アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

開放系の論理と 閉鎖系の論理

youtu.be

 

「開放系」「閉鎖系」という言葉自体、私はその昔フラクタル理論の本で学んだんですね。

 

伝統的なというか、古い時代の科学というのは実験室で行う、その意味で言うと閉鎖系の科学なんですけども、新しい時代の複雑系科学というのは実験室ではなくて、現実の世界に当てはまる科学というか、つまりけっきょく実験室内でのデータには限界があって、例えば天気予報っていうの当てるのが難しいんですよね。

 

で従来の古い物理学では実験の結果のデータが現実世界に応用できるはずだということで、あらゆる科学法則が解明できれば、天気予報も確実にできるようになる、と信じられていたんですけども、実際には現実というのは非常に複雑で、天気予報っていうのはそうそう当たるもんじゃないと。

 

それはなぜかっていうと、世界というのは実験室のような閉鎖系ではなくて開放系だからだと。

 

そういう開放系ということを前提に科学を打ち立てようというのが複雑系科学であり、その一つがフラクタル理論なんですね。

 

一つ有名なのが「バタフライ効果」というのがあって、チョウがパタパタと羽ばたくと、その風がその回り回って嵐を巻き起こす。

 

つまり文字通り「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいなもので、実験室と

は違った開放系っていうのは何が起こるかわからないと。

 

現実っていうのは様々な要素が不確定に積み重なっているんだということが、開放系の閉鎖系の話なんですけども、そういうことは論理にもあるんじゃないのかなと。

 

それは一つはフロイトなんですね。フロイトはずいぶんいろいろと読みましたけども、けっこう間違いが多いんですね。

 

しかもかなり壮大な間違いを犯すわけですよ。

 

その筆頭が私もたびたび取り上げているダニエル・パウルシュレーバーという人ですね。

 

この人は19世紀の末頃に気が狂ってしまった人で、しかもパラノイア=偏執狂なんですね。

 

他人の話を全然聞かなくて、自分の妄想に固執する人なので、精神分析っていうのはカウンセリングが基本なので、フロイト先生もシュレーバーさんを治すことができないと匙を投げたんですけども。

 

でもシュレーバーさんは自分の妄想の世界を分厚い「手記」にしたためて出版してるんですね。  

 

だからそのシュレーバーさんの『ある神経病者の手記』というタイトル

の本ですけども、それを分析して

シュレーバーさんは実はこういう理由で精神を病んでしまったということをズバリ言い当てた『シュレーバー症例論』っていう論文があって、それも私は読んだんですけども。

 

シュレーバーさんの手記も読んだんですけどね、まさに頭がおかしくなるようなスゴい文章ですけど、両方読んだんですけども、けっきょくフロイトの分析したところによると、シュレーバーさんは潜在的に同性愛の性癖があって、しかしそれを無理に抑圧したせいで様々な妄想を見る

ようになったという風にして分析していて、それはそれで非常に見事なもののように思われたんですけども。

 

その後の時代にモートン・シャッツマンっていう人によってフロイトの誤りが正されたわけですね。

 

モートン・シャッツマンの『魂の殺害者』っていう本ですね、それによるとまずフロイトシュレーバーさんの手記ですね、本を分析にの対象にしたと、その方法論自体は正しいんですけども、そのフロイトが大きく見落としていたことが一つあって、実はシュレーバーさんのお父さんも本を出してたんですね。

 

しかもシュレーバーさんのお父さんはその当時のドイツでも立派な教育者として名を馳せた人で、子供の教育法についての本も何冊か出しているというね、当時としても社会的地位があった偉い先生であったんですけども、その先生の本を読むと、シュレーバーさんのお父さんですね、そっちの方の本を読んでみると異常に子供を厳しく躾けて、まさに拷問ですね。

 

もう虐待を超えて拷問じゃないかっていうようなひどいことがいろいろ書いてあるわけなんですよね。

 

で、例えば子供が姿勢を曲げないように勉強する時に…私も子供のころ背中が丸まってるって怒られましたけども…姿勢を正すための様々な器具ですね、そういうそのまさに

巨人の星』の大リーグボール強制ギブスみたいなものをはめて、子供の自由をがんじがらみに縛るというね、そういう非常にその奇妙な器具に奇妙な躾ですね、それも異様な信念のもとに異常な教育が行われるわけですね。

 

その結果、シュレーバーさんはおかしくなってしまったという風にして、結論付けてるわけなんですよね。

 

結論付けてるって言うか、まぁ本当の本当のこと言うと本当にはわかんないんだけども、フロイトの説よりもモートン・シャツマンさんの分析の方がかなり信憑性があるわけですね。

 

