最近、また哲学の入門書の研究をしようと思って、竹田青嗣先生の『新哲学入門』という講談社現代新書で去年出たのかな、その冒頭の第1章だけ読んでみたんですけども、私が考える哲学というものとずいぶん違うんですね。
まあ違うだろうということは分かっていたんですけども、何が違うのかって考えて、これはいってみれば「子供の哲学」だと思ったんですね。
で、私は以前も述べましたけど、哲学とは何かといえば、一つには「過剰に大人になってゆくこと」だと言えるんじゃないのかなと思うんですね。
人は誰でも子供から大人に成長していくんですけども、普通の大人よりもさらに大人になっていくと、それが哲学じゃないかなと。
だからニーチェが著作の中で主張していたのは一つはそういうことで、それが「超人」という言葉にも現れているんじゃないのかなと。
だから超人というね、人を超えてさらに人になっていくという、その「人」っていうのは「大人」を指すわけですね。
子供に対して「半人前」っていう言葉がありますけども、もちろん子供にも人権がありますけども、でも子供はやっぱり半人前で、人間になってゆく過程でありますから、その意味で大人こそが「人間」だと言えるのです。
そしてその人間としての大人をさらに超えて大人になっていくのがニーチェのいう超人であり、哲学者だと言えるのです。
実は私がいま読んでいるチャールズ・サンダース・パース『連続性の科学』にも、哲学の動機は今の自分に対する不満、つまり自分は何も知らないという不満から生まれると述べていて、言い換えると普通の大人を超えてもっと大人にならなければならないいう動機が哲学には必要だと述べられているのです。
一方で、竹田青嗣さんをはじめとする、いわゆる入門書を書いている哲学者は、内田樹さんもそうでしたけど、著作の中で入門書の優位性を説くんですね。
内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』の冒頭に書いてありましたけども(昔は私もそういう本を真剣に入門書を真剣に読んでいたんですね)哲学には専門書と入門書があるんだと。
そして専門書っていうのは結局は内輪話みたいな、そして重箱の隅をつつくような小難しいことが書いてあって面白くないと。
それよりも入門書の方が面白いと。
入門書というのは人々が誰でも持ってるような素朴な疑問に率直に切り込んで考えていくものだと。
だから、哲学の本質は入門書にこそあるのだ、と内田樹さんは述べていたのです。
一方で竹田青嗣さんも『新哲学入門』で「マニフェスト」という形で哲学はこうあらねばならないという宣言をされてるんですけども、その中で哲学というのは誰にでも了解可能な世界説明でなければならないと、そういうものを目指すのが哲学だと述べてるんですね。
だからそのように「誰でも」と言うことで人間を区別しないんですね、そこに私は引っかかったんですよ。
そしねその意味で言うと、ニーチェにしてもフッサールにしてもパースにしても人間を区別してるんですね
、大人と子供に区別してるんですよ。
だから人間には子供からだんだん成長し、ある時点で大人になるともうそれ以上大人になる必要はないだろと、、そこで成長を止めちゃう人が大半なわけですね。
それは全然悪いことではないんですが、つまり最低限社会生活が営めて、常識人として結婚して家族を養って幸せに暮らしていけばいいわけですよね。
それを超えて大人になる必要はないんですけども、でもその人間というのはどこまでも高みを目指すことができると。
高みを目指そうと思ったらどこまでも高みを目指すことができるっていうのは、大人になろうと思ったらどこまでも大人になれるという、そのことに気づいちゃった人がやはり哲学にハマっていくと、ニーチェが示したのはそういうことなんですね。
そうすると内田樹さんにしろ竹田青嗣さんにしろ、そういう気概はないというか、そういう動機に基づいて哲学があるわけではないんですね。
だからこれはその意味で言う「子供の哲学」ではないのかと思ったんですよ。
そして、大人と子供の違いって何なのかと思った時に、一つは「想像界」という言い方ができるんですね。
ジャック・ラカンが人間の精神構造を「想像界」「象徴界」「現実界」と分けましたけども、それにはいろんな解釈があるんですけども、その話はまた別に譲りまして、子供の精神はつまり「想像界」だけなんですね。
そういう意味で象徴界っていうのは大人の領域だし、哲学的な領域だと言っていいんですね。
で、その想像界ってつまりはイメージの世界ですから、端的に言うと子供っていうのは特に小学校上がる前の幼児なんかはサンタクロースが本当にいると思ってるわけですね。
あとテレビで仮面ライダーが出てくれば、仮面ライダーがいると思うわけですね。
現実と想像の世界の区別がつかないわけですよ。
でも小学校上がる頃になるとさすがにサンタクロースはいないだろうと。
お父さんとお母さんがプレゼントを枕元に置いてってくれるだけだと。
むしろお父さんお母さんに感謝しましょう、っていう話になるわけなんですけども。
それで言うと竹田青嗣さんは『新哲学入門』でも冒頭からフッサールとニーチェを高く評価されてますが、つまり竹田青嗣さんはフッサールが本当に存在すると思ってるんですね。
