今ですね、『知能低下の人類史』というね、なかなかすごいタイトルの本を読んで、半分ぐらいまで読んだんですけども、この本だから人類の知能って、平均的な知能ってね、近年低下してきているんじゃないかっていう、そういうことを指摘した本で、なるほど、そういうこともあるかもねと思いながら読んでるんですけども、一方では人間の知能について、例えばIQとは何かとか、IQが高い人と低い人の違いとかっていうのをかなり赤裸々に綴ってる本で、この本の冒頭にも書いてありますけども、知能の話ってのは多くの人に嫌われている話題なんだっていうね、だから一般的にはタブーとされているわけですね。
で、この本はね、実はこのチャンネルでも度々紹介している橘玲さんの一連の著作と似てるところがあって、例えば『言ってはいけない』っていう橘玲さんの本もそうですけども、その言ってはいけないことっていうのは、つまりは知能に関したことなんですね。で、知能に関したことはやっぱり一般的な今の常識ではタブーとされてるので、嫌われる本だつってね。橘玲さんも、この著者も、これはイギリス人ですかね、二人、研究者の本なんですけども。
で、そこでIQとは何かっていう話、知能が高い低いはどういう意味なのかっていうことと同時に、その、さっき読んでた章は天才とは何かっていうことがね、いろいろと説明されていて、で、天才とは何かっていうこともね、あの、『天才を殺す凡人』というそういう名著はあって、でまあ、いろんな人がね、過去いろんな人が天才について言及しているので、例えば山本七平さんとかね、あと誰いたかな、とにかく天才ってのはこういうもんだってのも私もなんとなく分かってて、で、この本に書いてあった天才像っていうのも僕の認識とそんなに違いはないですけども、ここで改めて天才ではない秀才とは何かということが明らかになったわけですね、私の中でね。
だからこの中で、秀才とは何かっていう定義をしていないですけども、でも、まず1つは、IQが高い人はどういう人なのかっていう説明があって、IQが高い人っていうのは、例えば自分の得意分野ですね、数学が得意であるとか、言語の能力に秀でているとか、物理の専門家であるとか、そういう人はIQが高いんだけども、そのIQが高い人っていうのは一般的に他の能力も高いっていうんですね。だから、国語、算数、理科、社会で言うと、理科が飛び抜けて得意な子でも、IQが高い子は、理科ほどではないけども国語の成績も、社会の成績も、みんな押し並べて高いとね。そういう傾向にあるのが、IQが高い人の特徴だと言ってるわけですね。
で、それに対して天才っていうのは、そのある特殊な能力においてはものすごい飛び抜けてんだけども、意外と学校の成績悪かったりとかね、普通の人ができるようなことができなかったり、あとはその社会的な共感性がなかったりとかね。だから、社会的な共感性っていうのは、IQが高い人の特徴なんですね。だからIQが高い人っていうのは、社会的にも高い地位を得て、お金を儲けるのもうまいとね。すべて要領よくこなしていって、自分の得意分野でも能力を発揮するけども、それ以外の分野でもそつなくこなすことができるのが高IQの人ですね。
で、そうすると、そのIQが高い人の定義というのは、それはそのまま秀才に当てはまるんじゃないのかなというふうに思ったんですね。だから、まさに『天才を殺す凡人』という本でも、その天才と秀才は違うんだっていうね、そういう区別を明確に設けていましたけども、そこで納得した説明とその高IQの人と、それと飛び抜けた天才の違いというのは、符合するわけですね。つまり、高IQの人っていうのは秀才だということになって、それは一般的な認識でもね、専門家がわざわざ説明するまでもなく、そういうことになるわけですね。
で、そうすると高IQの人がアーティストになって美術家になって作品を作るとどういうことになるかっていうと、今の時代においてはその作品はキッチュになるというね、そういう自分なりの発見をしたわけですね。で、そんなことはこの本には1つも書いていないんですけども、実はだから、一方では今、どんなアーティストが売れてるのかなっていう研究もしてるんですね。で、そうすると、ある写真家さんですごく今人気が上がってる人がいて、その人の作品も繰り返し見てるんですけども、どうもね、作品がキッチュなんですよ。
