アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

子供の哲学・フッサールの存在を信じて疑わない現象学・竹田青嗣『新・哲学入門』

最近、また哲学の入門書の研究をしようと思って、竹田青嗣先生の『新・哲学入門』(講談社現代新書)という本の、冒頭の第1章だけ読んでみたんですけども、私が考える哲学というものとずいぶん違うんですね。

 

 

まあ違うだろうということは分かっていたんですけどもで、何が違うのかって考えた時に、言ってみれば「子供の哲学」だというふうにして思ったんですね。

 

私は以前から述べていましたけど、哲学とは何かっていう一つは「過剰に大人になっていく行為」だと、そういう営みだと言えるんじゃないのかなと思うんですね。

 

だから人は子供から大人に成長していくんですけども、普通の大人よりもさらに大人になっていくというね、それが哲学じゃないかなと。

 

だからニーチェが著作の中で主張していたことの一つはそういうことで、それが一つ「超人」という言葉にも現れているんじゃないのかなと。

 

「超人」というね、人を超えてさらに人になっていくというのは、大人を越えた大人を指すわけですね。

 

いっぽうで「半人前」っていう言葉がありますけども、子供は完全な人間とは認められないわけです。

 

もちろん子供にも人格や人権が認められていますが、子供はあくまで成長過程の半人前で、やがて完全体の人間である大人へと成長するのです。

 

でもその大人を越えてさらに大人になることを目指すのが、哲学的営みなわけです。

 

 

だから一方で今、チャールズ・サンダース・パースの『連続性の哲学』(岩波文庫)を読んでいるのですが、この人はアメリカのプラグマティズム創始者の一人ですけども、哲学の動機というのは今の自分に不満があるんだと、自分は何も知らないんだっていうね、そういう不満から哲学は生まれると述べているのです。

 

自分はまだまだ子供なんだと、普通の大人を超えてもっと大人にならなければならないと、そういう動機ですね。それがないと。哲学は成し得ないと。それが私が認識しているところの「哲学とは何か」ということなんですけども。

 

一方で竹田青嗣さんの哲学というのは、これは竹田青嗣さんだけではなく内田樹さんもそうでしたけど、入門書を書く哲学者というのはまず、著書の中で入門書の優位性を述べるんですね。

 

 

 

これは内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)の冒頭に書いてありましたけども、哲学には専門書と入門書があるんだと。

 

で、専門書っていうのは結局は内輪話みたいな、重箱の隅をつつくような小難しいことが書いてあって面白くないと。

 

それよりも入門書の方が面白いと。入門書というのは人々が誰でも持ってるような、素朴な疑問に率直に切り込んで考えていくものだと。だから哲学の本質は入門書にあらわれるのだと。そのようなことを内田樹さんは述べているのです。

 

一方で、竹田青嗣さんも『新哲学入門』で、冒頭に「マニフェスト」という形で「哲学はこうあらねばならない」という宣言をされてるんですけども、その中で「哲学というのは誰にでも了解可能な世界説明でなければならない」と、そういうものを目指すのが哲学だと述べてるんですね。

 

つまり「誰でも」ってことで言うと「人間を区別しない」んですね。そこに私は引っかかったんですよ。

 

で、その意味で言うと、ニーチェにしてもフッサールにしてもパースにしても、人間を区別してるんですね、大人と子供に区別してるんですよ。

 

だから人間は大人から子供から大人になって、である時点で大人になるともうそれ以上、大人になる必要はないだろうって、そこで成長を止めちゃう人が大半なわけですね。

 

もちろんそれは全然悪いことではないんですよ。最低限の社会生活が営めて、常識人として、結婚して家族を養って幸せに暮らしていけばいいわけですよね。

 

それを超えて大人になる必要はないんですけども。

 

でもその人間というのはどこまでも高みを目指すことができると。

 

高みを目指そうと思ったらどこまでも高みを目指すことができるっていうのは、大人になろうと思ったらどこまでも大人になれるっていうね、そういうことに気づいちゃった人がやはり哲学にハマっていくと。

 

ニーチェが示したのはそういうことなんですね。

 

そうすると内田樹さんにしろ竹田青嗣さんにしろ、そういう気概はないというかね、そういう動機に基づいて哲学があるわけではないんですね。

 

だから、これはその意味で言うと「子供の哲学」なんじゃないのかなと思ったんですよ。

 