ニーチェも本当に存在すると思ってるんですよね。
でこれは私がおかしなことを言ってるように思えますけども、確かに
ニーチェもフッサールも歴史上の人物であって著作もあるわけで本があるわけですよね。
だからそれは架空の存在であるサンタクロースや仮面ライダーとは違うんですけどもでも、でも現象学的に言うとフッサールは存在しないんですね。
確立しましたけども、でもフッサールは存在しないんですよ、現象学的に考えるとね。
何だったら現象学も存在しないんですね。
同じ意味でニーチェも存在しないんですよ。
ところが竹田青嗣さんの本によるとあたかもニーチェが存在してフッサールも存在しているように書かれているんですね。
現象学にしてもあたかも「現象学」っていう学問が存在するかのように入門書に書かれているわけです。
それはおかしいじゃないかってね。
仮にも現象学の立場に立つんだったらフッサールの存在とか現象学の存在というものを前提にするっていうのは全然おかしいというかね。
つまりフッサールであれ現象学であれ、そういうものの存在を、サンタクロースの存在を信じる子供と同じように信じていてはダメなんですね。
そんな子供の段階を脱してもっと大人にならなきゃダメだということで、現象学があるわけなんですよね、そういうことなんですよ。
もっと言うとですね、竹田青嗣先生は『新哲学入門』の「マニフェスト」の中で哲学っていうのは人間の幸せのために寄与しなければならないということをおっしゃってて、人間というのは歴史上、普遍戦争とって普遍的に戦争を起こして、そのたびに人々が不幸な目にあって、とにかく戦争してる間はその文化的な生活が送れないですから、その普遍戦争をいかに終わらせるのかということが肝心であって、その普遍戦争がない世界というのは徐々にだけど実現されてきてはいますよね、という話をされているんですけども。
その一方でいま読んでいるチャールズ・サンダース・パース『連続性の科学』では哲学を何かの役に立てるという考え自体が間違いなんだときっぱり述べてるわけですね。
だからつまり哲学っていうのはその哲学を目的にすべきなんですね
哲学自体が哲学の目的なんですよ。
だから哲学には自立した価値があって、自立した目的があるんですね。
それを何かのためにって言うと、哲学の本質が歪められてしまうと述べていて、それはまあそうだろうなと思うわけですね。
だから哲学を人類の平和のために役立てるというのは、その意味で言うとおかしいわけですね。
しかしその意味で哲学の入門書っていうのは2つのパターンに分けられるなと思ったわけですけど、も、だからその人類の役に
立てるのかそれとも個人救済ですね。
だから飲茶の『最強のニーチェ入門』というのは個人救済の教えなんですね。
だから「自分らしくあろう」と、「他人に流されないで、自分らしくあろう」と、いうそういう勇気を与えてくれるのがニーチェ哲学だっていうのが飲茶の『最強のニーチェ入門』ですけども、まあ飲茶さんはご自身が重度の吃音症だというその体験から、そういうことを述べておられるわけですけども、まあそれ自体を哲学を実用に供しているのであって、その意味で哲学の本業を歪めてしまうわけですね。
そして同じように、竹田青嗣先生のフッサールもずいぶん歪められているわけですね。
なぜかというと竹田青嗣先生はフッサールの実在を素朴に頑なに信じているし、なおかつ人類の平和を願っているわけですからね。
そうするともしかして竹田青嗣先生は人類が本当に存在すると思っていらっしゃるんですか?って言えちゃうわけですね。
なおかつですよ、竹田青嗣先生はひょっとして自分のこと人間だと思ってませんか?っていうことなんですね。
と、そういうことなんですよ。
つまりこれってゴッコ遊びの世界ですよね。
私も子供の頃は仮面ライダーごっことか、ウルトラマンごっことか、自分がウルトラマンになったつもりでやってたわけですよね。
でもまあいちおう小学生でしたからね、ウルトラマンのお面を取れば人間である自分に戻るっていうね、そういう感覚ありましたけど。
でも竹田青嗣先生は自分がウルトラマンにならぬ人間だと本気で思っちゃってるわけですね。
だから現象学的に言うとまずの人間が存在しないんですね。
そういうことなんですよ。
だから素朴に人間は存在すると信じていて、つまりそれはフッサールが『現象学の理念』の冒頭で
批判したことですね。
つまり人っていうのは自然な感覚、素朴な感覚にいるのだと。
そして哲学的認識というのはそのような素朴で自然な感覚を否定しなければならないと言ってるわけですよね。
素朴に自分は人間だと、そんな風にして信じているというね、そういう態度は全く現象学的ではないわけです。
とは言っても「人間なんていないんだ」って主張すると、それもおかしなことというか「いる」と「いない」で言うとそれは二項対立ですから、同じ軸なんですね。
だからそれを含めて現象学的還元をしなきゃいけないわけです。
竹田青嗣先生が自分を人間だと思っている、自分は人間だと錯覚しているということは、『新哲学入門』の冒頭にあった、「哲学は誰にでも了解可能な世界説明でなければならない」という言い方にも現れてるんですね。