で、キッチュっていうのは、いろんな意味があるというかね、時代ごとにその意味も変化していくんですけども、僕が思うところのキッチュってのは、まずは通俗的なんですね。だから、みんなが思う「芸術とはこういうもんだ」っていう通俗的なイメージで作られているわけですよ。だから、一見キレイキレイで人目は引くんだけども、僕なんかの目から見ると申し訳ないけど、なんかこう薄っぺらい感じがして、通俗的ってのは薄っぺらいという意味ですけどね。そうすると、この人の作品はずいぶんキッチュだなと思うし、キッチュだから人気があるんだってのも、ところまでは分かるんですね。キッチュっていうのは、みんなにとって分かりやすいという意味ですから、大衆性があるというね、それがキッチュの特徴で。
だから、それは古くはグリーンバーグというアメリカの評論家が『キッチュとアヴァンギャルド』とかね、そういう形でキッチュというものを論じましたけども、アヴァンギャルドというのは芸術の可能性を追求するので大衆受けが悪いわけですね。言ってみれば天才の作品なわけですよね、アヴァンギャルドというのはね。で、一方でキッチュというのは、グリーンバーグはそこまでは言ってなかったかもしれないですけども、その秀才というのは、つまり押しなべてIQが高くて、芸術の方面で才能を発揮するけども、でも芸術以外の才能ですね。例えば、ビジネスの才能ですよね。自分の芸術の、つまり人より絵がうまいとかね、あと写真を撮るセンスが人よりもあるとか、そういう自分の特殊な才能を生かしながら、なおかつビジネスセンスにも秀でているとね。
だからここにも書いてありますけども、IQの高い人ってのは数学の計算がまず得意なんですね。計算が得意っていうのはそのまま高IQの1つの指標になるんですけども、ちなみに私はもう暗算とか全然下手ですからね、苦手ですからね、ダメなんですけども。だから高IQの人の特徴としてね、例えばアート方面に能力が特化していたとしても、そのお金の計算の能力も平均値よりも高くてね、なんだったらビジネ
スも同時に得意と。そういう人がアーティストをやると、つまりはその大衆受けする作品じゃないと商売にならないわけですね。
で、そうすると、そのIQの高い人は自分の好きな作品、自分がいいと思う作品を作るのではなくて、今どういう写真を撮ったら、どういう作品を作ったら、どういう絵を描いたかね。絵を描いてる人だって、最近売れてる人の絵見ると、ずいぶんとビックリするぐらいキッチュな絵で、こんなんどうすんのって思うぐらいキッチュなんだけども、でも実際に売れてるわけですね。で、そういう人っていうのは、僕の今の認識だと、IQが高くて、どんな作品が人に受けて実際に売れるのかっていう、実際性を考えると、結果的に必然的にキッチュになるんですね。
で、言い方を変えると、意図的に自分でコントロールしてキッチュな作品を作ることはできるんですね、市場のニーズに合わせてね。だからその意味で言うと、実は村上隆さんももしかしたら秀才タイプなのかもしれない。村上隆さんは「僕はマーケティングで作品作ってますから」って度々言っていて、そのマーケティングというのは、実際に当たってるわけですね。だから、一方で、村上隆さんのことをあんまり引き合いに出してもあれですけども、天才タイプの作品の作り方ってのはまた全然違うわけですね。
で、天才っていうのは、少なくともその作品はキッチュにはなり得ないんですね。このチャンネルでも取り上げましたけども、その求道者っていうね、その道の探求者ですよね。言ってみれば、もしくは研究者の態度と言ってもいいかもしれないし、あとはその通俗性とかなんとかって、そういうのをぶっ飛ばして、共感性とかなんとかってのはぶちぎって、自分の芸術の、つまりアヴァンギャルドですからね。誰も表現していない表現を追求するんだというところに喜びを持つのが天才で。
で、そうするとキッチュとは対極に位置するし、歴史的な評価ですね。その人が死んで、しばらくして評価が上がってきて、歴史に名前が刻まれることがあったとしても、大抵生きている時にはお金が儲からなくて、貧乏のうちに死んでしまうというね、そういう例があるわけですね。
で、そうならないためにはやっぱりその秀才を目指すというね。高IQの人が、ま自分にIQが高くないとね、これはもうしょうがないっていう話もありますけども、でもやっぱり自分の能力ってのはもう決まってますからね。で、そうするとその能力の高い人、高IQの人がどういうふうに、何をしてるのかなっていうのを学ぶ必要があるわけですね。で、それはこういう本を見て、その高IQの人の定義ってのはこういうもんだっていうのを、見るというのもありますし、もしくは実際上ね、高IQの人がどうやってアートでお金を稼いでいるのかっていうね。
