アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

2015-01-01から1年間の記事一覧

認識と外部

私は認知科学などの知識から、人間の認識世界の「外部」の存在を直感していたのですが、その直感は真の意味での直感ではありませんでした。認識世界の外部は文字どおり直感不可能であって、それは理屈の上で想定されるのみで、私はその理屈に納得していただ…

反応と現象

現象学的還元とは一切の超越者(私に内在的に与えられていないもの)に向こうの符号を付けることであり、即ちその超越者の実在と妥当性をそのまま定立しないで、せいぜい“妥当現象”として定立することである。 例えば一切の心理学や自然科学などあらゆる科学…

簡単と困難

事象そのものに的中する認識の可能性が巻き込まれている色々な困惑。どのようにして認識はそれ自体に存在する事象との一致を確認し、またそれらの事象に〈的中〉しうるのであろうか?#フッサール 事象は認識の中に含まれていますが、認識は事象と一致しなか…

目の前の事象と目の後ろ側

現象学的還元をマスターすると(私はまだまだですが)、「生活世界」が対象化されます。自然で素朴な感覚で生きる人は、生活世界に埋没し、生活世界を対象化できません。 自然で素朴な感覚で生きる人は「目の前の事象」に囚われて生活世界を見失っています。…

現象学と生活世界

フッサールの言う「生活世界」とは何か?それは現象学的還元の対義語なのです。つまり現象学的還元が行われなくなると、生活世界に戻るのです。 哲学的訓練が未熟な者は、現象学的還元をしても持続せず、すぐ生活世界に戻ってしまいます。哲学的訓練を重ねた…

現象学と還元主義

現象学とは還元主義です。いや還元主義を徹底した結果、還元主義を超越し「裏返った」のが現象学です。現象学以前の還元主義はあくまで「自然的態度」の範囲内での還元であり、自然的態度における反省に過ぎませんでした。現象学的還元は、自然的態度を丸ご…

空虚と充実

フッサールによると「空虚」とは「直感を伴わない」ということであり、その逆は「充実」です。空虚と充実の相違は、対象を現出させるかどうかであり、そして直感だけが対象の現出をもたらしうるのです。 結局のところ、多くの人は空論を振り回しているのです…

スーパーマンとクラーク・ケント

分析はどの段階においても、直接的直感によって構成される類的事態の本質分析であり究明である。#フッサール この研究をアプリオリな客観化的諸科学と区別するのは、その方法と目的である。現象学は直感的に解明し、意味を規定し、意味を区別すると言う方法…

的中と推理

有り体に言えば、考えによって見え方が異なります。つまり現象は指向性とも深く結びついているのです。 推理は的中するまで意味も価値も持ちません。シャーロック・ホームズの推理は的中するからこそ意味があり、的中しないワトソン君の推理はいかに論理とし…

フッサール『現象学の理念』抜き書き

本質研究は全て実際明らかに本質研究である。意識流こ中で消滅する単一の認識現象は現象学的論定の対象ではない。我々が求めているのは〈認識の源泉〉であり、類的に観取されうる思考の正しさを測定する拠り所となりまた思考がその対象性について提起する一…

風呂敷と現象学2

「現実」を認識しようとする事と「現象」を認識しようとする事は 、その感覚が微妙に異なります。現実に対する場合「あれとこれは別」というカテゴリー分けの意識が強く働きそれだけ認識が妨げられます。例えば「時間と空間は別」と言うものです。現象に対す…

風呂敷と現象学

「時間」と言うものは改めて考えると不思議なものです。例えば「今」とは「今認識するこの時」ですが「過去の時間」は「今思い出す記憶」として存在し、「未来の時間」も「今思い描く未来の時間」でしかありません。 そう考えると「時間」とは人間にとって「…

難解と困難

現象学とは現実ではなく現象を研究する学問であり、「現実」という現象に惑わされる事なく、「現実」を含むいろいろな現象を対象とした学問なのです。 人間には自然に生きる事と、人工的に構築する事の、2つの事が可能です。これは動物の中で人間だけに備わ…

フッサール『現象学の理念』抜き書き

認識論的還元の遂行、一切の超越者の廃去 認識批判学の謎は超越であり、それもただその可能性の面だけが謎である。しかしそれだからといって超越者の現実性をあらかじめ当てにする事は決して許されない。 コギタチオの問題は、もっと正確に言えば認識現象そ…

現象学と超能力

フッサール『現象学の理念』を再読してるのですが、しばらくはこれを繰り返し繰り返し繰り返して読もうと思っています。この本もそうですが、哲学書は読んだ直後はある程度「哲学的思考」が出来るのですが、しばらく経つと日常的思考に戻ってしまい、それだ…

