言うと現象学的には間違いではないんだけども、やはりその前提として「真実は存在しないし、存在ということも存在しない」、全ては映画ですからね。全ては映画であるということを前提にするのかしないのか、その前提の問題なんです。

だからそうすると、この哲学的思考を離れたこの生活の場においても全てが映画だと認識すると、映画だと思うんだと、映画なんだという認識で生活するわけですね。でそうするとそのまず常識の根底からして違うわけですね。哲学的常識に入れ替わるわけですね。自然的態度の常識から哲学的常識へというね、そして哲学的常識に基づいて生活をしていくという、そういう新しい地点が見えてくるのではないのかなと思うわけですよ。

だから、例えば今も私も町を歩きながら撮ってますけども、実際の映像がどういう映像になるのかまだ決まっていないですけども、私はその街を歩くのが好きなんですね。街の風景を色々見ながら、家並とかなんとか色々見ながら歩くのは好きなんですけども、これ全て映画のセットなんですね。そういうことなんですよね。実物の家とか実物の道だと思ってはならないわけですね。実物なんて存在しないんですよ。これみんな映画なんですね。

で道行く人々も、これもだからその映画の中の登場人物に過ぎないし、なんだったらCGかもしれないわけですよね。でそれが現象学的還元っていうことなんですね。

でもっと重要なことは、今また傍を車が通り過ぎましたけども、この自動車の前に飛び込んで、自動車に猛スピードで走る自動車にぶつかると死んでしまうということは、これは実は確実なんですね。だからその全てが映画なんだから映画の中の出来事なんだから何も確実なことがないじゃないかっていう、そういう話じゃないんですね。

つまり映画の中の設定がいかに荒唐無稽であっても、我々も映画の中の登場人物である以上、映画の荒唐無稽な設定に従うしかないわけですよ。だからその自分の目の前に車が高速で走ってきて、そこに飛び込むと確実に死ぬっていうことは、これはだからフッサールが言うところの、まだフッサールが重要視するところの「直接的な確実な認識」なんですね。

でなんでその実際に車に究極的に言うと、実際に車に跳ねられてみないと本当に死ぬかどうか本当に痛いかどうかってのはわかんないじゃないかっていうのはもう1つの、いわゆる懐疑論的な立場ですけども、そうじゃないんですね。懐疑論をどうやって克服するかってのも哲学的な問題ですけども、つまり我々はだからその映画の中の登場人物だから、映画の設定に従うしかないし、映画の設定がそうなってる以上、自分も確実にあの映画の設定上に設定されたことが起きるわけですね。それは絶対に確実なんですよね。

いろんな人が車に跳ねられてて死んでるというその報道があったりとか、人づてに聞いたりとか、それこそ映画の中でそういう場面が描かれているのを私は見てるわけですね。で他の人もそれを共有しているわけで、そうするとこの映画の設定としては車に跳ねられると人が死ぬってのはこれ確実だなっていうことが直接的に理解できるわけですね。直感として理解できるわけですね。これ以上確実なことはないわけですよね。

なんでこれ以上確実なことがないと言えるか。つまり、それっていうのはその自動車が本当に存在するかどうかってのは関係ないんですね。つまりそのさっき言ったみたいに、その自動車が、自動車だって映画のセットかもしれないわけですね。なんだったら自動車ってのは全ての自動車ってのは映画のセットにすぎないわけですよね。でなんだったらCGかもしれないわけですよね。

でそのCGかもしれないような実態のない車に轢かれたって、自分はどってことないよっていうことではないんですね。自分もまた映画の中の登場人物だから、いかにCGであろうが段ボールでできた車であろうが轢かれたら死ぬんですね。そういう設定

になってるんですよ。

だからその真実とか現実とかね、実態とか、そういうことじゃないんですね。全部が映画の設定なんですよ。だから全てが映画の設定で、この映画の設定がどうなってるのかということに注力するのがもはや現象学以降の学問であると、現象学を土台にした学問である。

だから私が現象学以前に入れ込んでいた構造主義というのも、その有効な分析手法ではありますけども、これもだから現象学を前提にしないと意味がないんですね。現象学を前提にしないと単なる自然的態度の学問に終わってしまうわけですよ。だから現象学構造主義をリンクすることはできるわけですね。

つまり現象学っていうのはこの映画の世界の設定がどのようになっているのかを詳細に分析する学問なわけですよね。でそのために構造主義の技法というのは有効であると。ま、そういう順番になっているわけですね。

だからその、結局その哲学的思考を離れて実生活に戻ると、哲学を忘れてしまって自然的態度に戻ってしまうのはなぜかって言うと、結局これは一般に言われてることですけども、その意味での哲学っていうのは現実逃避になってるんですね。哲学のこと考えている間は辛い現実から逃げることができるということで、哲学を始め学問とか、あと趣味の領域でもそうですけどね、逃げる人がいるわけで、私もその傾向がないとは言えないわけなんですけども、でもこれも私のチャンネルの動画で言いましたけども、その辛いこととか苦しいこととか不安なことっていうのはさも現実であるかのように感じられるわけですよね。

だからその現実と感じられるものに引っ張られて哲学のことを忘れてしまうんですけども、そうではなくて、その自分に差し迫っていると思われるような様々な苦しみであるとか、不安であるとか、痛みというものは、これは現象学的に言えば現象ですけども、それで分かりづらければ全部映画の中の出来事なんですね。映画の中の出来事で、映画の中の登場人物であるところの私がそう感じているに過ぎないんですね。

だからこの現実逃避っていう言葉自体がもはや現象学的には意味がないんですね。現象学にとって現実は否定されているんですね。じゃあ何から逃避してるのかというと、これはだから映画の設定からの逃避なんですよね。自分は映画の登場人物なんだから映画の設定からは逃れることができないんですね。

そしてその映画の設定からなぜ人は映画の設定から逃げたがるのかっていうね。人にとって映画の設定っていうのは様々な意味で過酷な側面を持つんですけども、それはつまり映画の設定だからゆえに非常に理不尽で非合理で辻褄の合わないものを含むわけですね。でだから逃げたくなるんですよ。映画の登場人物としては映画の設定に対して非常に弱い立場にあって、まあとにかく従わざるを得ないわけですね。

そしてもう1つ肝心なことは自分のキャラクター設定ですね。自分の能力であるとか、自分の性質であるとか、自分の生い立ちであるとか、そういう自分のキャラクター設定も映画の設定として設定されてるわけです。でそれとその映画全体の世界観の設定と対応して、ある人にとってはこれは平気だけども自分にとってはこれはすごく辛いんだと。この設定はすごく辛いんだと。この辛い設定から逃げたいと、そういう欲望が出てくるというかね、それも映画の設定のうちなんですけど。

だからこれを現実だと思うと、現実は過酷なんだと。この過酷な現実から逃げ出したいと言うと、結局ね過剰な反応になるんですね。

だからそのフッサールが述べていて肝心で画期的なことは現象学的還元だっていうわけですよね。だから現実も現象のうちに入れるわけですね。そうすると現象というものは現実というものは存在しなくなるわけですよ。だって現象に還元できるわけですからね。でもその現実を現象に還元すると言っても、なかなかピンとこないところがあるんだけども、現実というのは映画に還元するんだと。全ては映画なんだという、全てと映画を結びつけて、だから現象というのは映画なんだと。そして全ては映画なんだと。で現実というのは映画なんだとね。