もしくは、このチャンネルでも度々批判していますけども、哲学の入門、解説書ですね。そういう人もIQが高いんですよね。だからその専門の、本当の意味でも哲学者ですね。だから、ニーチェにしろ、フッサールにしろ、ウィトゲンシュタインにしろ、彼らが天才だとすると、間違いなく天才なんだけども、そうすると一般的に言うと変人だし、ニーチェなんか梅毒で死んだりとかね、ウィトゲンシュタインもずいぶん貧乏なまま死んでるし、大体金を儲けようという意図はウィトゲンシュタインはなかったわけですね。
で、フッサールはなんかそつなく大学教授で生涯を終えたみたいですけども、いずれにしろ、私が度々批判していた竹田青嗣さんとかね、中島義道さん。中島義道さん、ちょっと性格はひねくれすぎてるから、でも一方では秀才的な能力があるので、入門書でお金を儲けることができると。だから中島先生、なんだかんだ言って、あの本読むと、けっこう大衆向きに分かりやすくサービス精神旺盛でね、みんなが何を望んでるのかよく分かって書いているんですよね。
だから私は、中島義道先生、「私は人間嫌いだ」ってね、「大衆も大嫌いだ」って言ってる割には、実はそんなことないんですね。秀才なんですよね。だから、やっぱりアートにおいても、哲学においても、何の分野もそうですけども、お金儲けのは秀才なんですね。で、秀才ってのはキッチュなんですよ。つまり、私が入門書を批判するのは、内容がキッチュだからなんですよね。大衆におもねっている内容で、それは哲学の本質から外れてるっていう、そういう批判はいくらでもできますけども、でもお金を儲けるということになると、そのキッチュな内容だからこそ、お金が儲かるわけですね。当たり前ですけどね。
で、それ以上を言うと、同義反復でトートロジーになりますけども、そういうことなんですよ。だから、改めてね、この本読んで、秀才ってのはそういうもんだっていうね。秀才ってのは、それはそれで機能しているというか、この資本主義の時代において、秀才の能力ってのは非常に威力を発揮しているとね。だから、その意味で言うと、IQが高い人が得をするようになってるってことは、橘玲さんもたびたび述べてるわけですね。
で、だから、そういう世界の中で我々はどうしましょうっていうのは、それの立場によるので、だから、こういう本が示すのは、人間の能力っていうのは遺伝子である程度決まっていると。遺伝子と環境の二つの要素の絡み合いなんですね。で、その話をまた別にしようと思うんですけども、どうしようもない部分があるのと、あとは自分の努力でどうにかできる環境を変えることができますからね。だから、環境を変えるって意味では、私としてはこういう本読んだりとかね、この本だって環境ですからね、そういうことで、そういうことまで考えましたというお話ですね。
どうもご視聴ありがとうございました。チャンネル登録是非よろしくお願いします。あと、最初にこれを言っとかなきゃいけなかったですけども、9月の22日から28日まで、水道橋JR水道橋から徒歩5分の路地と人という小さなスペースで、彦坂尚嘉先生と2人展をやりますので、どっちか在廊してるので、是非遊びに来ていただきたいと思いますということと、あとそう、本を執筆してますっていう話があって、一応一通り書き終えて、インデザインで編集して、もう入稿できるみたいなところまで来れたんですね。その校正をすれば切りがないんですけども、一応形にはできて、それで同人誌として刷ろうと思ったら、意外と安く刷れるんだけども、結局単価を上げられないので、それこそ千単位、万単位で売らないと儲けが出ないということは、例えば百部刷っても全然儲け出ないんですね。
で、そういだと辛いなと思ったんですけども、そういえばと思って、せっかく知り合いの編集者がいるんですよ、私にもね。だからその編集者に一応どうでかって送ってみたと。で、一応
読んでくれるということになって、そういうメールの返事をいただいたんですけどね。どうなるのかわかんないですけども、一方の進捗状況はそういうことですよという話でありました。以上です。どうもご視聴ありがとうございました。