なぜかって言うと、つまりフロイトはお父さんのモーリッツ・シュレーバーですね、その著作っていうのはフロイトが生きていた当時でも普通の本屋さんで普通に売られてた本だって言うんですよね。

 

だからその気になれば息子が本を書いてるけど、お父さんも本を書いてるじゃないかと、両方見比べてみようっていう発想があってしかるべきなのに、なぜかお父さんの本をズッポリ見落としていたわけですね。

 

それで同性愛の嗜好を抑圧しているという風にして結論を出してしまったんですけども。

 

確かにシュレーバーさんの手記を見ると、シュレーバーさん自身は自分が女性化してしまうという、そういう恐怖におののいているわけですよ。

 

自分のおっぱいが膨らんできたとかね、おちんちんも引っ込んだとかね、そういう妄想に取り憑かれているわけですね。

 

それは奇妙な妄想の本当にごく一部

ですけども、そういうところを取り出して「同性愛への恐怖」というのをフロイトは述べましたけども。

 

でも、そもそもなぜシュレーバーさんが「女性化」という妄想に取り憑かれたのかというと、実はお父さんの躾が厳しくて、ある意味ではお父さんが自分に女性化を強いてるわけですね、父親に対し従順であれということでね。

 

だからそういうことがいろいろ重なって、妄想になってしまったと。

 

でさらにですよ、それは実はシュレーバーさんのお父さんと息子の間だけではなくて、19世紀のヨーロッパっていうのは産業革命があって、フランス革命になって、そうやって世の中の転換期なので、古い価値観と新しい価値観が入れ替わりの、そういう激動の時期で、価値観も混乱してるんですね。

 

古い価値観と新しい価値観が混在して混乱しているわけですよ。

 

そうすると一方で、自由な時代が来たっていう反面、古いキリスト教の倫理観っていうのは根強く生きていて、父親の絶対性、父権、それと性に対する異様な抑圧ですね、そういうものが暴走していって、人々をそれこそ無意識のうちに縛っているわけですね。

 

で、そういうところでシュレーバーさんのお父さんの過激な躾ですね、拷問にまで及ぶような過剰な躾と、その犠牲者としての息子というものが生まれるんですけども。

 

それっていうのはどこの家庭でも実は大なり小なりそういうことあって、フロイトも実は例外ではなかったんですね。

 

だからけっきょくは認知バイアス、偏見ですね、その時代に特有の偏見というもの、認知バイアスっていうのに、どうしても人間は囚われてしまうわけなんですよ。

 

だからフロイト自身は人間が無意識に抑圧してるものを明らかにしようとしていた一方で、自分自身が囚われている無意識の抑圧を分析しきれなかったところがあるわけですね。

 

あまりにも当たり前に自明化されていたので見抜くことができなかったと。

 

だからフロイドの間違いで言うと、フロイトは何でもセックスのせいにしようとしたという批判があるわけですよね。

 

それと有名な「エディプスコンプレックス」というのがあるわけですよ。

 

エディプスコンプレックスというのはギリシャ悲劇ですね、その物語に由来するんですけども、『オイデプス王』の物語は私も読んだですけどもソポクレスですね、現代にも通用するぐらいによくできた物語で、非常に複雑で私は感心してしまったんですけども、文学としても完成度が高いんですね。

 

概要を言うとオイデプスという若者がいて、その父親が王様だったんですけども、オイデプスが産まれた時に占い師から「あなたはこの子供に殺される」と予言され、それで殺してしまえと部下に命じたんだけども、部下は子供を殺すのが忍びないので荒野に置いて帰ってしまったと。

 

それが誰かに拾われて大人になって、そして道端で誤って父親を殺してしまうんですね。

 

自分の父親と知らずに剣で戦って父親を殺してしまうと。

 

そして自分の母親と恋仲になって、結婚してしまうと、そういう物語なんですけども。

 

だから人間の子供というのは、特に男の子というのは、まず生まれた赤ちゃんというのは、お母さんのおっぱい吸って、母親と親密な関係になるんですけども、そこに敵としての父親が登場すると、そういう抑圧がその赤ちゃんの頃に、人間には普遍的にあるんだと、それをエディプスコンプレックスという風にして述べたんですけども。

 

でも自分で思い返しても、そんな母親に対する親密性と、父親に対する敵対心とか憎しみとか、そういうのあったかな?って思うし、普通に知り合いに聞いてもそんな話は聞いたことがないんですね。何なんだろう?っていう風にしてずっと思っていたんですけども。

 

でも、それは何てことはないんですね。つまりフロイト自身がその当時のヨーロッパ全体にのしかかるキリスト教的な性の抑圧の習慣ですね、それと父権性の強さの抑圧ですね、そういう無意識の抑圧を自覚しきれなかったわけなんです。