そしてその人間にとって何が現実として差し迫っているか、そのやっぱりその人間が感じる現実感でも、その夢のような現実、本当に現実なのかどうか分からないような現実から、もう本当に辛すぎて、辛い現実ほど現実味を帯びるわけですよね。

でそうした場合に、その現実とだから人間にとっては現実と現実じゃないものっていう2つがあるわけですよね。映画っていうのは現実じゃないんだと。映画館で夢のようなSF映画を見て、そして映画館出ると現実に戻ると。現実のちっぽけな存在の惨めな自分に戻ってしまうと。そうすると映画と現実っていうその2つがあるわけですね。映画に限らず空想と現実であるとかね、まあ映画だって空想世界ですからね。

でもそうじゃないんですね。還元なんですね。現象学的還元なんですよ。現象学的還元っていうことはつまりはその全ては映画で、だから映画と映画じゃないものを区別しないんですね。だから映画と現実を区別しないんですよ。

そして映画の登場人物と映画を見ている自分を区別しないんですね。これが肝心なんですよね。自分も映画の登場人物なんですよ。だからこそ映画の設定から自分は逃れることはできないんですね。

でなおかつ現実は存在しないんですよ。いかに現実が迫っているように思えても、それは映画の設定に過ぎないという、そういう、その結局だから哲学と生活の一致ということで言うと、哲学上は全ては現象に還元できると言いながら、生活上で現象と現実を別物として考えてしまうと。そうするとことが大げさになるんですね。

だから現実っていう言い方は大げさなんですよね。全ては現象だ、全ては映画だ。本当にだからその生活も含めて現象学的還元を行うと、その客観的に総合的に判断することができるわけですよ。客観的にっていうか冷静にですね、冷静に物事が判断できるわけですよ。

だからここには主観も客観もないんですね。全ては映画の中の出来事ですから。そして全てが映画の設定なんですよ。だからどういう風にして映画が設定されているのかというのを理解すればいいわけですね。自分はどういう性格設定なのか、キャラ設定されているのかっていう。それが自己認識なんですよね。自己認識って何かって言うと、現実の自分がどういう人間かじゃないんですね。映画の登場人物として自分はどういうキャラ設定をされているのかと。そしてそのキャラクターがどういう世界観の設定の中に存在しているとされるのかっていう。

そしてその科学法則とか、科学法則って、だからフッサール現象学の理念の中で、結局は科学者が言うところの科学法則というのは「科学現象に過ぎない」と言ってるんですけども、この科学現象ってのはどういうことなのかって言うと、つまりは映画の設定なんですね。サイエンスフィクションなんですよ。サイエンスフィクションっていうのも、実際にはフィクションサイエンスで、フィク

ションのサイエンスで物語が出来上がってるわけですね。でその意味で言うとフィクションのサイエンスとフィクションではないサイエンスの区別はないんですね。現実のサイエンスと思われているものも全部フィクションに過ぎないんですよ。映画の設定にしか過ぎないんですよね。

で映画の設定なんだから、バカバカしいとかじゃなくて、映画の設定から我々は逃れることができないので、その設定を仔細に知るということは無意味ではないわけですね。

でなおかつその映画の設定に整合性を求めてはならないわけですね。宇宙戦艦ヤマトの波動エンジンにちゃんと整合性のある理屈を求めても仕方がないのと同じなんですよね。宇宙戦艦ヤマトの波動エンジン、そして波動砲が荒唐無稽なのと同じように、我々もその地球に物が落下して、人間も落下するに地面を歩くことができるという、そういう荒唐無稽なSF的設定の中を生きてるわけですね。

あとまあ人は知らない間に生まれて、そしていつかは死んでしまうというね。フッサールだって死んじゃいましたからね。だからフッサールですらも映画の設定から逃れることはできないわけですね。

だから私は現象学的な認識というのは自分なりにはできてきたという風に思うわけで、だからこれも繰り返しになりますけども、その現象学的な認識の生活への応用、つまり生活と哲学の一致というのを実践していきたいですよね。そのために哲学的認識を深めてきたというかね。

そうは言ってもこんなものはその大げさなことではなくて、大体人生うまくいっている人っていうのは大体そういうことができてるんですね。特に現象学的還元とか、世界は全て映画であるとか、そういうこと意識しなくても、それこそ自然的態度においてできているんじゃないのかなと。

まあ私はめんどくさい人間だから色々遠回りしないと普通の人と同じにできないというかね、それも私の映画の登場人物としてのキャラクター設定だから、まあ仕方がないわけですね。

(2023年10月30日)

 

現実と現象20231023


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糸崎公朗です。「現実と現象」という話をしようと思いますけども、相変わらず現象学の話なんですね。とにかく現象学は難しいというのは、竹田青嗣さんも、そしてメルロ=ポンティも述べていますけども、そして私が読んでいた『現象学の理念』ですね、それの日本語の翻訳者もそのように述べていますけども、なんで現象学が難しいのかっていうと、それは現象学が難しいというよりも、人間の存在、ひいては自分の存在そのものが実は非常に難しいんですね。ですからやはりこの難しいという状況をどうにかするために、最近は現象学と私は格闘している最中で、それで色々連続して喋っているんですけども、最近、橘玲の『世界はなぜ地獄になるのか』っていう本を読んだんですね。そして『無理ゲー社会』というね、これも最近買って読み始めたんですけども、言ってみればどっちも通俗的な社会批評というか新書本なんですね。

有り体に言うと、現実をよく捉えている、現実の過酷さをよく捉えている本なんですよ。テーマとしては、世界はなぜ地獄になるのか?というと、世界がリベラル化していくと、つまり橘玲さんが言うところのリベラルというのは「誰もが自分らしく生きられる社会」というね、それの実現を目指していくというのがリベラルで、それは現代の感覚では当たり前とされているんですけども、人類史上で人間が自分らしく生きられるっていうことはずいぶん新しいんですね、ここ数十年のことなんですよ実はね。それによって実は逆説的に地獄が出現していると。誰もが自分らしく生きるっていうことを追求することによって、結果的には非常に息苦しい世界が現れていると。この矛盾をどうにかしなきゃいけないっていうようなことを訴えた本なんですけども、なぜこういう状況になるのかっていうと、私の認識で言うと、その一つは大衆社会だからということなんですね。

それも当たり前な話と言えるのかもしれないですけど、現代は大衆社会というのが当たり前の常識としてあるわけなんですけども、一方でオルテガが『大衆の反逆』を書いた時代ですね、それは第二次世界大戦の前ですけども、さらにその前の十九世紀にニーチェオルテガに先行する形で大衆批判をしたんですけども、その時代は、オルテガニーチェの時代は大衆とそれ以外の対比があったんですね。大衆社会が進行しつつあるとはいえ、大衆ではない人たちが存在していたんですけども、今や100%大衆の時代になったんですね、ほぼ100%の時代になったわけですね。

これはオルテガも指摘していましたけども、社会階層のあらゆるところに大衆が進出してきたということをオルテガが述べていて、今もう現時点でそうなってるわけですよね。だから有り体に言うと、社会の支配者層と言われている人たちですね、そして橘玲さんの言葉を借りると上級国民という存在も、それは大衆なんですよ。結局は上から下まで大衆なんですよ。で、そういう社会において非常に理不尽なことが起きていると。私から言わせると、そもそも大衆というのは理不尽な存在なんですね。大衆がいかに理不尽なのかっていうことをニーチェなりオルテガなりが切々として訴えたわけですよね。

