アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

他者と光

 私にとって本来最初の他なるもの(最初の私でないもの)は他我である。そしてその他我が他の新しい無限の領域、即ち全ての他我と私自身を含む客観的世界一般との構成を可能にするのである。

フッサールデカルト省察

 

 世界に存在するあらゆる「それが何であるか」は他者から教えられます。人が「言葉で認識する」とはその事です。人は他者から言葉を学び、世界に存在するあらゆる「それが何であるか」を学ぶのです。自分とは異なる他者とは、認識の出発点でもあります。

 あらゆるものを照らし出す光が太陽の光であるように、あらゆる「それが何であるか」を言い当てる言葉は他者の言葉です。自分の目に飛び込んでくるのは、太陽を光源とする光の乱反射と、他者を光源とする言葉の乱反射です。

 言葉はみんなで話すから言葉としての意味と機能があるのです。言葉を話す限り、その意味で一人ぼっちの人はいません。どれほど社会の知的水準が落ちようとも、みんなで言葉を喋り合ってこれを維持しようという行為だけは維持されます。

 どれだけ言葉が変化しようとも、言葉そのものは受け継がれて行きます。どれほどの少数言語であっても、個人言語が成り立たない以上、客観性はあります。客観性は、一つには言葉によって成立します。