じゃあその大人と子供の違いって何なのかって思った時に、そのまあ一つは「想像界」という言い方ができるんですね。

 

ジャック・ラカンが人間の精神構造を「象徴界」「想像界」「現実界」というふうにして分けましたけども、それはいろんな解釈があるんですけども、子供ってのはつまり、「想像界」だけなんですね。

 

想像界」だけで「象徴界」というものがあんまよく理解できないと、そういう意味で言うと「象徴界」っていうのは大人の領域だし、哲学的な領域だと言っていいんですけども。

 

で、その「想像界」って何かっていうと、つまりはイメージの世界ですからね。

 

だから端的に言うと、子供っていうのは特に小学校に上がる前の幼児なんかは、サンタクロースが本当にいると思ってしまってるわけですね。

 

あとテレビで仮面ライダー出てくれば仮面ライダーが本当にいると思うわけですね。

 

現実と想像の世界の区別がつかないわけですよね。でもまあ、小学校に上がる頃になると、さすがにサンタクロースはいないだろうとね。

 

お父さんとお母さんがプレゼントを枕元に置いてってくれる事に気付いて、むしろお父さんお母さんに感謝しましょう、という話になるわけです。

 

それで言うと竹田青嗣さんは、僕もそんなに熱心な読書者ではないので入門書を何冊か読んだだけですけども、今回の『新哲学入門』を読む限り、竹田青嗣さんはフッサールニーチェを高く評価されていて、冒頭からこのふたりの話が出てくるんですけども、つまり、竹田青嗣さんは「フッサールが本当に存在する」と思ってるんですね。

 

ニーチェも本当に存在する」と思ってるんですよね。

 

これはおかしなことを言ってるように思えますけども、確かに、ニーチェフッサールも歴史上の人物であって、現に著作もあるわけです。

 

だから架空の存在であるサンタクロースや仮面ライダーとは違うんですけども、でも現象学的に言うとフッサールは存在しないんですね。

 

フッサール現象学という哲学を確立しましたけども、現実にはフッサールは存在しないんですよ。現象学的に考えるとね。

 

もっと言えば、現象学も存在しないんですね。

 

で、同じ意味でニーチェも存在しないんですよ。

 

ところが、竹田青嗣さんの本によると、あたかもニーチェが存在して、フッサールも存在しているように書かれているんですね。

 

現象学もあたかも現象学っていう学問が存在するかのように書かれているわけですよね。

 

それはおかしいじゃないかってね、仮にも現象学者なんだから、現象学の立場に立つんだったら、フッサールの存在とか、現象学の存在というものを前提にするっていうのは全然おかしいというかね。

 

つまりフッサールであれ、現象学であれ、そういう存在をね、サンタクロースみたいに、サンタクロースが存在するのと同じように信じてるような子供の段階を出してね、もっと大人にならなきゃダメだということで、現象学があるわけなんですよね。

 

もっと言うとですね、竹田青嗣先生は「哲学と何か」というマニフェストの中で、「哲学というものは、人間の幸せのために寄与しなければならない」ということをおっしゃっています。

 

竹田青嗣先生によると人間というのは歴史上「普遍戦争」という、普遍的に戦争を起こして、そのたびに人々が不幸な目にあって、とにかく戦争してる間は文化的な生活が送れないわけです。

 

だからその普遍戦争をいかに終わらせるのかが肝心であって、その普遍戦争がない世界というのは徐々にだけど実現されてきてはいて、そのために哲学は少なからず役に立ってきている、という話をされているのです。

 

その一方で、今読んでいるチャールズ・サンダース・パースによると、まず哲学を何かの役に立てるという考え自体が間違いなんだときっぱり述べてるわけですね。

 

つまり、哲学っていうのは哲学そのものを目的にすべきなんですね。

 

哲学自体が目的なんですよ。だから、哲学には自律した価値があって、自律した目的があるんですね。

 

だから何かのためにって言うと、哲学の本質が歪められてしまうというふうに述べていて、それはまあそうだろうなと思うわけですね。

 

だから哲学を人類の平和のために役立てるというのはその意味で言うとおかしいわけですね。

 

だから哲学の入門書っていうのはその意味で2つのパターンに分けられるなと思ったわけですけども。

 