それを引き継いで言うと、とにかく大衆が理不尽だとね。大衆社会が理不尽なのは、大衆が理不尽だからだっていう、そういうことではないかと私自身は思うんですけども、なんでそんな理不尽な状況が起きるのかというと、つまり現象学的に考えるとですよ、私の解釈ですけども、現象と現実ですね。つまり橘玲さんは『世界はなぜ地獄になるのか』とかね、『無理ゲー社会』とかね、そういう形で現実社会の現実を克明にあけすけに告発していますけども、でもその現実そのものというのは、実は現象なんですね。

理屈ではそういうことになってるんですけど、なかなか実感として理解するのは難しいと。だから現象学は難しいんですけども、だから橘玲さんの本は非常に優れていますけども、一方ではポジショントークなんですね。例えば、心理学を引き合いに出して、人間の脳というのはこれこれこういう性質があるから救いようがないみたいな、そういうことを言って人々の不安とか絶望感を煽るんですね。私には煽ってるように思えるんですよ。だから、人間の脳の性質による心理学っていうのは一方ではその通りなのかもしれないですけども、一方で100%それを鵜呑みにしていいのかしらって思うし、橘玲という人自体も匿名のペンネームなんですよね。で、ベストセラーをバンバンと矢継ぎ早に出して、だから売るための戦略として一般的にビジネスの世界で言われることは、人々の不安を掻き立てると本が売れると。だから橘玲さんもそういうセオリーに乗っ取って不安を掻き立てるという、その意味でのポジショントークをしているに過ぎないという風にも見えるし、だからその意味で非常に現実そのものが矛盾と不条理に満ちているということと、橘玲さんの本の書き方自体が錯誤を含んでいると、そういうところも全部含めて現象なんですね。

つまりフッサール現象学に従うと、この橘玲さんの本というのは自然的態度における学問なんですね。あくまでも現象学的にものを語っているわけではなくて、自然的態度における学問と。その意味において厳密に書かれているという風にも言えるんですけども、だからこそ必然的に矛盾や不条理をはらんでしまうわけですね。フッサール現象学の理念において、自然的な学問というのは結局は矛盾や不条理を含んでしまうという風に述べているわけなんですけども。

だからなんで自然的態度の学問が矛盾や不条理を含んでしまうかというと、現象というのはそういうもんだからなんですね。現象というものは矛盾や不条理を含んでしまうんですよ。そういうもんなんですよ。で、それってのはつまりは私の解釈で言うと、フィクションと変わりがないんですね。つまり現実というのは実は確固として現実があるわけではなくて、全ては現象なんだっていう言い方は、つまり現象というのはフィクションと同じなんですね。フィクションっていうのは現象なんですよ。

だからこの橘玲さんの『無理ゲー社会』で興味深かったのは「メリトクラシーディストピア」っていう章があって、で、メリトクラシーっていうのは今のこのリベラルな社会というのがメリトクラシーの社会なんですね。で、メリトクラシーってのは何かっていうと、メリトっていうのはメリットなんですよ。メリットが社会を支配するという、そういう社会体制なんですね。つまり人々はチャンスにおいて平等に開かれているとね。誰でも高校や

大学への受験資格が与えられて、誰でも勉強して努力すれば高学歴を手に入れられるし、高学歴を手に入れると良い会社に就職できてお金が儲けられると。で、そうじゃない人は努力が足りないような人は低学歴に甘んじる、そして低所得に甘んじるしかないというね、そういう要は実力社会ですよね。

それをメリトクラシーと表現されていて、今の時代はメリトクラシーだと言われているし、アメリカは特に日本よりもメリトクラシーが徹底していて、学歴による社会格差っていうのは大きいんだという風に橘玲さんが指摘していましたけども、このメリトクラシー社会を予言した小説というのがあって、これは1958年にイギリスの社会学者であるマイケル・ヤングという人が小説にしたんですね。『メリトクラシーの興隆』という小説を書いていて、だからその1958年の段階で、これからの社会はメリトクラシーになるんだと。機会均等に基づいて人々の才能と努力を公平に評価する社会が訪れるという予想をしたSF小説なんだけども、同時にそれはディストピアですね。

で、つまり今の社会っていうのは、結局は生まれながらの身分っていうのが近代以前の社会だったわけですね。生まれながらの身分によってその人の運命が決まるというのが近代以前の社会でしたけども、近代以降、現代においては実力社会なんだとね。誰でも才能があれば、そして努力によっていくらでも社会的に高い地位に就けるということになると、逆に言うと私なんかもそうですけど、結局学校の勉強が苦手なんですよ。それってのは才能がないということもあるし、努力する才能がないということもありますし、結局はだから人間の能力って遺伝的な要素ってすごく強いわけですよね。

そうすると結局は、結局は才能という才能の有無という意味で、遺伝的な格差、生まれの格差っていうものから人間っていうのは逃れることができないというかね、結局格差ができてしまうというね、その問題が解決できないじゃないかと。で、そういう未来の状況をイギリスのヤングという人はメリトクラシーという言葉で指摘したんだけども、それが見事に当たってしまったわけですね。で、このヤングという人の『メリトクラシーの興隆』という小説は、実は橘玲さんに言わせると小説としては非常に読みづらくて退屈らしいんですよね。だから日本語訳もされてないみたいなんですけども、でもAIの登場まで予測していて、かなり的中率が高いんですね。それで橘玲さんのこの『無理ゲー社会』という本に取り上げているんですけども。

結局、そのようにして、小説ってのはつまりは空想の産物なんですね。現象なんですよ、小説ですから。それは字で書いてある、字で表現された現象に過ぎないわけですね。現実ではないんですね。でも、その現実ではない現象でしかない小説が1958年の小説ですからね、65年経って当たり始めてるわけですね。で、そうやって現実に適中するSFってのはいくらでもあるわけですよ。

2001年宇宙の旅』も、スペースシャトルそのものは実現したんですけども、宇宙ステーションに人間が恒常的に往復したりとか、月面にアメリカ軍のものすごい基地ができるとか、そういうのは全部外れてますけども、例えばテレビ電話とかね、テレホンカードとかね、そういうものは現実には実現していて、なんだったらテレフォンカードそのものはもう現実の世界ではとっくに過去のものになってるんですね。あと顔認証っていうのもね、そんなもんできんのかって思ったら、2001年宇宙の旅ですよ。それも今は当たり前の技術としてあるわけで、つまり私が言いたいのは、サイエンスフィクションの想像の世界が、ある部分では外れてるんですけど、ある部分では当たるっていうね、そういうことがあるっていうこと自体、フィクションの世界と現実っていうのは変わらないっていうね、結局は同じ現象としてカテゴリーされるものに過ぎないわけですよ。

だからこれはその私の前の動画の繰り返しになるんですけども、肝心なことはですよ、やっぱりね、哲学的認識において当事者意識というのは非常に大切なんですね。だから哲学に限らず、学者と称する人が陥りやすいミスというか、そこで足元を掬われるのは、学者は学問を対象物として扱うのであって、対象物と学者としての自分自身は無関係だっていうね、距離を置くんだっていう、そういう立場でいると、それは実は学問にならないんですね。それこそ自然的学問の最たるものなんですよ。

