アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

2017-01-01から1年間の記事一覧

他人と肉親

イエス・キリストの凄いところの一つは、母親との直接的な血縁関係よりも、「人類皆兄弟」という広範な視点による血縁関係を優先したことにある。イエス・キリストにとって母マリアは、大勢いる自分の兄妹たちの一人に過ぎない。 他人が「自分ではない他の人…

動物と想像界

この鳥(駒鳥)が赤い胸羽を示すことは縄張りの主張であり、この赤い胸羽を見せるだけで、相手に或る行動を引き起こすことが観察されています。赤という色は、この場合、想像的機能をもっているわけです。 この想像的機能が、了解関連という次元へと翻訳され…

エックハルト抜き書き

真実にして完全なる神への従順こそ、すべての徳にまさる徳であって、如何なる大事もこの徳なくしては有り得ず、また為され得ないのである。 真の従順においては、「私はかくかく欲する」または「これこれを欲する」ということがあってはならない。ただ「自分…

入門書と魔法使い

板垣恵介イラストが表紙の『史上最強の哲学入門』、読んだこと無いですがちょっと気になって作者の「飲茶」さんのサイトを見てみたのですが、これは哲学者ではなく「魔法使い」で、私も哲学の入門著は昔は何冊も読みましたが、こういうのはどれも魔法を使っ…

絵画と情報

絵画における黄金比とは何か?それは光配列であり情報なのである。絵画の画面構成に黄金比による画面分割を加えると、それ自体が光配列となり、作品により豊かな情報が含まれる事となる。 絵画とは『通常の環境の包囲光配列に見出されるのと同種の情報を含ん…

絵画と光配列

現象学的には「実在」と思える全ては「現象」に過ぎないが、アフォーダンス理論によって詳細に言えば、全ての視覚現象は「光配列」に還元できる。人間は網膜像を見ているのではなく、網膜像を利用して光配列を見ている。 光配列は人間のみならず、視覚機能を…

人格と光配列

私が認識間違いをしていたのは、人間は動物に備わっているべき本能のほとんど失っていて、その本能に取って代わる行動プログラムを言語によって構築するのだと思っていたのだが、それは反面は妥当性があるものの、実際の人間には本能的な「動物言語」の多く…

鬱の克服

思い出したのだが、これはだいぶ以前にTwitterに書いたことだが、私は極度の鬱病を患っている。いや一般常識で言えば私は鬱病ではなく、医者もそのように診断しないだろうと思われる。鬱病と言うのはもっと酷い症状を指しているのだと言う意見も最もである。…

イヌと言語

発売中の『子供の科学』2018年1月号は「イヌ特集」だが、その中に「イヌはオオカミのネオテニーである」と言う説が紹介されていて衝撃を受けたのだが、言われてみれば確かにその通りだと思える。 同じく『子供の科学』のイヌ特集だが、温血動物で目に「白目…

寛容と現代アート

現代アートを理解するには寛容さが必要であり、何故なら現代アートは基本的にどのような対象をどのような方法に表現するのも許されるからである。 現代アートが一般に分かりにくいとされるのは、理解に寛容さを必要とするから。多くの人は自らの常識に閉じこ…

寛容と判断力

これまでの私は「寛容」の心が足りていなかったのかも知れない。物事の「優劣」を判断する上でも、寛容の心は必要である。なぜなら不寛容である場合、物事を本質的な優劣で判断する以前に、自分の乏しい経験からくる「好き・嫌い」「分かる・分からない」で…

持つ者と持たざる者

慢心はなぜ生じるのか?それは一つには「自分の持ち物」を「自分」と混同することによって生じる。人は「持ち物」において平等ではなく「持つ者」と「持たざる者」に分かれており、「持つ者」である自分が「持たざる者」である他者と比較することによって、…

専門性と総合性

カルチャーはサブカルチャーを取り込むことで発展し、サブカルチャーはカルチャーを取り込んで消費する。 カルチャーは代を重ねるごとに芯から腐ってサブカルチャー化する。 サブカルチャーはそれぞれが非本質に向かって多様化する。 カルチャーとは総合性で…

トマソンとサブカルチャー

赤瀬川原平『超芸術トマソン』は、柳宗悦の「民芸運動」との共通点があるように思えるが、赤瀬川さん自身はそれについて書いていないし、民芸運動について知らないのではないか? また赤瀬川さんは自身の超芸術トマソンについて、デュシャンのレディ・メイド…

民芸運動とサブカルチャー

「民芸」という言葉は手垢がつきすぎてよくわからなくなっているが、柳宗悦による「民芸運動」というものがあったのである。民芸というのはカルチャーに対するサブカルチャーであり、サブカルチャーをカルチャーと認めさせる運動だったと言えるかもしれない…