つまり人類全体の役に立てるのか、それとも個人救済ですね。だから、飲茶の『最強のニーチェ入門』というのは個人救済の教えなんですね。

 

だからその自分らしくあろうとね他人に流されないで自分らしくなろうと自分らしく自分らしさを保つんだっていうそういうその勇気を与えてくれるのがニーチェだっていうのが飲茶の『最強のニーチェ入門』ですけども。

 

飲茶先生は自身が重度の吃音症だというその体験から、そういうことを述べておられるわけですけども、それ自体が哲学を実用に供しているのであって、哲学の本質を歪めてしまうわけですね。

 

だから僕から見ると確かにその飲茶の『最強のニーチェ入門』というのはニーチェを随分歪めてるなと思うし、同じようにその竹田誠二先生のフッサールもずいぶん歪められているわけですね。

 

なぜかというと、竹田青嗣先生は本当に実在すると素朴に家宅信じているし、なおかつですよ、人類の平和を願っているわけですからね。

 

そうするともしかして竹田誠一先生は「人類が本当に存在する」と思っていらっしゃるんですか?って言えちゃうわけですね。

 

なおかつですよ、竹田青嗣先生はひょっとして自分のことを「人間」だと思ってませんか?っていうことなんですね。

 

つまりこれはごっこ遊びの世界なんですね。私も子供の頃は仮面ライダーごっことかウルトラマンごっことか、自分がウルトラマンになったつもりでやってたわけですよね。

 

でもいちおう小学生でしたからね。ウルトラマンのお面を取れば素の自分に戻るっていうね、そういう感覚ありましたけど。

 

でも、竹田青嗣先生は自分がウルトラマンにならぬ「人間」だと思っちゃってるわけですね。

 

だから現象学的に言うと、まず人間が存在しないんですね。そういうことなんですよ。

 

で、だから素朴に人間の存在を信じていて、それはフッサールが『現象学の理念』の冒頭で批判したことですね。

 

つまり人っていうのは自然な感覚、素朴な感覚にいるのだと。

 

哲学的認識というのは素朴な感覚、自然な感覚を否定しなければならないと言ってるわけですよね。素朴に自分は人間だと信じているというね、それは少なくとも全く現象学的ではないわけですね。

 

だから人間なんて存在しないんだっていうね、それもおかしなことというかね、まあいるといないで言うとそのそれは二項対立ですからね、同じ軸なんですね。

 

だから現象学的還元をしなきゃいけないんですけど、現象学的還元を竹田先生はしてらっしゃるんですか?っていうことなんですね。

 

だからその竹田青嗣先生が自分を人間だと思っていると、自分は人間だと錯覚しているということは、つまりそれが「哲学は誰にでも了解可能な世界説明でなければならない」という言い方に現れてるんですね。



「誰でも」っていうことなんですね、人間誰でも同じっていうね。

 

だから「人間」という言葉で指し示しめられる何か均質なもの、同一なものが存在すると素朴に信じているし、自分が何か言葉を発したらその言葉を誰にでも了解してもらえるような、そういう性質の人間の実在を素朴に信じてらっしゃるわけですね。

 

で、だからその根本は何かっていうと、そもそも自分自身の存在を疑ってないし、自分自身が人間であるということを疑っていないし、そういう意味で全くの「子供」なんですね。哲学的な大人になっていないわけですよ。

 

だからこそ、子供向けの哲学の入門書として成立するわけですが、逆に言えばちゃんとした大人の哲学にはなりえないわけです。



今回は私もひどいことを言ってるなと思うんですけども、それはなにも竹田青嗣さんだけが人間じゃなくて、他の人はみんな人間だとかそんなことを言ってるわけじゃなくて、私だって人間のはずないですからね。そういうことなんですよ。

 

だいたいその。だからそのまずその、哲学っていうのだからそれ竹田青嗣さんが自分でお書きになってるわけですね。つまり欠落っていうのは全てを疑うところから出発しなければならないとね、そういうふうに書いていらっしゃるわけですよ。

 

そうするとその全てっていうことですからね、じゃあそうすると自分の一番中心部分から疑いましょうっていうことですね。「果たして自分は人間なのか」っていうね、そこから疑わなければならないわけですね。

 

だから一方で竹田青嗣さんは在日朝鮮人なんですね。在日朝鮮人2世なんですよ。だからみんなが日本人の中で自分だけ日本人じゃないっていうね、そういうアイデンティティから哲学的興味がシフトするというのは非常に真っ当なことだと私も思うのです。