ですから私もこのチャンネルで前にも述べましたけども、フロイトが『精神分析入門』を書いた時に、まず最初に取り上げるのは「自分自身を精神分析することが大事です」ということなんですね。他人のことよりまず自分のことをどうにかしろっていうことなんですよ。だから精神分析の方法論を説くために、まさにフロイト自身を様々に精神分析することで見本を示すんですね。で、そうやって精神分析っていうのを。だから精神分析っていうのは有り体に言うと、頭のおかしい精神の病気にかかった人を治療する方法論なので、健康であるところの医者は関係ないというかね、健康であって何にも問題のない医者が病気の人を治すと、そういう立場で精神分析にのぞむと、それは間違いだし、足元をすくわれるというふうにしてフロイトは述べているんですね。

そうじゃなくて、人は誰でも精神病者なんだというふうに認識したところが、フロイトの真に偉大なところの一つなわけですね。人は誰でも精神病から逃れることはできないと。そもそも精神的に正常な状態って何なのかっていうと、それはだから相対的なものであって、定義できるなものではないと。だから誰だって精神分析の対象者であるし、それは医者である自分自身も例外ではないと述べているわけですね。

それはプラトンソクラテスの時代から変わらないわけですよ。だからソクラテスが洞窟の例えで述べたことは、人は誰だって洞窟の中に閉じ込められて、そしてその影を本物だと錯誤している存在に過ぎないというふうに述べたのは、ソクラテス自身が自分もそのような認識をしているに過ぎなかったというね、そういう自分に対する反省を含めているわけですね。

ですからソクラテスが自分で死刑を受け入れて毒杯を仰いだというのは、直接自分が死刑と言われて死んだことが正しいかどうかっていうのは議論がありますけども、でも結局哲学というのは他人のことをとやかく言うのではなくて、自分自身のことを述べるわけですね。だからその意味で言うと自他の区別がないというかね、他人事と自分事を区別しないというかね、それが哲学の基本なんですよ。

だから自分のことを棚に上げて他人のことをとやかく言うということが最も哲学に反することなんですよ。ですからそれは現象学にも同じことが言えるはずなんですね。ですからまさに私自身の反省も込めて言いますけども、現象

学っていうのは、自分が現実だと思っていることが実は現象なんだということを冷静に判断し、認識することだていうね。

だから例えて言うならば、今私がこの目で見ているものというのは、生物学的に言うと網膜のスクリーンに映っている像にすぎないわけですね。で、それで言うと我々が見ている現実というのはまさに映画を見てるようなものなんですよね。映画のスクリーンに映像が映されて、そしてスピーカーから音が流れると。そして主人公がピンチに陥ると、我々も主人公に同調して何かハラハラドキドキしたりとかね、ミッションが成功すれば自分も嬉しく思うと、爽快な気分になると。

ところが映画が終わると素の自分に戻るわけですね。で、なんだったら映画を見ている最中でも、主人公に感情移入しつつ、その映画を見ている自分は映画の登場人物とは別人格なんだというのをちゃんと分かっていながら映画を見てるわけですね。だからそれ以前のもっと素朴な田舎の人は、映画を見て悪者が出てくると「こいつ怪しからん奴だ」ってスクリーンに向かって殴りかかってくるっていう例が、実際にも昔はあったみたいですけども、さすがに現代人でそこまで素朴な人はいないんですけども。

でも素朴で自然的な態度ということで言うと、まず現象学の入り口としては、この世界、自分が見聞きしている世界は実は映画のようなものだという風に認識するというのは現象学の入り口としては正しいんですけども、でもそこで止まってしまうと現象学にはならないんですね。つまりそれは自分ごとにはならないんですよ。映画のスクリーンっていうのは、映画っていうのは映画の中の出来事っていうのは、観客である自分とは分離した他人事でしかないんですね。

で、その現の認識の真に現象学たる所以、そして真に難しいところは、実は映画を見ている自分自身は映画を見ている観客であると同時に、映画の登場人物なんですね。これが重要なんですよ。だから、同様の話はそのSF、サイエンスフィクションと現象学かな、そういうタイトルの動画で私は述べましたけども、自分というのは物語の登場人物なんですね。映画の登場人物なんですよ。そこが難しいところなんですよ。

だから、現象というのは、つまり自分自身が体験して目に見えて、そして耳に聞こえる現実だと思えるものは、全て現象にしか過ぎないんだと。網膜に映った映像であり、そして耳の振動ですね、音の振動ですね、それが脳に伝達するわけですよね。で、そもそも網膜に映る像があるとして、その像に先立つ現実の世界ってのはあるのかないのかってのは人間には確認ができないっていうのも、フッサール現象学の指摘なんですね。

だから人間としては網膜像が映っていて、それが見えているという現象を丸ごと受け入れるしかないんですけども、一方で自分自身は映画の登場人物の一人でしかないんですね。だから現象学的に考えると、自分はその映画の中のストーリーであるとか、映画の中の設定に従うしかない存在なんですね。これがまた驚きなんですね。

だから、最近読んでる本で言うと橘玲さんが『世界はなぜ地獄になるのか』とか『無理ゲー社会』とか、そこで描かれる現実の社会ですね、現実のリアルな社会ですね、そんなもの現象に過ぎないんですね。ところがその現象に我々も従わざるを得ないんですよ。なぜかというと、そこで描かれる現象の登場人物なんですね、我々はね。そこから逃れることはできないんですよ。

だから、これも私の前の動画で何度か指摘したことがあるかもしれないですけども、つまり多くの哲学者とか精神分析家とか称する人は、多くの、ていうかね、私がこの人は信用ならないなとかね、この人全然分かってねえなって思う人は、自分は観客席にいる人はとにかく信用できないんですね。観客席にいて高見の見物をしているような立場の学者っていうのは全く信用できないし、それは学問ではないんですよね。学問っていうのは、つまり学者っていうのは当事者なんですよ。舞台の上の当事者なんですね。

舞台の上の当事者だから問題に向き合うという、どうにかしなきゃっていう問題意識があるわけですよ。だから、その意味で言うと、そのこれは何度も私は自分自身に言い聞かせるんですけども、そのこの世は映画であり舞台なんですね。それを私は見てるんですよね。これは映画の世界であり舞台の上でのお芝居に過ぎないんだと、そういう認識が一方であるのと同時に、自分は結局はその舞台の役者で、舞台を演じ、そしてそのストーリーの設定通りに動くしかないんですね、ということなんですね。

だからこれはかなり理不尽な状況なんですよ。だから僕自身は現象学を学び始めた当初ですね、フッサールが分かり始めてきたって実感したその最初の方は、この現象学をマスターしたら、この偽りの認識の世界から脱出できるっていうふうにして思ったんですよね。全部が現象だったら、この現象学をマスターしたら現象の外側に出ることができるのではないかと。それによってあらゆる問題が解決できる、解消できるのではないかっていうにして思ったことがあって。

その意味で自分は超人になれるんだと。現象学をマスターしたら人は超人になれるっていうね、そういうふうに思った時期があったんですけども、で、これも最近の動画で言いましたけども、『進撃の巨人』の主人公のエレン・イェーガーが塀の外に出たいと思って、かなりの犠牲を払って塀の外に出たんだ。出たんだけども、塀の外に出たって認識は変わらなかったし、なんだったら外の世界なんか知らなければ良かったって思うわけですね。

