アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

現実と現象

現実と思えるものは、ことごとく夢幻(ゆめまぼろし)に過ぎない。 

夢幻だからこそ、現実と思えるものには確かなリアリティが感じられる。

夢はリアルだからこそ夢であり、例えば「泥棒して捕まれば刑務所に入れられる」ということのリアリティも、夢幻の中での出来事だからこそ感じられるのだ。 

 

現実を見ているのでは無く、知覚世界に起きる現象を見ているのである。 

 

現実そのものを見たり、現実そのものに触れたりすることはできない。 

われわれは現実を見たり現実に触れたりしているつもりで、その実、現実に触発された現象を知覚しているに過ぎない。 

夢が現実に触発された現象であるのと変わりはない。 

 

夢も、現実と思えるものも、現実に触発され発生する現象であることに変わりはない。

現実は現象の原因であり、現象は現実そのものではあり得ず、現象は現実と必ず異なっている。 

 

夢を見ているだけで済まされないのは、夢は現実の影響を受けるのであり、その意味で、たとえ夢の中にあっても現実の存在を無視しないわけにはいかないのである。 

 

現象を現実と錯覚する態度が「素朴」と言われる。 

 

文化が死滅し人は素朴に還る。

 

人は現実に対しリアリティを持つのでは無く、現実の触発により発生した現象に対しリアリティを持つ。 

 

生命とは生命現象であり、現実とは生前と死後の世界なのである。

生きているうちは現象だけが見えて、死ねば現実に還る。

 

人生が夢幻なら、死ねば現実に目が開かれる。 

ということは、赤ん坊は現実を見て泣き叫び、ほどなくして夢の世界へと堕ちて行く…? 

 

知覚世界の全てが無根拠の夢幻ではない。 

現象にはそれが触発されるところの原因があり、その根拠が現実なのである。 

例えば、前方に見える木に向かって歩けばやがてぶつかり、その木が現実に存在することは確認できる。

だがその木は少なくとも「目に見えるように」は存在しないのだ。