アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

2014-04-01から1ヶ月間の記事一覧

無教養主義のすすめ

教養主義と無教養主義。教養主義者は教養を得ることで自由を得ようとし、無教養主義者は無教養であることが自由であると信じている。 現代日本は無教養主義芸術の時代である。無教養主義による無教養主義芸術の時代でもある。 マルセル・デュシャンは「“画家…

環境と自分

さっき、近所にキジがいるのを見つけて嬉しくなったのだが、分析すると、自分の外部の客観的存在として記事を見つけて嬉しくなったのではなく、自分の知覚世界の内部に、自分のものとしてキジが生じたことが嬉しいのである。 環境は自分とは別物として存在す…

自由と正気

自然な物事の見え方は、実は偏見に過ぎず、これに目を眩まさると精神が不自由になる。 自然で素朴な認識は、人を絶対的不自由に縛り付ける。 自分ももちろん、そのような絶対的不自由に縛られている。 そしてこれに気づかない限り、本人は何ものにも縛られず…

現象学と経験科学

人はみな、自分が自分である証拠を集めている。 そして、自分が自分である証拠を失えば、自分を失い不安になる。 例えば自分が自分である証拠の一つを「住んでいる土地」に見出す人にとって、土地を失うことは自分を失うに等しく、だからいくら土地が汚染さ…

存在と証拠

「現実が存在する証拠」が不足し、現実を完全に取り逃がすと、人はそこで死ぬ。 目が見えなくなると、人はその分だけ「現実が存在する証拠」を失うが、目の代わりに耳や鼻や手触りなどを使って、別の証拠を集めることもできる。 「寒い」と感じることは、「…

自己保身と自己犠牲

「貧すれば鈍する」からこそ「痩せ我慢」が意味を持つ。 貧して鈍するのは「文明性」であり、貧するごとに人は「自然性」に還る。 自分の身を守るのが「自然性」だとすれば、その反対の「文明性」とは自分の身を呈することにある。 自己保身は生物に共通の自…

歪んだ鏡と平面鏡

世の中には、本当に偉い人と、偉そうにしてる人の二種類がいて、その区別はなかなか難しい。 本当に偉い人は偉そうにしている人を見分けるので、偉そうにしてる人は本当に偉い人を嫌う。 世の中を渡ってゆく上で「性格の悪さ」は問題にならない。 実のところ…

証拠と犯人

素朴で自然的認識には魅力があり、そこから目を逸らすことは非常に困難である。 現象を現象として捉える視点が本質諦観。 人間の視界は、光学的スクリーンと、心理的スクリーンの、二つのスクリーンが重なっている。 我々はいつでも「証拠」と「犯人」を取り…

構造と反復

人は目覚めている間もずっと夢を見ていて、その夢から逃れることは出来ず、目覚めることはない。 即ち、人は夢の中で傷付けば現実に傷つき、夢の中で失敗すれば現実に失敗し、夢の中で死ねば現実に死ぬのである。 夢の中にしか生きえない人にとって「夢でし…

現象学の練習

現象学的な「構」を首尾一貫して純粋に守ること、 自然的な「構」のうちで生活し、考え、心理的なものを自然主義的に変造してゆくという、自然発生的な習慣を克服するのは、生易しいことではない。(フッサール:厳密な学としての哲学) 世界は存在しているの…

頭の固い人

他人から「糸崎さんは頭が柔らかいですね」などと言われることがある。 しかし実のところぼくは非常に固い人間で、とても柔軟性があるとは言えない。 その証拠に、ぼくは他人の考えを理解したり取り入れたり受け入れたりできず、結果として自分のやり方に凝…

文明と背理

感情移入と認識。 時間の流れ。諦観と経験。 油断すると、文明人の精神はすぐに自然化し、文明人しての理に背く。 背理となる自然化を許さないこと。 自分の精神の自然性の発露とその動きを、事あるごとにチェックしモニターし続けること。

万能感の克服

万能感は素朴で自然な感情で、その意味では誰にでもある。 万能感を克服するには、自分の万能感を注意深く観察する必要がある。 観察とは他人との比較で、他人を見て自らを反省する視点であり、反省により自分の万能感を対象化する第三者の視点が生じる。

回想と反復

現象は常に、さも現実であるかのように自動翻訳される。 人間の現象は歴史の産物でもある。 なぜなら、言語が歴史の産物であり、固有の歴史を持っているからである。 美術作品とは現象であり、しかも二重の現象である。 美術作品は第一に現象として製作され…

鏡のアフォーダンス

私は「物」を見ているのであり、写真には「物」が写っている。 「物」を見ることと、「写真に写る物」を見ることの違い。 「目に映る物」を見ることと、「写真に写る物」を見ることとの違い。 「目に映る物」を見ることと、「目に映る写真に写る物」を見るこ…

現実と現象

現実と思えるものは、ことごとく夢幻(ゆめまぼろし)に過ぎない。 夢幻だからこそ、現実と思えるものには確かなリアリティが感じられる。 夢はリアルだからこそ夢であり、例えば「泥棒して捕まれば刑務所に入れられる」ということのリアリティも、夢幻の中…

反省とブリコラージュ

経験的分析と、現象学的本質分析。 経験的に得られた確信は、砂上の楼閣に過ぎない。 経験は、何かを建てる土台としては砂漠に等しい。 多くの人は砂漠の上に自らの塔を建てる。 通俗の曖昧で全く混沌とした意味ー我々はそれをどうして得たか知らないがこれ…

日本人と文明

●子供の頃から自分は他人より劣っていると思い続けて来たが、実のところ日本人そのものが劣っていたのだ、と言うことが3.11以降明らかになった。 いや、そもそも人間そのものが愚かなのだが、日本人には固有の愚かさがあり、自分もそれに巻き込まれていた、…

鑑賞と参照

意識の外部に出なければ、意識全体を研究することは出来ない。 人は普通、自分の意識のごく一部だけを認識し、その他の「認識できない意識」に操られる。 心理学=自然科学は経験的意識を取り扱い、現象学は純粋意識を取り扱う。 新しい曖昧さ。 自明なものは…