だからその意味で言うと、結局現象学をマスターしたからといって、現象学的認識を習得したからといって何か変わるわけではないし、むしろ何も変わらないということが理解されるだけにすぎないわけですね。なぜなら結局は、自分が現実だと思ってるこの世界は映画にしか過ぎないんだっていう、そういう認識が得られたとしても、でも自分はその映画の登場人物の一人にすぎないんだっていう、このことの現象自体を変えることはできないんですね。

どこまでも自分自身は現象に対して他人事であることはできないんですよ。だから私が夢想した超人になれるということは、この現象に対して自分自身だけは他人事の立場でいられると、その意味で現象に対して自由な立場でいられるというふうにして思ったんだけども、実際にはそうではなくて、いかに現象を現象として認識したところで、自分は現象の登場人物の一人であり、現象の設定に従うしかないんですね。現象の理不尽ででたらめな、何の根拠もない設定に従うしかないんですね。

で、この現象がいかに理不尽でデタラメなのかということは、橘玲さんの一連の著作に記されている通りなんですね。だから結局は人っていうのは、現象学的な認

識を深めることが実は大切なんですけども、同時に自然的態度の学問ということは必要不可欠なんですね。

だから今回取り上げた橘玲さんの一連の本を深く理解して、今の状況っていうのはこういう状況なんだと、その中で自分はどうしたらいいのかっていうことを仔細に考察すること、仔細に認識して、仔細に考察することは、これはだから現象学的認識ではなくて、その限りにおいては自然的態度の学問なんですね。自然的態度の学問を現象学的態度において行うんですね。

そういうことなんですよ。自分は映画の中の登場人物の一人に過ぎないと、そしてこの映画の中の設定っていうのは物語設定ってのはどういう風にされているのかっていうね、そういうことを深く調べるということが、結局登場人物としてはそういうふうにするしかないわけですね。

この映画の設定の中では、例えばどのような物理法則が設定されていて、そしてどのような歴史的経緯が設定されているのかっていうね、そういう設定の問題でしかないんですけども、でもその設定を仔細に認識するしかないわけですね。

この世界では法律がどのように設定されているのか、そして人々の倫理感とかモラルというのはどのように設定されているのか、もしくは人々の性格設定、自分の性格設定、そして多くの人の性格設定と自分の性格設定の差異、能力差、自分の能力そのもの、人間の能力そのもの、それは架空のフィクションにおいてどのように設定されているのかっていうことを仔細に認識する。それはだから精密に設定されたSF小説SF映画と変わらないわけですね。現実というのはね。現実っていうのはだから精密に設定されたフィクションにすぎないんですよ。

そしてその精密に設定されたフィクションの中の登場人物の一人が自分自身であり、自分自身もまたフィクションの中で性格設定、人格設定、能力設定されているわけですね。それは自分が望んだものではないですからね。で、その意味では、これも繰り返しになりますけど、自分というのは非常に無力だし、自分が行う哲学的認識というのも無力なんですね。

だからその無力さということを十分に認識するということが、認識を深めるというね、そういうことに繋がるわけなんですけども。

だからこのチャンネルの方針としてはですね、私のYouTubeチャンネルの方針としては、おかげさまで登録者が600人を超えて、1000人までもうちょっとっていう、なかなか難しいですけども、やっぱ人間の認識って二種類あるんですね。つまり現象学的なメタ認識と、それとフッサールが言うところの自然的態度の認識ですね。で、自然的態度の認識っていうのも実は必要なんですよ。

だから自然的態度の認識に一方ではシフトしていくというかね、そっちの方向でもこれから喋っていこうというのはあるんですけども、このチャンネルに関しては自分のために喋っているので、何が優先されるのかってのまた別問題ですけども。

とにかくそこまでは整理がつきましたよという話でありました。どうもご視聴ありがとうございました。

現象学と遠近法20231021


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糸崎公朗です。現象学と遠近法、という話をしようと思いますけども。フッサール現象学の話ですね。現象学がとにかく難しいと、専門家でも難しいと言われるのは、現象学が難しいというよりも、そもそも人間というもの自体が難しいんですね。で、だから人間というものを簡単に考える、逆に言うと簡単に考えるっていうことは、人間ってのは騙されてるんだっていうことなわけですよ。人間、騙されたままだと簡単で済まされるんですけども、じゃあその騙しから、人間が騙されてるこの状況から脱出しようとすると難しい問題になって、でそれはソクラテスプラトンの洞窟の例えからの歴史があるわけですね。数千年の歴史があるわけですよ。

で、それで今回の動画で言うと、つまり人間というのは、ある一定の騙された世界に閉じ込められているんだと、洞窟の中に閉じ込められているんだっていう認識が哲学の前提にあるんですけども。だから前回の動画で言うと、それは漫画の『進撃の巨人』ですね。壁の内側に閉じ込められた状態からの脱出の物語ってのが哲学なんだっていう考え方ができますけど。しかし一方では、その囚われの状態から脱出したところで、状況を変わらないと特に何もいいことはありませんよと。進撃の巨人で言うと、外の世界なんか知らなくて良かったっていうね、そういうことが物語の大きなテーマになっていて、それは哲学的な事実をよく捉えているなという風に思ったんですけども。

でもとにかく、その外側の世界を知るのと知らないとでは、たとえその状況が良くなくてもね、その良くないっていう、その絶望の認識自体が変わるのではないかと。それだけが哲学の意味だということを述べたわけですね。で、そうすると曲がりなりにも、その現象学を使って外の世界に出ようとしているわけですね。そういう困難なミッションを行おうと私もしているわけですよね。フッサール先生がそのような手引きをしてくださったわけですからね。

で、結局、閉じ込められた認識の外に出るというのが、結局実践での応用ということになるんですね。私たちが生きるこの生活の中で、どのようにして活かしていくかっていうね、そういうことなわけなんですけども。一方で哲学を道具的手段として利用することの批判というのは一貫して一方ではあるんですけども、そんなの関係ないっちゅうかね、結局世界観そのものの改変というか、それを全く改めてしまうわけですね。

だから僕自身は、僕は先に構造主義の影響を受けたので、自分自身が構造主義者であろうとしていたんですけども、やはりその構造主義の前提に現象学があるっていうか、より哲学的な深みを述べているのは現象学なんですよ。だから私自身は構造主義者である以前に現象学者であらなければならないわけですね。現象学問的に物事を見なきゃいけないわけですよ。それを徹底しなきゃいけないわけですよ。で、その徹底が難しいから現象学は難しいと言われているわけですね。

だから、フッサールが一貫して批判しているところの自然的態度という、私たちは結局は日々自然的な態度で生きなければならないし、いかに自然的態度を批判したとしても自然的態度の世界から逃れることはできないわけですね。だから具体的に言うと、お金を稼いで税金を払わなければならないですね。そういうつまんないことをしなきゃいけないわけですね。そういうところから逃れることはできないわけですね。

で、それに自然的態度ではなくて現象学的にどう向き合っていくかというね、そういう話になるわけですね。で、そこで遠近法ということが出てくるんですけども、遠近法の問題は構造主義でも出てくる概念なんですね。これは橋爪大三郎先生の『初めての構造主義』という本で、構造主義と遠近法というものを結びつけて説明されていましたけども、それがダイレクトに現象学にもっと深く関わってくるわけですよ。