ディオと哲学

私は今のところ目に見える対象の存在が疑い得ると「理屈で理解」してますが「直感的には疑い得ない」として感じてます。しかし現象学としての認識は逆で、目に見える対象の存在は「直感として疑い得る」のであり、その存在がありありと感じられるのは「様々…

フッサール『現象学の理念』抜き書き

何がそのように不可解であるのか、また認識の不可能性をまず差し当り反省する際に我々を当惑させるのは何であるか、という点を仔細に考察してみると、結局それは認識の超越性である。科学以前の認識も、それに科学的認識でさえも、すべて自然的態度の認識は…

絵画と現象学

絵画! 絵画はどうやって描けばいいのでしょうか?何でもデタラメに描けば絵画になるという訳ではありません。恣意的に「自明の絵画」をなぞったとして、それは絵画になるのでしょうか? 私は芸術家に憧れながら、しかし「何を描けばいいのか分からない」と…

不幸と不公平

ユーザーアクション フォロー中 akiko@ liveontheA's‏@tubasasky @itozaki @il_CIBO こんにちは、流れすべて読ませて頂きました。勉強になります。そういう親に厄介払いされるこどもたちをどう扱ったらよいのでしょうか?住み込みのリゾバでも勧めたら良い?…

思想と規定

思想とは何か?人間が「本能が壊れた動物」だとするならば、壊れた本能の代わりに言語により構築した「行動プログラム」それが思想です。 ところが人間が本能が壊れた動物ならば、人間はその意味で「何ものでもない」のです。 例えば「本能が壊れたイヌ」が…

自然と作為

山本七平『勤勉の哲学 日本人を動かす原理』を読んでますが、似たような日本人論を語っても山本七平さんは全然違ってて素晴らしいです。 現代のこの「自然・不自然」という概念には「自然(じねん)」という要素が入っており時の経過とともに「化為(なる)…

思想と哲学

思想と哲学の違い。思想とはいわゆる本能が壊れたとされる人間にとっての「行動プログラム」です。人はそれぞれ固有の環境に適応し、固有の行動プログラムを言語によって構築し、それが即ち思想です。哲学とは固有の思想を普遍化しようとする行為です。だか…

想起と痛み

私は自分が芸術家であったことを思い出さなければなりません。そういえば私は子供の頃から、自分が芸術家であったことを思い出しかけてはまた忘れる、ということを繰り返してきました。それが芸術家を目指したり、諦めたりする、という事です。芸術家の行き…

認識と自明性

自明性は認識を覆い隠します。自明性は真実を覆い隠します。例えば、太陽が東から昇って西へと沈むという自明性から天動説が生じ、地動説という認識を覆い隠します。

科学と目的

科学技術は進歩しても人間は進歩しない。なぜなら科学技術は、外部蓄積が可能であるところに特徴があるからです。人が死んでも技術は蓄積されます。後の人が技術をマスターするのは簡単です。なぜなら解釈の違いというものが科学には存在しないからです。哲…

歴史と身体

歴史的身体!「自分」とは何でしょう?生まれて間もない赤ん坊は鏡像によって自分の身体を統合的に認識します。つまり自分とは「自分について知っている」というその知識です。自分とは自分が知っている知識そのものです。知識が無い人は「自分が無い」ので…

邪悪と自明

邪悪とは何でしょう。動物の本質が邪悪だとすれば、邪悪とは自明性を生きることです。その反対が善良であるなら、善良とはクリエイティビティであり、クリエイティビティを阻害する自明性が邪悪なのです。 YouTubeなどには様々な動画が上がってますが、これ…

人間と自明性

「自明性」ということが認識と創造の敵なのです。いや、認識とは創造的認識であって、自明的認識は認識とは言えないのです。なぜなら自明性とは動物的本質だからです。人間の子供はまず「動物としての人間」の本質である「自明性」を獲得します。 生まれたば…

認識と歴史

私は自分の身を守るために読書をしなければならない!ラカンは、人間は本当の目標では無い「代理の目標」で満足するのだと言いました。そして、かつての私の満足もまた「代理の満足」でしかありませんでした。私は自分の満足が「代理の満足」でしかなかった…

写真とモノ

アジェ・フォトというサイトを見てますが、やっと「写真」の見方というか、向き合い方が分かってきました。先にも述べましたが私は「非人称」という概念によって「他者」と向き合うことを避けてきたのです。それでは「写真」は理解できません。 http://www.a…