 

確かに19世紀のヨーロッパにはエディプスコンプレックス的な風潮があったのかもしれないんですけども、でもそれは決して人類にとって普遍的な抑圧ではなくて、ヨーロッパの19世紀末というその地域の時代的な例外に過ぎなかったということなんですよ。

 

で、そういう感じでフロイトという人は様々な間違いをするんですけども、だからフロイトに対しては様々な批判が当然あるんですけども、でも僕はそれでいいと思ったんですね。

 

つまり一方でフロイトの弟子のジャック・ラカンフロイトの無謬性を訴えたんですね。フロイトは間違っていなくて全部受け入れるべきだと。フロイトのここは正しくてここは間違ってるっていう切り分けをするものが間違いだ。フロイトは全部受け入れなければならない。っていう風にしてフロイトの無謬性を説いていたんですけども、それも明らかな間違いをフロイトが犯している限りにおいても変なんですけども、でもそうじゃないんですね。

 

ラカンの本当に言わんとしてることが自分なりに分かったというかね。

 

つまりフロイトがいかに間違えていようともその方法論においては正しいんですね。

 

つまりフロイト精神分析という方法自体が常に正しいんですよ。

 

その証拠に例えばモートン・シャッツマンはフロイトの間違いを明らかにしましたけども、モートン・シャツマンが使った手法というのはまさにフロイト精神分析の手法なんですよね。

 

その意味でフロイトがいかに間違えようともフロイトは正しいんですね。

 

フロイトが正しいからモートン・シャツマンがフロイトの間違いを指摘することができたんですね。

 

何を言いたいかっていうと、つまりフロイトはなぜ間違ったのか?と。

 

そしてなぜその間違いそのものが本質的な問題にならないのか?というとフロイトの論理というのは実は「開放系」なんですよね。

 

同じようにそのフロイトと同時代の人ですけどニーチェですね。

 

ニーチェも私入れ込みましたけども、厳密に言うと様々な間違いを述べているし、もっと言うと自分が体験もしていないことについてさも見てきたように語るんですね。

 

僕が鮮烈だと思ったのはニーチェが文明の発祥について語った箇所があって、つまり雷のようなすごい部族が突然原始人の目の前に現れて、文明のしきたりのあれやこれやを強制したと、暴力的に強制したと、そういうことを述べてるんですけども。

 

700万年と言われている間ずっと原始時代でのほほんと暮らしていたところ、のほほんっていうか自然の厳しさに耐えながら細々と生きていたところ、全く違う「文明」っていうシステムが突然現れたわけですからね。

 

で、突然現れたっていうのは、突然もたらした集団がいて、その人たちがもうその鬼のような形相で雷のような勢いで原始人たちに強制してね、文明を叩き込んだんだって、そういうことを言うんですけど、それってのは所詮あなたの感想ですよね、っていうか妄想にすぎないんですね。

 

とにかく直接見て確認したわけではないですからね。だからといってニーチェが言うことが「お前適当なこと言ってるだろう」ということではなくて、ある点での真実性があるというかね。

 

だからその意味でニーチェが言ってることが間違いだろうが何だろうが関係ないというかね、それこそが開放系なんですよ論理が。

 

もう一つ、カール・ホパーという物理学者が「反証可能性」ということを説いたんですね

 

で私はホパーは直接は読んでないんですけども、現代思想の入門書にはよく出てるんですよ、カール・ホパーの反証可能性が。

 

だから「その論理は間違ってるじゃないか」っていう風にして反証の余地がないような論理は怪しいという風にしてカール・ホパーは言ってるんですけども、その意味っていうのは今だとわかるわけですね。

 

つまり反証可能な理論っていうのは論理として開いてるんですね。開放系なんですね。そういうことなんじゃないのかなと思うわけですよ。

 

だから僕自身はこの一連のYouTubeチャンネルでは口から出まかせで適当なことを言って、で間違えたってあんまり基本的に間違いだろうが何だろうが気にしないで喋ってるんですね。

 

でそれは私自身は開放系で喋っているつもりなんですよ。

 

一方で私はそれ以前は閉鎖系で、閉鎖系の論理で考えようとしたんですね。

 

むしろ閉鎖系で論理を完成させようとしたんですね。

 

だから僕自身はアーティストとして「フォトモ」という写真を切り貼りして立体にした作品でデビューしてくるんですけども、そこに論理的な裏付けというものを構築しようとして、で赤瀬川原平さんの超芸術トマソンとかね、あとマルセル・デュシャンレディメイドとかね、そういうものの論理を自分なりに発展させて、あと構造主義の入門書とかね、いろいろ読んで。