で、結局、我々を悩ませるのは何かっていうその問題なわけですね。お金稼がなきゃいけないとか、税金払わなきゃいけないとか、ガス代払わなきゃいけないとか、水道料金払わなきゃいけないとか、そういう問題なわけなんですよ。それっていうのは、つまり遠近法的に言うと自分に近い問題なわけですね。だから自分の生活上に差し迫った問題というか、いや、特に私が税金とかその他の支払いに追われてるということではないんですね。職場の人間関係でもいいんですけども、嫌な上司がいるとか、全然言うこと聞いてくれない部下がいるとか、そういう問題でもいいんですけど、そういう瑣末な問題にどうしても関わらざるを得ないというのが人間の存在なんですけども、そういう自分を悩ませる問題ってのは自分に近い問題なわけですね。

で、それはつまり遠近法の問題なんですよ。で、遠近法って何かっていうことなんですね。つまり遠近法の理論を完成させたのが、ルネサンス中期のアルベルティですね。レオン・バッティスタ・アルベルティだとすると、それが理論の完成者だとすると、実践的な完成者はレオナルド・ダ・ヴィンチだと言えるんですけども。つまりアルベルティなりダ・ヴィンチなりが示した遠近法っていうのは何かっていうと、つまり絵画ってのは平面なんですね。ここが肝心なんですね。平面なのにも関わらず、手前の人物から、もしくは手前の人物の足元の草が近いところにあるわけですね。鑑賞者に対して近いところにある。そして背景の遠くの山並みまで非常に距離があるように描かれているわけですね。

それが肝心なわけですね。遠近法が徹底されてない画の絵っていうのは、見た目は何か立体的でリアルに見えるけども、冷静に観察すると背景が人物の後ろにべったりくっついていて、抜けるような空間が描けていないっていう話になって、つまりアルベルティ及びダ・ヴィンチが解き明かしたことによると、絵画の神髄っていうのは、平面なのにもかかわらず無限の奥行が描かれるという、本来不可能であることを可能にする、平面だけど無限の奥行というその二律背反を両立させるところが絵画の絵画たるゆえんなわけですね。遠近法の遠近法たるゆえんなわけですね。

しかしそれは実は人間の認識世界の反映というか、その模型なんですよね。つまりそれは実は人間の認識自体がそうなんですよ。だから今もカメラで映像を流しながら、映像を撮りながら喋って歩いていますけども、カメラってのは手前から遠くまで全部映し出すわけですよね。でも結局は人間の網膜像ですね。人間の網膜像っていうのは、手前にあるものも遠くにあるものも全て同一の平面上に映し出されているわけですよね。人間が勝手に、これは手前にあって

、あっちは遠くにあるっていう風にして思い込んでいるに過ぎないわけですね。

だから現象学的に言うと、現象学的に還元するとですね、全ては平面なんですね。同一平面なんですね。で、それは人間の日常的な自然な感覚ですね。素朴で自然な感覚に当てはめなければならないと。だから自分にとって差し迫った問題っていうのは、自分にとっては差し迫っていて、遠近法的に近い存在ではありますけども、しかし現象学的に言うと、現象学的に還元すると、つまり現象学っていうのは一つは還元主義なんですね。現象学的に還元しなければならないと。全ては現象なんだと。全ては同一平面上なんですよね。

つまり現象学って何かって言うと画家の視点なんですね。そういうことなんですよ。だから客観的にっていうか、絵画を鑑賞する場合に、その観客の無責任な態度ですね。観客の自然な態度で言うと、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵ってなんか写真みたいですよね。すごい遠近法的空間が描かれていてすごいって、そういう素朴な感想になるんですけども、画家の立場で言うと、いかに平面の中に無限の奥行きが表現されているかということを分析的に、まずこれは平面であるっていうね、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画が平面であるっていうね、その認識が必要なんですね。そっから、そのどのようにしてレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画が成立しているのかというのを分析的に見るわけですね。

で、だから僕自身はデッサンの勉強を美大受験の予備校で一浪したんですね。美大受験するために予備校で一浪して、長野の予備校の先生がヨーロッパ帰りのデッサンの教え方をマスターした先生で、しかもその最近確認したところで言うと、『デッサンは右の脳で描け』っていう、そういう本が僕が高校生当時、80年代半ば浪人してる時代に出版されて、でその教えを長野の予備校の先生が教えてくれたんですね。それってのは分かりやすく言うと現象学的にものを見るっていう見方なんですよ。だから人間の顔を描く時に、自然な見方で人間を見ると、ま描けないわけですね。

自然な見方っていうのは、つまり顔とか目とか鼻とか、そうやって言語で物事を見てしまうと。で、そうすると目を描いて鼻を描いて口を描いて顔の輪郭を描いて髪の毛を描いてっていくと、言ってみれば漫画的な表現になるわけですね。で、そういう言語っていうものに囚われないで冷静に影の部分、光の部分というものを造形的に認識すると、人間の顔もリアルに描けますよって教えなんですけども、それってのは今から考えると非常にある意味で現象学的な考え方なんですよね。

だから、現象を現象として意識して見ると。で、現象を現象として意識して見るっていうのは、だかそれは画家の視点なんですよね。画家ってのはいかにして立体であるとか、無限の奥行きであるっていうものを平面に描くかっていうね。だからそれっていうのは人間の網膜、人間が見ているこの自然的な態度としてリアルで奥行きのある情景である、そういう自然的な態度っていうものを一旦保留して、つまりエポケーですね。現象学的に言うとエポケーですね。つまり、だからレオナルド・ダ・ヴィンチもエポケーしているわけですね。エポケーした上で、つまり平面という現象に網膜像という現象を映しとるというか、それも正確ではないですけども、つまり人間の視覚っていうのは、視覚認識っていうのはそれ自体が現象なんですね。

だから実際に物があるとか、事が起こってるとか、そうじゃないんだ、現象なんだとね。現象学的還元をしてるわけですよ。で、現象学的還元としての絵画なんですね。レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画というのはね。それが徹底されている。論理的にそれが徹底されているわけですよ。だから、それを我々も実生活に応用しなければならないとね。絵画を描いている時にだけ、私もアーティストですから作品を作っている時にだけ現象学的にあるってのは、それはできるんですね。だから、今実はフォトモを久々に作ってるんですね。鳥取県米子市で来年1月に「米アート」というイベントがあって、そこでフォトモをメインに据えましょうっていう風にお誘いがあって、で9月の末に米子に行ってフォトモの素材撮影をしてきて、今その米子のフォトモの作品を制作してるんですけども、これは我ながら、つまり写真を切り抜いて立体にするということは、かなり現象学的な作業が必要になるわけですね。

それこそ、レオナルド・ダ・ヴィンチの遠近法をさらに写真を切り抜いた立体に応用するっていう、かなりいろんな技を我ながら作って使っているんですけども、でも実生活から離れると、正直、今回のイベントはね、ギャランティー十分にいただけて、それは非常に感謝してるんですけども。つまり、ギャラの問題と、仕事をするとギャラの問題とかね、扱いの問題とかね、自分をアーティストとしてメインで扱ってくれるかどうかとかね、他の作家さんとの兼ね合いとか、そうやって色々くだらないことで何か色々起きたりすることもあるんですよ。今回米子の皆さんは大変よくしていただいて、実は地元鳥取の地元にお住みの朝倉弘平さんという絵描きさん、画家でイラストレーターの方とコラボレーションするっていうことになっていて、で、そのコラボレーションの作品も私は色々頭をひねって考えて、なかなかいいものができたし、朝倉弘平さんも非常に柔軟に対応してくれて、朝倉さんからのアイデアも色々出してくれて、その意味では非常に上手くいってるんですけども。

