アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

生活世界とインターフェース

生活世界は確かに存在する。生活世界は氷山の一角で、 見えない海中の氷山にはどのような世界が存在するのか?…何れにしろ生活世界に埋没する限りそれが世界の全てだと認識され、生活世界そのものを対象化されることはない。従って生活世界そのものの存在を意識することは重要である。

 

生活世界とはユーザーインターフェースではないか?生活世界が氷山の一角だとして、その目に見える一角の氷山とはユーザーインターフェースではないだろうか?人間が何故ユーザーインターフェースを構築できるのか?と言えば、生活世界そのものが人間にとってユーザーインターフェースだからである。

 

目の前にものがある、目の前に空間が広がり、そのにさまざまな物体が配置されている、という生活世界における当たり前の感覚そのものが、ユーザーインターフェースとしてもたらされているのである。

 

例えばカメラにはファインダーやピントリング、絞りリング、シャッター速度ダイヤルなどのユーザーインターフェースが備わっており、カメラのユーザーにとってはそれらインターフェースが「全て」である。しかしユーザーインターフェースは氷山の一角でその下にはエンジニアリングが隠されている。

 

ところでギブソンを読み始めたのだが、空気と水は光を通過させるとともに、動物の身体も通過させる。よって光を通過させる媒質は、自らの身体も通過可能であると判断される。この逆に光を通過させない媒質は、自らの身体も通過できない地面か障害物であると判断される。 https://pic.twitter.com/Fbr4cOLgrI

 

光学的肌理が持つ形に関して重要な事実を指摘しておこう。光学的肌理の形は幾何学者が言う通り変換を経ても不変である。例えば一方が三角形から、他方が矩形から成る二種類の肌理が拡大されたり遠近法に従って奥行きを縮約して描かれたとしても、それらが三角形や矩形から成っていることは変わらない

 

肌理の形に関するもう一つの重要な事実は「光の強度が変化しても肌理の形は変化しない」ことである。つまり光配列の構造はそのエネルギーレベルとは無関係なのである。#ギブソン心理学論集 P33

 

 

言語が現実に対応している以前に、光がもたらす情報は現実と対応している。しかし言語が現実ではないように、光の情報は現実ではない。そこで、光の情報の現実へと的中率が問題になるように、言語の現実への的中率が問題となる。