アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

サイエンスフィクションと現象学

フッサールの『現象学の理念』を久々に再読したんですが、もう10年以上前に読み始めて、それで何年かかけていちおう現象学は分かったといえる地点まで来たんですけど、もちろん「分かった」といっても「分かる」ことに限界はなく、繰り返し読む価値があるんですね。


それと実はメルロ・ポンティの『知覚の現象学』も読んだのですが、メルロ・ポンティはフッサールの継者的な位置付けなんですが、私の師匠の彦坂尚嘉先生がメルロ・ポンティのことは全然評価してないのです。


それでどんなもんかと思って確認のために『知覚の現象学』の序文だけ読んだんですね。


というのもAmazonのレビューによると、この序文は「現象学とは何か?」という解説においてフッサールより分かりやすいと書いてあったのです。


それで読んでみたのですが、自分の主観としては確かに良くないんですね。


私はこれまで竹田青嗣批判を何度かしましたけども、けっきょくメルロ・ポンティも大同小異というか、そもそもフッサールの解説をすること自体が無理というか、現象学を知りたければ『現象学の理念』を読めばいいというだけの話であって、それ以上のものはないんですね。


それだけ『現象学の理念』は素晴らしく、哲書として透徹しているわけです。


それでその『現象学の理念』の第一講義の冒頭に「自然的態度の学問と哲学的態度の学問」という対比が示されていたんですが、この本は繰り返し読んだにも関わらず、今回はその対比が非常に鮮烈に思われたのです。


そしてその「自然的態度の学問」とは何かと言うと、つまりあらゆる学問がそこに含まれてるんですね。


科学であるとか、経済学であるとか、あとビジネスの領域ですね。


そういう学問はいかに精密に、理性的に、客観的に構築されていようとも、自然的態度の学問なんですね。


だからフッサール現象学は自然的態度の学問自体を否定している

わけではないと、私は解釈しているのです。


つまり、いかに現象学的に現実を捉えようとも、その現実から逃れられなという、そういう現実があるのです。


もちろんその現実も「現象」なのですが、人間というのは何らかの現実に縛られるという、そういう不条理な状況に置かれているように、現象しているわけです。


例えば人間は生きていくためにご飯食べなきゃならないし、そのために金を稼げなきゃいけないし、っていういわゆる形而下のくだらないことに縛られているわけです。


これは逃れられない現実としてあるんですけども、それ自体が現象なんですね。


でその現象としての逃れられない現実を、直接の対象にするのが自然的態度の学問なんですね。


例えばビジネスとはまず「お金」というものが自明化されており、それにおいて学問としてのビジネスが成り立っていて、そこに複雑高度な思考体系が成立するわけですが、それがまさに現象学から見た自然的態度の学問なのです。


また法律もそうですがYouTuberの失敗小僧先生も法律に関してずいぶん専門的な解説をされて非常に面白いんですけど、そうした法律の領域も自然的態度の学問なんですね。


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そこで私はサイエンスフィクションとの類似性を思い付いたのですが、われわれが生きるこの現実世界と、SFの世界ってのはどこに区別があるのか?と考えると区別がないんですね。


だからけっきょくこの現実世界の

絶対不変の物理法則であるとか、数学の法則であるとかについて、なぜそう決まってるのかは究極のところは分からないんですね。


その意味で恣意的とも言えるし、つまり根拠がなくて、もっといえば根拠そのものに根拠がない。


そういう世界に我々が放り出されているというか、そもそも何もないところから自分の存在が生まれて、そしてやがては死んでいくことが確定されていることが現象されているわけですね。


そういう不条理な中に放り出されているという、そういう現象があるわけですけども、その状況っていうのはサイエンスフィクションの世界と何が違うのか?