だから、うまくいってる時はね、いいんですね。色々まずくなると、つまり自分に振りかかっている問題が遠近的に近くなってくるわけですね。で、その遠近法をやはり、その現象学的に捉えて「遠・近」という問題を冷静に捉えて、つまり近いものと遠いものっていうのを同等に捉えなければならないわけですね。つまり自然的な態度の遠近法っていうのは、自分にとって近いものだけが問題なんですね。遠くのものっていうのは視野にないんですよ。だから、有り体に言って国際情勢に関心を持たなければダメですよっていうのは、そういうところにあって、つまり遠い外国の世界っていうのは、つまり遠近法的に言うと遠いことなわけですね。

で、今はウクライナ戦争が続いて、イスラエルで結構なことが起きてるわけですね。だから、そうすると話題性があるのでつい注目しなければならないっていうことではありますけども、でも平時にあっても有り体な意味において広く世界を見渡して遠近の遠と自分に近い関係というものをフラットに捉えるっていう視点は、有り体に言っても必要なことというかね。だから同時に、遠近の問題って

いうのは、前回の動画でも言いましたけども、つまり絵画を見るように自分を取り巻く状況を見なければならないんですね。

だから絵画っていうのは、つまり鑑賞する時の距離ですよね。鑑賞距離ですよね。で、そうするとせいぜい全体を見渡す時は1メートル、2メートルなわけですね。で、僕の場合はメガネ外すと目の前10センチにピントが合うっていうね、その特徴を利用してとにかく目を近づけてじっと見たりして、で葛飾北斎の版画ですね。それがどれぐらい繊細なのか、最近驚いたのは鎌倉に鏑木清方美術館っていうのあるんですね。鏑木清方というのは有り体に言うと明治から昭和にかけての日本画の作家ですけども、結局、葛飾北斎的な江戸の伝統を受け継いで、そこに西洋の血を流し込んだという、私はかなり尊敬するアーティストでありますけども。その鏑木清方の版画、木版画ですね。彫ったのは彫り師ですけどね、浮世絵そうですけど、北斎の浮世絵っていうのは、北斎が板木を彫ったのではなくて、彫り師が彫ったんですけども。その鏑木清方の版画ですね。それを私はメガネを外して10センチから5センチの距離で仔細に見たんですけど、その線の細さですね。それが北斎の浮世絵を超えてるんですよ。だから日本の木板技術というのは、今では廃れてしまったんですね。江戸以来の木版の技術っていうのは今では廃れてしまいましたけども、実は明治にその極限の時代を迎えていたってのはよく分かってね。

だから明治になると西洋からエッチングが入ってくるのと、あとリトグラフが入ってくるわけですね。で、そうすると木版にはない繊細さがあるんですけども、それに対抗して木版の範囲で、つまりエッチングに匹敵するぐらいのか細い線を、もう本当に髪の毛ぐらいの線を彫ってるんですよね。で、それを私はまじまじと見て、これはすげえ、これが極限だっていう風にして思ったりしたんですけども、それは現象学的な視点なわけですね。

つまり、絵画っていうのはせいぜい1メートルとか10センチとか、場合によったら5センチとか、そういう距離で見るわけですよ。だから、これも前回の動画で言いましたけども、自分だから遠近法に惑わされないってことは、近いものも遠いものも等しく等しい距離で、1メートルなり10センチなりで見ると。で、無限の奥行きの彼方にあって自分には知らない領域なんだっていうのは、これがだから錯覚に過ぎないわけですね。だから絵画においては無限の彼方に描かれている山並みとか、お城であるとか富士山であるとか、そういうものは全て錯覚に過ぎないわけですね。

で、そのように自分とは関係のない遠い出来事ですね。だから、日本政府であるとかね、アメリカの政府であるとかね、イスラエルでもそうですけどね、やっぱり私自身は政治家ではないので、政治家ってのは随分遠い存在ではあるんですけども、でも現象として考えると自分の目の前の問題と同距離なんですね。だから自分の目の前の問題を遠くに追いやって、で、自分から遠いものを近くに持ってきて、そういう風にして全ての距離をフラットにしなければならないとね。それが画家の視点なんですよね。

遠くの山並みはよく見えないからよく見ないって言うと描かなくなるわけで、そうすると自分の興味のある手前の人物しか描かないということになると背景がなくて対象物だけがある稚拙な絵になるわけですね。稚拙なんですよ。だから現象学的でない視点というのは結局は稚拙なんですね。だからフッサールが批判しているのは、つまり自然的態度の学問というのは、科学であれ法学であれ何であれ一見高度のように見えますけども、それってのは結局は稚拙なんだということなんですね。

だから実際、かなり難しい話だと思うんですね。やはり人間ってのは誰でもそうですけど、自分の専門分野においてはその意味で言うと今言ったような現象学的な考えができるわけですね。落ち着いて問題を整理して、これは重要だけどこれは重要ではないっていうね、そういう区分がパッパッとできるんですけども、いざ自分の問題になるとやはり遠近に惑わされるというかね、自分に近い問題が拡大されてそれに囚われてしまうと、そういうことなんですね。

だから私は構造主義者として全てを構造で捉えようとしていたんですけども、さらに一歩進めて、さらに進めて、やはり構造主義よりも現象学の方が手前の問題を扱っているというか、さらに本質的な問題を扱っていて、で結局現象学的に見れば構造主義っていうのも自然的態度の学問に過ぎないわけですね。あえて言うとね。だから現象学的に構造主義というのを使うというのはありですけども、でも現象学的考えが一切ない構造主義っていうのは自然的態度の学問に過ぎないんですね。

だから現象学ってのはざっくりと100年前の考えですからね。100年前に、100年前の考えだから古いということではないんですね。だから現象学っていうのは世界を認識する技術なんですね。科学技術よりも新しい技術なんですよね。で、それを使いこなすのは難しいんですよ。だから100年経とうが何だろうが関係ないんですね。で、私は一応フッサールは何冊か読んで、そして『現象学の理念』をじっくり再読したと。で、そういうものを使っていこうと思ってるわけですね。

というわけで、以上です。どうもご視聴ありがとうございました。

アーティストがなぜ哲学を語るのか20231018


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糸崎公朗です。アーティストがなぜ哲学を語るのかという話をしようと思いますけども。この私のYouTubeチャンネルは、結局のところアーティストである私が哲学について延々と考えながら語っているというチャンネルになってるわけですけども、なんで哲学を語らざるを得ないのかっていうことですね。それについてちょっと思ったことがあったので、喋ってみようということなんですけども。

実は、私の師匠の彦坂尚嘉先生がYouTubeチャンネル「彦坂尚嘉チャンネル」の方で、作家がアーティストが自分の作品について語ることの難しさっていうのを動画で撮ったんですね。私が撮ったんですけども。その前に彦坂先生は、今ミサシンギャラリーで個展をやっていて、その作品解説の動画も撮ったんですよ。実は編集で随分いい感じにしたんですけども、本人は結構苦しそうに喋っていて、半分ぐらいカットしていい感じの動画にしたんですけども、その中で彦坂さんが語っていたのは、アーティストが自分の作品について語ることの難しさですね。