原始時代のエリート集団

優劣の問題は素直に、そして真剣に考えなければならない。にも関わらず、近代においては価値の逆転、優劣の逆転の思想が根底にある。これに無自覚に引っ張られると、優劣の判断が正常にできなくなる。 「優劣」とはなにか?を改めて考えなければならない。最…

序列と否定

○時間と記憶の問題。常識的には人間に記憶があるのは明白だが、動物に記憶はあるのか?イヌやネコのような高等動物に記憶があるとして、昆虫やアメーバに記憶はあるのか? 認識には時間が伴う。時間を伴わない認識は成立し得ない。視覚的認識は、視覚の変化…

ユーザー・ブリコルール・エンジニア

認識論的に言えば、人はユーザーと、ブリコルールと、エンジニアとに分かれる。ユーザーは一般常識に対し疑いなく従う人々。ブリコルールは常識をベースに工夫を施す人々。エンジニアは常識を疑い根底から覆そうとする人々、というふうに整理分類できる。 ユ…

視覚と動き

知覚についての覚書。動物の知覚は動いている対象物と、動かない環境とをどのようにして判別するのか?動物が自分の体を移動させると、それに連動して視覚情報も変化する。自分の体の動きと、視覚情報の変化が「連動」している場合、その視覚情報は「動かな…

卓越したエンドユーザー

現象学的に言えば、全ては自分の主観のうちに生じた現象であるが、他者にもまた自分と同様の主観を有し、その主観にもまた同様の現象が生じているように、自分の主観のうちに現象している。 これは人間以外の動物も同様で、動物個体はそれぞれに主観を有し、…

認識と時間

時間とは何か?あらゆる認識は、時間を介することによって成立する。認識とは関係の認識であり、時間を介さなければ関係の認識は成立しない。 光についてその強弱だけを認識する単純な生物がいたとして、その生物は光の「強」と「弱」の関係を時間を介して認…

生活世界とインターフェース

生活世界は確かに存在する。生活世界は氷山の一角で、 見えない海中の氷山にはどのような世界が存在するのか?…何れにしろ生活世界に埋没する限りそれが世界の全てだと認識され、生活世界そのものを対象化されることはない。従って生活世界そのものの存在を…

言語によらない象徴作用

人間以外の動物は言語を介さずに世界を認識する。動物は言語以外の方法によって、世界を象徴化して捉える。動物にとっての環世界は、種に固有の身体によって捉えられた様々な象徴の関係によって成立している。 現象学的に考えれば、人間にとって言語によって…

言語による認識と、言語によらない認識

人間は言語によってのみ認識しているのではない。人間は言語による認識と、言語によらない認識とを併用している。言語によらない認識とは何か?と言えばこれは言語によらない象徴作用であり、動物的な象徴作用だと言える。 言語によらない象徴作用とは何か?…

具体性と象徴性

具体性とは何か?もしかすると具体性なるものは存在せず、我々は象徴性と具体性とを取り違えているだけなのではないか? 例えば、目の前に見える風景を写実的な具象画として描こうとする場合、目に見えるもののそれぞれを改めて象徴化して捉えなおさなければ…

言語・象徴・具体

言語を使う人間と、言語を使わない動物の差は何か?言語を使わない動物より、言語を使う人間の方が環境の利用率が高くなる。人間が環境に存在するあらゆるものに名前をつけることによって、そのものが利用可能になる。 ヒトの言語はウグイスのさえずりのよう…

ユーザーとブリコルール

レヴィ=ストロースはエンジニアとブリコルール(器用人)とを対置させたが、他にエンジニアの対立概念としてユーザーを置くことができる。そう考えるとあらゆる生物はユーザーであり、ユーザーとは生物としての本質だと言える。 例えばカエルという生物は、…

言語とオーバーテクノロジー

リバースエンジニアリングをするには自分もエンジニアでなければならない。エンジニアとは何か?その人は物事の原理を知っている。原理とは何か?原理とは理屈であり理屈とは言語である。原理を知るエンジニアはエンジニアリングとしての言語とは何かを知っ…

専門家と評論家

もし、自分で料理を作らない料理評論家がいたとして、この人は専門家と言えるのか?専門家=エンジニアと定義するなら、料理を作らない料理評論家はエンジニアではなく専門家とは言えない。 だから料理を作らない料理評論家の評論は「美味しい」「不味い」「…

エンジニアリングとブリコラージュ

リバースエンジニアリング(Reverse engineeringから。直訳すれば逆行工学という意味)とは機械を分解したり製品の動作を観察したりソフトウェアの動作を解析するなどして製品の構造を分析し、そこから製造方法や動作原理、設計図などの仕様やソースコードな…