だから例えば『機動戦士ガンダム』の世界で言うとミノフスキー粒子というものがあったりとか、ニュータイプっていうものがあっ

たりとか、そもそも巨大ロボットが二本足で立って歩くだけならまだしも、走ったりジャンプしたり空飛んだりっていう、そういうわれわれの現実世界の物理法則からはありえないえことが起きてるわけです。


だからサイエンスフクションっていうのは実はフィクションサイエンスなんですね。


サイエンスそのものがフィクションで、物理法則そのものがフィクションであるという世界なんですね。


だから宇宙戦艦ヤマトのワープ航法であるとか波動砲であるとか、スターウォーズライトセイバーとかフォースとか、そもそも宇宙空間で爆音が鳴り響くとか、フィクションの物理法則がまかり通ってるのがサイエンスフィクションの世界ですけども、それと我々が生きている物理法則とは何が違うのかと言うと、どちらも「自然的態度の学問としてのサイエンス」であって本質的には違いがないのです。


逆に言うと、その人がどんなに荒唐無稽な世界に生きていたとしても、現象学はできるんですね。


例えば『ドラゴンボール』の世界っていうのも、人間が何の装置もつけず空を飛ぶ術を身につけていたり、気を飛ばすことでものを破壊したり、そういうすごい物理法則の世界に生きていて、非常に荒唐無稽な世界なんですけども、でもその気になれば孫悟空であってもクリリンであってもベジータであっても、その中の登場人物が現象学をやろうと思えばできるわけです。


そのように世界がどのように荒唐無稽であっても現象学は可能だし、世の中の荒唐無稽さにその意味で真面目に関わらないのが現象学的な立場であるとも言えるんですね。


だから逆に言うと、竹田青嗣であるとかメルロ・ポンティであるとか、そのほか現象学の入門書を書く哲学者というのは、自然的態度としての哲学であり、もっと言うと自然的態度としての現象学なんですね。


「自然的態度としての現象学」は言葉として矛盾しているんですけども、現に現象学入門をうたいながらその内容を見るとけっきょく自然的態度が透けて見えてしまうわけです。


もうひとつ言うと、人はなぜ哲学を理解しようとしないのに哲学に引かれるのかっていう疑問が私にはあったんですけども、それは人がなぜSFに惹かれるのかっていうことと重なるんですね。


私もSFは好きなんですけども、とはいえそれほどハードなSFマニアではないですけど、例えばガンダムで言うとスペースコロニーが建造されて宇宙移民が進んだ時代に「ミノフスキー粒子」というレーダーを無効にする技術が開発され、それにより有視界戦闘に有利な人型兵器のモビルスーツが開発されたとか、そういうもっともらしい設定が細かくされているわけです。


あるいは『進撃の巨人』だとなぜ人間が巨人になるのか?っていうメカニズムが物語が進むにつれて明らかになっていて、その設定もいろいろと凝って考えられていて、そういうことでファンが盛り上がるわけですね。


で、そうした設定の解説や謎解きのYouTubeチャンネルもいくつかありましたし、私も『進撃の巨人』の原作マンガを読みながら見てましたが、けっきょくそういう用語とか、メカニズムとか、そうしたもののカッコよさに惹かれるんですね。


そしてこれは飲茶の『最強のニーチェ入門』にも書いてありましたけども、なぜ人はニーチェ哲学に惹かれるのかっていうと「超人」であるとか「力への意思」であるとか「永遠回帰」とかそういう用語がカッコいいからっていうわけですよね。


同じようなことは斎藤環の『生き延びるためのラカン』っていうラカンの入門書にも書いてありましたけど、人がなぜラカンに惹かれるのかというと、まずラカン用語がカッコいいからだと。


想像界」「象徴界」「現実界」とか、「女は存在しない」とか、そういうのってカッコいいよね、みたいなことを斎藤環は入門書の中で書いていて、実際私の知り合いにもラカン好きのいわゆるラカニアンと言われる人たちがいますけども、みなさんフランス語をマスターして、フランス語でラカンを読まれていて、そういうところにプライドを持ってたりするんですね。


でけっきょく「衒学趣味」って言葉がありますけども、それは何かっていうとSFが好きな人と変わらないと思うんですね。


その意味でSFと学問を区別しない人がいるというか、自然的態度の学問というのは本質的にはSFと変わりがないんですね。


つまり設定が複雑で、用語がカッコよくて、そこに魅力があるという点で、SFと自然的態度の哲学は共通してるわけです。


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一方で私も現象学については繰り返し考えているんですけど、それはひとつには面白いからやってるわけですが、いやフッサールは面白いって言葉は使わないですけども、あるいは何かそうせざるを得ない事情があるのですが、その中心を考えるとひとつはキリスト教の問題なんですね。