そこで、ラウシェンバーグの例を出して、結局自分についての解説をすると作品が悪くなると言うんですよね。結局、自分で作品解説して「これこれこういう理屈で自分の作品作ってます」と言うと、その理屈に引っ張られて、結局作品がつまんなくなるというか、理屈で作品を作るようになってしまうわけです。それは僕も気をつけている点で、私は一方ではフォトモという作品でデビューしてくるんですけども、そのコンセプトを随分考えて、そのコンセプトについての文章を書いてきたんですね。

そもそも作品とはコンセプトであるということは普通に言われていることですし、私が直接影響を受けたのは、赤瀬川原平さんの超芸術トマソンでありまして、これは超芸術トマソンとはこういうものであるというコンセプトがあったわけです。そういうコンセプチュアルアートであったわけですよ。それはひいてはデュシャンレディメイドを下敷きにしているというか、そういう感じで、やはりアートというのはコンセプトなんだと。

フォトモというのは、ありていに言うとオモシロ芸術なわけで、単なるオモシロ芸術と思われたくないと。ちゃんと理屈で考えて作ってるんだというところで、現代思想の入門書や哲学の入門書を読み始めたという経緯があったんですね。だから一つは、なぜアーティストが哲学を語るのかというと、それは結局コンセプトの説明なんだと。自分の作品の解説なんですよね。だから、なぜ私が哲学を語るのかというと、それは自分の作品の解説のためなんですね。そういうことだったんだ、ということを彦坂さんの話を聞きながら思ったわけです。

ところが、私が入門書だけを読んでいた時期というのがあったんですけども、ある時から自分のフォトモとは何かという説明が毎回同じになってしまうということになったんですね。そういうふうになってきたんです。だから、毎回毎回「フォトモとは何か」という違う説明をしていくために、考えを掘り進めていくことが必要なんですが、ある時から同じ説明になったんですね。それをおかしいなと思ったわけです。

何かある正解にたどり着けば、それはいつも同じ説明になるという考えもありますけども、しかし何かおかしいなと思ったんです。それは最初に言った彦坂さんが「説明をすると作品が悪くなる」ということと繋がってくると思うんですけども、毎回同じ説明になってしまうということは、作品も毎回同じになってしまうということです。そういうふうになってしまうんじゃないのかなと。

実際、私のフォトモ自体も結局行き詰まるというか、フォトモというコンセプトで写真を切り抜いて立体化するということでいろんな手法を試していったんですけども、ある時から全ての手法を試し尽くして、自己模倣になってきてしまうというか、同じことを繰り返してしまうわけです。それが自分としては面白くないというか、クリエイティビティとは違うというかね。フォトモの面白さというのは、誰もやったことがない表現で、自分も見たことのない表現だから面白いからやってる、というのはあったんですけども、ある時から繰り返しになってしまったんですね。

それと共に、「フォトモとは何ぞや」という説明も結局は繰り返しになってしまい、それはまずいなと思っていたんです。その中で、まさに彦坂先生と出会って、「哲学に興味があるんだったら入門書なんか読まずにプラトンから読め」と。そして古代インドのブッダも勧められました。そういうちゃんとした哲学書、そしていきなり難しいフッサールを読むのは難しいので、古代の哲学ですね。古代の哲学というのは本質を突きながら読みやすい。そこで、ちゃんとした哲学書を哲学者が書いた入門書ではない哲学書を読むようになったんです。

そうやって認識が深まっていったわけですけども、そういうことで言うと、結局私は自分の作品解説の延長で哲学を語っていて、そこから境界線がなくなってきたんですね。つまり、私の場合は作品と作品解説の境界線がなくなってきて、結局作品解説をするところの哲学そのものが作品になってきた。それがこのYouTubeチャンネルの一連の動画のコンセプトで、「なるほど、そういうことだったのか」と思ったわけです。

結局、芸術とは何かというと、それは認識の問題になります。つまり、アーティストがどのようにして世界を認識しているかということがダイレクトに作品に現れる。それが作品なんですね。アーティストがどのようにして世界を認識しているかということが、すなわち作品なわけです。それはレオナルド・ダ・ヴィンチの作品にしろ、葛飾北斎の作品にしろ、彦坂尚嘉先生の作品にしてもそうなんです。今、ミサシギャラリーで彦坂尚嘉展をやっていますけども、彦坂尚嘉がどのようにして世界を見ているのか、どのように世界を認識しているのかということが作品に現れているわけです。

そういうことで、彦坂先生も哲学を読んでいる。だから、彦坂先生の影響で私もフッサールを読むようになったわけで、フッサールを読んでラカンを読んで、そしてフロイトも読むようになり、『ブッダの言葉』も読むわけです。なんでそうやって哲学をやるのかというと、それはやっぱり哲学というのは認識の枠組みなんですよね。だから、美術家というのは結局哲学をやらざるを得ないし、美術というのは、芸術というのは、言ってみれば哲学そのものなんですね。アーティストが哲学を表現する。それが絵であり、彫刻であり、私の場合は今映像を撮ってますけども、そういうものになるし、そして今私で言うとこの喋り自体ですね。この映像と喋りの組み合わせです。

一方で、最近のアーティストには哲学がない。哲学がないのが今的とも言えますけども、結局哲学のないアートがどういうものかというのは、今のアーティストはよく表していると思います。しかしさらに言うと、哲学に哲

学があるのかという問題もあります。例えば、武田青嗣先生やメルロ・ポンティにしても、「現象学は難しい」と書いています。現象学が難しいのは確かですが、これはやはり必須課題なんですね。現象学というもの自体をマスターしないと始まらないところがあるんじゃないかと。分かるとか分からないという問題ではないような気がします。

やはり、芸術というものも、そして哲学というものも現象学的に捉えないと始まらないわけです。フッサール現象学というところまで人間の認識を掘り下げたわけで、現象学というのは人間の認識の到達点なわけです。近代文明が進み、現代文明が進み、そうやって今の進歩した世の中があるわけですけども、進歩した世の中における進歩した認識が現象学で、これをマスターしないと始まらないわけです。実際に言うと、前の動画でも言いましたけども、結局人力の時代が終わりました。何もかも機械に置き換わってしまった時代で、人力で現象学を理解する時代はその意味で終わっているということです。

人力の世界においては哲学のないアートがまかり通る。つまり、コンセプトのない芸術がまかり通り、説明のない芸術がまかり通るわけです。一方では説明困難な領域というのがあって、私も自分の作品について、この映像だって「この映像はどういうコンセプトで撮りました」「どういうカメラを使って、どういう組み合わせで映像を加工している」ということは口で言えますけども、その口で説明したことが全てなのかというと、そうではないわけです。

結局、観客の側、あるいは多くの人は両極端に傾く。説明すると説明しか理解しないし、説明が不可能だというと、説明ゼロで何かを作ったり、説明ゼロ、つまりコンセプトゼロで作品を作ろうとするわけです。どっちかの両極なんですね。説明できる領域と説明できない領域があるわけです。むしろ私は、説明できない領域をはっきりさせるために説明するというところがありますし、あるいは私が語っている哲学が何かの説明なのかというと、そうではないわけです。

つまり、フッサールにしたって現象学の説明をしているわけではないわけです。私が認識したこと、今回私が認識したことというのは、説明ですよ。説明でいいんです。なぜ私が哲学を語るのかというと、それは作品の説明のためなんですね。元はそういうもんなんですよね。その説明そのものが作品になっていく。私の場合はね。哲学とは説明であるということで、その意味では良いのではないかと思うわけです。

という話でした。どうもご視聴ありがとうございました。