アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

2017-08-01から1ヶ月間の記事一覧

考えと記号

考えが前に進まないときは、考えそのものがブリコラージュに陥っていて、考えの対象が記号化しそれ以上分解不可能になっている。例えば「芸術が分からない」といった場合の「芸術」や、金儲けの仕方が分からないと言う場合の「金儲け」がそれに当たる。 エン…

安心と主張

或云(あるひという)。世の宗門の趣意を、一筋に死後の冥福を祈張ることと思ふは、大なる心得違なり。世界中宗旨の数, 如甚夥多し。其説、千緒万端なれども、概して之を云へば、現在未来に拘はらず、唯安心の地を求るなり。 #福沢諭吉 或云随筆 福沢諭吉先…

ゲームと儀礼

科学と同じくゲームは構造から出来事を作り出す。従って競技が現在の工業社会において盛んであることは理解できる。それに対して儀礼と神話はブリコラージュ(工業社会はこれをもはやホビーもしくは暇つぶしとしてしか許容しない)と同様に、出来事の集合を…

専門家と素人

最近、集中的に反省したおかげで、だいぶ分かってきたのだが、私には美術家として気負いがあったせいで、美術に対しかえって「不透明」な態度で接していたのだった。 これに対し後から学ぶようになった哲学に、私は何の気負いもなく、つまり「自分の哲学を打…

意味と間違い

私の間違いは、非人称芸術を語ろうとして、芸術を語ろうとしなかった点にあった。芸術を語るとは、芸術を総合的に捉えて語ることである。このため非人称芸術も芸術の枝葉の袋小路の一つとして語る必要がある。なぜなら芸術には同様の行き止まりの枝葉が、事…

エンジニアとブリコルール

下記は『野生の思考』の引用だが、非学問的思考がどういったものかが非常によく分かる。 結局のところ私の「非人称芸術」の問題は、その向こうに超えようとしながらも、実際にはその手前に留まった点にある。 そもそも「非人称芸術」というコンセプトは芸術…

意味と分類

写真術の発明で芸術は「前衛」へと向かうことになり、その指針の一つに「原始」があった。近代科学は文明人に原始との出会いをもたらし、忘却していた原始を想起させた。 それで日本の美術界では原始に回帰することが前衛であるように取り違えられ、私の「非…

環境と知性

『野生の思考』を再読しようと思って、まずは最後のサルトル批判の『歴史と弁証法』から読んだのだが、フッサールやラカンに比べたら簡単かと思ったら、思ったより難しくて手強い(笑)しかし私は時代的にこの影響を大きく受けているはずなので、その確認の…

一般と特別

自分が「特別な自分」であるならば、時代や地域などの状況に関係なく自分は「自分」として存在する。しかし自分が「一般的な自分」であることを自覚するならば、「自分とは何か」を知るために自分が属する時代や地域の状況を知ることは、極めて有効となる。 …

敗戦と日本人

極端と中庸。岡本太郎の芸術論も、赤瀬川源平の超芸術トマソンも、私の非人称芸術も「極端」であり、特定の時代と地域に根ざして偏向しており、普遍性がない。これに対して中庸とは特定の時代や地域を越えた普遍性であり、一般性である。 そこで岡本太郎の芸…

学問と一般化

反省とは何かと言えば、一つには自己を「一般化」して捉える事である。人間の自然な感情においては、自己は多くの他者たちと違う特別な何かのように実感されるが、自己をそのような例外としてではなく、多くの他者たちと立ち並ぶように一般化して捉えようと…

デカルトとアリストテレス

適切な呼称かどうか不明だが「幕の内弁当理論」と言えるようなものがあって、例えばデカルト『方法序説』後半にあった、心臓の仕組みについての論文がそれに当たる。 デカルトはその当時科学的に解明されていなかった人体の血液循環の仕組みについて「熱膨張…