実は先日、Facebookに「フッサールの『現象学の理念』を再読してます」っていう投稿をして、第一講義の冒頭4ページを写真に撮って添付したところ、コメントで「写真の文章を読んでも文字は追えますが内容が頭の中で認識できません」といただいて、それに対して分かりやすい説明として、「フッサールは西洋哲学だから聖書を読まなければ理解は難しいです」と返信したんですね。


ですからけっきょく哲学の問題は宗教の問題と重なるというか、むしろダイレクトに結びついている。


中でもプロテスタント創始者の一人であるジャン・カルヴァンが説く「真のへりくだり」という態度そのものが哲学に、そして現象学に直接結びついているように私には思えるのです。


つまり「真のへりくだり」という態度が「現象学的還元」ということに結びつくわけで、それは学問に対しての敬虔な態度、そして無力な自分をを直視する態度なんですね。


けっきょく人間というのは荒唐無稽な世界に生きていて、その荒唐無稽さに対し自分ができるは本当に少ないんですね。


どれだけ不条理で間違った世界であっても、例えば最近インボイス制度というよくわからない制度が始まって、私も対処しなくちゃいけないんですけど、そういうことに文句を言ったところで私にできることは何もないし、それに対していかに現象学的還元をしようと無力であって、そうした無力さを含めての「現象学」なのです。


別の言い方をすれば現実に対して自分はとことん無力で、現象学的還元ぐらいしかできることがないのです。


それぐらい自分は無力だっていうその無力感、それこそが「真のへりくだり」なのです。


で、その意味で言うとガンダムの主人公のアムロであっても、ドラゴンボールの主人公の孫悟空であっても、進撃の巨人の主人公のエレンであっても、荒唐無稽なSFの世界に生きる人物はどうあがいてもその設定に従って生きるしかなく、でも現象学的還元だけはやろうと思えばできるのです。


そして、それが現実世界を生きるわれわれにとっても唯一自分にできることであり、それが哲学の限界であり本質なのです。


そしてフッサールが述べたように、「自然的態度の学問」と「哲学的態度の学問」は分けなければならないのですが、しかしその二つあることも確かなんですよ。


だからいかに「哲学的な学問」を究めようとも、一方では「自然的態度としての学問」もやらないわけにはいかず、そういう不条理の中を生きているということが、哲学的な学問としての認識ではないかと思ったわけですね。


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実は今回の話は、メルロポンティ批判を中心にしようと思っていたのですが、けっきょくそれはYouTubeに批判的なコメントをいただいたので、それに対する反論のつもりがあったんですけど、それをしてもしょうがないなと思うわけですね。


つまり、私のYouTubeに不条理な反論が来ること自体、他ならぬ自分自身が呼び込んだことであって、そのように「現象」してるわけです。


だから無力な自分としてはそれを甘んじて受け止めなければならないし、それに対してやっきになって反論してもしょうがないわけですよ。


だからそれよりも自分が面白いと思うこと、そして意味があると思えること、そして自分自身の信仰に対して忠実に向かっていくほうがいいんですね。


ですからフッサールのお人柄で言うと非常に敬虔な信仰者でありまして、信仰心の強い人ですね、神という言葉は使っていないですけども、信仰心が深くなればなるほど近代人としては神という言葉は使わない。


私は使ってしまいますけども、今の時代はポスト近代なので「神」という言葉を口にしてもいいんじゃないのかなと思うんです。


フッサールにしてもマックス・ヴェーバーにしても「神」という言葉は使わないわけですね。


でも非常に敬虔な信仰者で、だから神に対する信仰が強くなると神

そのものが抽象化されて、そして現象学を極めていくと神という言葉が消えるんですね、という文脈で私は神という言葉をあえて使うわけです。


つまり「神」という言葉が存在するということ自体、そのように神は現象していることの現れなのです。


それを無視して哲学的な学問はできないと私は思うし、フッサールにしてもマックス・ヴェーバーにしても言葉に出さないだけでそれは無視していないと私には思えるのです。


むしろ多くの人は、ニーチェの「神は死んだ」という言葉をそのまま受け取ったりしてるのですが、それこそが「自然的態度の現象学」だと言えるのです。