 

竹田青嗣先生と同様に、重度の吃音章を抱えた飲茶先生の「自分だけが違っていた」という出発点は私もADHDだったりするので、そうなんですが、他の子供と全然挙動が違うわけですよ。そういう苦しみの中で興味が哲学的な方面に向かって行ったんですね。

 

そんなわけで、私の場合はより大人にならないと自分は生き残れないと思ってしまったわけですよ。精神が保てないっていうかね、そういうところから哲学が始まるというパターンは一般にあると思うんですよね。

 

そんな人の中でも、ある一定のところで成長を止める人と、成長を止めない人がいるんですよ。

 

だからそれは、興味の持ち方っていうか、けっきょく竹田青嗣先生にしろ、飲茶先生にしろ、やっぱり哲学というものを問題解決の手段にしようとしてるわけですよ。

 

そうするとそれは「問題が実在する」と思っているところにも表れるんですよ。

 

問題が実在すると思ってるということは、その問題が解決されるとそれで終わりになるわけです。でもそれは本当の意味での哲学的な態度とは言えないのです。

 

だから僕の場合は、哲学的な認識が深まって、その意味で自分が大人になっていくと面白いな、面白いですね。

 

自分が面白いからやってるんだと、だから僕は哲学の目的のために哲学をやってるわけですね。

 

このチャンネルではちょっと前に、「アート哲学とは何か?」という話をしましたけど、このチャンネルのタイトルにもなっている概念ですが、そこでも話したのですが、僕は芸術から出発したんですが、興味が哲学にシフトしてきたんですね。で、芸術においても哲学においても「面白い」というところで共通してるわけです。

 

そうなると自分がADHDだっていうこともあんまり問題ではなくなるというか、そもそもADHDそのものが存在するわけではないのです。

 

しかし、その一方で「哲学は面白い」っていうその「現象」だけは存在するんですね。

 

「面白い」「面白くない」っていうのは結局は「現象」なんですね。そんな言い方がいいのかどうか分かりませんが。

 

でも哲学を何かに役立てようとすると「面白さの問題」ではなくて「実在の問題」になってしまって、そうすると問題が解決すれば哲学も消滅することになり、それで哲学は自律性を保てないし、それはだから子供の哲学だということなんですね。

 

まあちょっと今回の話は多くの人にとってわけがわからないかもしれないし、気が狂ったって思ってもらえればそれでいいと思いますけども。

 

今言ったみたいな話をもし仮に竹田青嗣先生のお耳へ入れたとすると、多分あちらからは「それは相対主義ですね」という批判が来ると思うんですよ。

 

実際に竹田青嗣先生の『新哲学入門』の冒頭には、現代の哲学は相対主義に陥っているからダメなんだという批判がされてるんですね。

 

つまり、結局相対主義っていうのはすべての価値が相対的だって言っておきながら、現実的な解決案は何も出すことができないと、おっしゃるんですよ。

 

ということで言うと、フサールも存在しないし、ニーチェも存在しないし、哲学も存在しないし、何だって存在しないって言っちゃえばそれはそれで済んじゃうわけですよね。

 

なんか自分でも般若心経みたいなこと言ってるなど途中から思えてきましたけれども、

でも、「現実的な解決策」っていうのは結局のところ、「大人の哲学の範囲じゃない」ってことなんですね。

 

だから「子供の哲学」の側からすると、「大人は何にもやってくれない」と思えてしまうんですよ。

 

「大人は頼りにならない」と、そういう不満が生徒会から出てるんだと。生徒会の子供たちは「先生は何もやってくれないじゃないか」と文句を言うんだけど、先生の立場からすると「生徒会のことは生徒たちでやってくださいよ」「生徒の自主性を尊重しますか」らっていうことなんですね。

 

今言ったことが「相対主義」だって言われれば、そうなのかもしれないですが、ただ「大人の哲学」の側からすると、実はニーチェニーチェで現実的な提案をしてるんですね。フッサールフッサールで現実的な提案をしてるんですよ。

 

でも、誰もそれをきちんと受け止めてくれないじゃないかと。みんな揃いも揃って曲解しかしてくれないじゃないかと、そんな絶望や苛立ちが特にニーチェからは感じられて、そんなところに私は共感してしまうのです。