アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

風呂敷と現象学

「時間」と言うものは改めて考えると不思議なものです。例えば「今」とは「今認識するこの時」ですが「過去の時間」は「今思い出す記憶」として存在し、「未来の時間」も「今思い描く未来の時間」でしかありません。

そう考えると「時間」とは人間にとって「時間が存在する」という知識であり、その知識通りの「時間」というものの存在を、人間は直接認識することはできないのです。

しかし「時間」が実際に存在する・しないに関わらず、「時間」が客観的に存在する・しないに関わらず、「時間」という現象が、私の認識世界に生じていることは確実に疑い得ないことです。

私は今、他人と待ち合わせをして、その場所に向かって移動しています。私が待ち合わせ時間に遅れれば、それだけ相手に迷惑がかかります。しかし「時間」が存在するかどうかも分からず、また今自分の目の前にいない「他人」が本当に存在するかも分からない状況で、待ち合わせに何の意味があるのか?

「時間」や「他者」をはじめあらゆる客観的存在は、究極的には疑い得るものです。しかし「私が今待ち合わせ場所に向かっており、遅れると相手に迷惑がかかる」という事情は、他のあらゆる関連事を含めて、私の認識世界に「現象」しており、そのこと自体を疑うことはできないのです。

「知覚がどのようにして超越者に的中しうるか」はわれわれに理解できないが、しかし「知覚がどのようにして内在者に的中しうるか」は、純粋に内在的な反省的知覚という形で、即ち還元された知覚によって、理解することが出来るのである。 #フッサール

現象学とは風呂敷のようなもので「自然的態度」の人は風呂敷に書かれた模様を「実在する世界」だと信じ込んでいるのですが、現象学は「風呂敷に描かれた模様」を「風呂敷に描かれた模様」だと正しく認識し、その唯一つ認識可能な「風呂敷に描かれた模様」を徹底的に認識しようとする学問だと言えます。

現象学的に見れば、人は「絵に描いた餅」を見ながら「餅」だけを認識し「絵」及び「描かれたこと」を認識しないのです。あるいは「絵に描いた餅」だけを見ながら、実際に自分が見たこともない「実物の餅」を見たように錯覚するのです。

「自分に文句を言う他人がいる」という事実を現象学は「事実」として認定しません。現象学が「風呂敷に描かれた模様」だとすれば「自分に文句を言う他人がいる」という模様が風呂敷に描かれているのです。ですから「自分に文句を言う他人を黙らせたい」と思うなら風呂敷の模様に加筆すればいいのです。

建物の絵を描くのに「建物の前に木があって邪魔だ」と言って建物の前に生えている木を切る事は馬鹿げています。絵で描くことの操作は、絵で描くことの操作だけで済ませることができますから、実際の木を切る必要はないのです。