 

でそうやって「非人称芸術」という論理を構築しようとしたんですけども、結局ある時から自分の言うこと書くことが同じになっちゃって、発展性がなくなっちゃって。

 

で、自分の作品集に文章を添えたりとかね、雑誌に原稿を書いたりとか、講演会やったりする時に、ある時期からなんか前と同じ話になっちゃうなっていうね。

 

ある程度はそれなりに新しい論理展開をしたんですけども、その「非人称芸術」という論理そのものが完成しちゃうとそれ以上発展性がなくなっちゃって、それはおかしいなっていうふうにして私は思ったんですね。

 

で、そこから入門書ではなくて、翻訳でいわゆる哲学書ですね。ニーチェならニーチェが、フッサールならフッサールが書いた哲学書を読むようになって、そこからまたずいぶん変わったんですけども。

 

だから入門書っていうのは人に分かるように書いてあるわけですね。

 

哲学の入門書っていうのはニーチェなり、フッサールなり、誰にでもわかるように噛み砕いて書いてあるんですけども、つまり誰でも分かるようにって事は論理として閉じてるから誰にでもわかるんですね。

 

そういうことで「閉鎖系」なんですけども、いわゆる本当の哲学書を読んでみるとまず全部を理解し切ることはできないわけですね。

 

私だってもちろんそうなんですよ。

 

いくらニーチェに入れ込んだって、ニーチェの全てがわかるわけではないし、それは自分なりに理解するしかないんですね。

 

哲学っていうのは各自が自分の生き方に合わせて、自分なりに理解するしかないわけですよね。

 

だからたびたびこれも言ってますけど、ニーチェの哲学を100%理解するにはニーチェにならなければならないわけですよ。

 

先ほども述べたようにニーチェというのはあくまでも19世紀のヨーロッパというね、性に関する非常に厳しい禁止事項があって、父親の強権があって、そういう重圧の中で思考したのがニーチェなわけですね。

 

でも僕ら今の日本人っていうのは然状況が違うし、僕は僕ですね、自分の悩みの中でいろいろ生きてて、その中でニーチェを読むわけですね。

 

で、その僕が読んだニーチェというのは、ニーチェ本人の哲学とは同じにはなり得ないけども、でもニーチェの言葉からやっぱり自分なりの哲学的認識というのを引き出すとか、打ち立てるとか、そういう風になるわけなんですけども。

 

そういう意味で言うと、ニーチェのすべては理解し尽くすことができないし、私は私でいろんな本読んでいろんな経験する中で、自由連想的に今回も勝手なことくっちゃべってますけども。

 

それこそがだから開放系なんですね。開放系の論理なんですよ。

 

だからこのチャンネルの動画は開放系で喋ってるんですけども、一方で先ほども述べたように私はブログのnote書き始めていて、そっちは実は閉鎖系でやろうとしてんですね。

 

閉鎖系で書かないと、本として出版することはできないだろう、という風にして思ったわけですね。

 

だからやっぱり初心者向けにわかりやすく語るというのは閉鎖系でなければならないし、僕にとって閉鎖系で語るっていうのはやっぱりしゃべりじゃ無理なんですね。

 

しゃべりだと先ほどの動画でも言いましたけども、自由連想でどんどん滑っていって開いていってしまうので、書くとなるときちっと落ち着いてきちっと閉じると、わかりやすく閉じるように書くということなんですよ。

 

もう一つ言うと、そういう意味でいうと開放系と閉鎖系っていうのはどっちが優れてるとか関係がないですね。

 

違いがあるんですね、そういう二つの違いがあるということなわけですよ。

 

そしてかつての私もそうですけど、多くのアーティストっていうのは、今の現代のアーティストというのはやっぱり閉鎖系の理論を立てようとするんですよね。

 

それが「自分らしさ」っていうことになるんですけども、だから今の現代アートのあり方の一つは「自由」ということ「自分らしさ」ということなんですけども。

 

やっぱり僕自身はいちおう美術史の文脈で作品を作ろうとしていて、こうやってしゃべりながら歩いて今回また変な映像を付けてみるんですけども。

 

一方で多くの人っていうのは「自分史」として作品を作っているというように思うわけですね。

 

だからかつての私が「非人称芸術」っていうコンセプトでフォトモを作っていたというのも、実質的には「自分史」になってたんですね。

 

だから閉じた論理になっているんですけども、そういう意味で言うと「閉じる」というのは悪いことじゃなくて、現代のアーティストの多くは「自分らしさ」を辻褄の合った「閉じた理論」で表現していて、それが社会的に受け入れられて主流になっていると、そういうことなんですね。