「誰にでも」っていうことは「人間誰でも同じ」っていう前提があって、だから「人間)という言葉で指し示しめられる何か均質なもの、同一なものが存在すると素朴に信じているし、自分が何か言葉を発したらその言葉を誰にでも了解してもらえるような、そういう
人間の実在を素朴に信じてらっしゃるわけですね。
だからその根本は何かっていうと、そもそも自分自身の存在を疑ってないし、自分自身が人間であるということを疑っていないし、そういう意味で言うと全く子供なんですね。
哲学的な大人になっていないわけですよ。
今回は私もひどいことを言ってるなと思うんですけど、もちろんそれは竹田青嗣さんだけが人間じゃなくて、他の人はみんな人間だとかそんなことを言ってるわけじゃなくて、私だって人間のはずがないですからね。、そういうことなんですよ。
だいたい竹田青嗣さんが自分でお書きになってるわけですね、つまり哲学っていうのは全てを疑うところから出発しなければならないと。
そうすると「全て」ってことですから、自分の一番中心部分から疑いましょうっていうことですね。
果たして自分は人間なのか?っていうね、そこから疑わなければならないわけですね。
だからみんなが日本人の中で自分だけ日本人じゃないっていうね、そういうアイデンティティから哲学的興味にシフトするというのは非常にそれは僕は真っ当なことだと私は思うのですね。
すいません
途中で録音だけが切れちゃったのでここ
から響きの音声でお届けしますさて
竹田青嗣先生と同様に飲茶先生の自分だけが吃音なんだ、同じ人間だと思ってたら自分だけが違って
いた、という出発点は私もADHDだったりするのでそうなんですが、他の子供と全然挙動が違うわけですよそういう悩みや苦しみの中で興味が哲学的な方面に向かって行ったと言えるんですね。
そんなわけでより大人にならないと自分は生き残れないと思ってしまったわけですよ。
精神が保てないっていうかね、そういうところから哲学が始まるというパターンは一般にあると思うんですよねり
でそんな人の中でもある一定のところで成長を止める人と、成長を止めない人がいるんですよ。
それは興味の持ち方っていうか、
けっきょく竹田青嗣先生にしろ飲茶先生にしろ、哲学というものを問題解決の手段にしようとしてるわけですよ。
そうするとそれは問題が実在すると思っていることの表れなんですよ。
で問題が実在すると思ってるということは、その問題が解決されるとそれで終わりになるわけです。
でもそれは本当の意味での哲学的な態度とは言えない。
だから私の場合は哲学的な認識が深まって、その意味で自分が大人になっていくのが面白いし、そんなふうに面白いから哲学をやるわけで、哲学の目的のために哲学をやってるんですね。
私はもともとは写真家で美術家なのですが、芸術から出発した興味がだんだんと哲学方面にもシフトしてきたんですね。
芸術にしろ哲学にしろ「面白い」というところで共通してるわけで、そうすると哲学と芸術が融合していくんですよ。
そうなると自分がADHDだっていうこともあんまり問題ではなくなるというか、そもそもADHDそのものが存在するわけではないんですね。
しかしその一方で「哲学は面白い」っていうその現象だけは存在
するんですね。
「面白い」「面白くない」っていうのは結局は現象なんですね。
そんな言い方がいいのかどうか分かりませんが、でもやっぱり哲学を何かに役立てようとするのは面白さの問題ではなくて、実在の問題になってしまって、そうするとそれは「子供の哲学」だということなんですね。
まあちょっと今回の話は多くの人にとってわけがわからないかもしれないし、気が狂ったって思ってもらえればそれでいいと思いますけども、今言ったみたいな話をもし仮に竹田青嗣先生のお耳に入れたとすると、多分あちらからはそれは相対主義だという批判が来ると思うんですよ。
実際に竹田青嗣先生の『新哲学入門』冒頭には現代の哲というのは相対主義に陥っているからダメなんだという批判がされてるんですね。
つまり相対主義っていうのはすべての価値が相対的だって言っておきながら、現実的な解決案は何も出すことができないとおっしゃるんですよ。
でも現実的な解決策っていうのは
結局のところつまり大人の哲学の範囲じゃないってことなんですね。
だから子供の哲学の側からすると大人何にもやってくれないと思えてしまうんですよ。
大人頼りにならないと。
そういう不満が生徒会から出てるんだと。
生徒会の子供たちは先生は何もやってくれないじゃないかと。
そんなことを言うんだけど、先生の立場からすると生徒会のことは生徒会でやってくださいよ、生徒の自主性を尊重しますから、っていうことなんですね。
だから今言ったことが相対主義だって言われればそうなのかもしれないですが、ただ大人の哲学の側からすると例えばニーチェはニーチェで現実的な提案をしてるんですね。
でも誰もそれをきちんと受け止めてくれないじゃないかと、みんな揃いも揃って曲解しかしてくれないじゃないかと。
そんな絶望や苛立ちが特にニーチェからは感じられるんですね。