アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

他者と鏡

 人間同士の争いはなぜ生じるのでしょうか?自分と他人との争いを真横から見ると、それは他人同士の争いになります。

 事実を指摘すると、指摘された人は怒ります。誰にとっても明らかで、本人も自覚している事実に対し、それを言葉で指摘すると怒る人がいるのです。どれだけ明らかであっても、その人にとって受け容れ難い事実が存在します。事実とはそれが当人にとって気に入らない場合「受け容れない」事が可能なのです。

 自分の欠点をいかに改善しようと努力していても、実際に改善がなされていなければ、他人にとっては無意味です。しかし自分にとって、欠点を認識し改善の努力をすること自体に、特別の意味があります。その自分にとって大切な意味は、他人にとっては無意味であり、そこに断絶があります。

 明らかな事実に対し、自分が気に入らないという理由で「受け容れない」事がなぜ可能なのでしょうか?それは人間のどの様な能力によって可能なのでしょうか?一つは、他人には明らかに見える自分の顔が、自分では直接見られない、という事によります。事実としての自分の顔を、自分だけが見ていない。

 人間には目の前の事実を「受け容れない」能力を備えており、それは他人には明らかに見える自分の顔が、自分だけに見えない事と結び付いているのではないでしょうか?

 イヌは鏡像を理解しない、と言う事を、子犬を育てた経験のある方から聞きました。子犬は鏡に映る自分の姿を発見し、これに向かって吠えますが、やがて無害であることを理解し、興味を失ったそうです。イヌは人のように、鏡を通じて自己認識しません。

 人は他人の姿を見て、それを鏡のようにして「自分」を認識します。自分で直接見ることのできない自分の姿を「他人の類似物」として認識するのです。自分の鏡像を認識しないイヌは、自分の存在をそのようには認識しないのでしょうか?

*以下、この記事に対するTwitterでのやりとりです。

いしわたりしんいち@robanotearoom

この論点の弱点は他者が鏡であるとしているところなんだろうなぁ。残念ながら他者は自分を客観的に写している訳ではなく、他者の主体のバイアスが入っているわけで、他者に写った自分ってのは自分そのものではなく他者のバイアスの掛かって自分の姿なんだよな。この辺がこの言説の弱点だよな

コメントありがとうございます。鏡像理論はラカンですがフッサールデカルト省察読みながら自分なりに他者についてなど考えてますが難しいですね。

いしわたりしんいち@robanotearoom

ボクは哲学書を読みあさっていたのはもう10年以上前なのでだいぶ忘れちゃいましたが、他者とか間主観性という概念が入ってくるとデカルトのいう世界とはまた一歩複雑になってきますね。デリダとかレヴィナスとかもってくるとさらに複雑です。細かいことはホント忘れちゃいましたが

返信ありがとうございます。哲学は、一時はまって、通り過ぎる人は結構いるのかもしれませんね…

いしわたりしんいち@robanotearoom

哲学は生きることに迷った時に自分自身の存在や立ち位置を確認するために行う精神的な活動だとボクは思っています。理系の大学出て就職して、自分の生き方に迷いを感じたときに哲学仲間と知り合い、10年間ぐらいフッサールハイデガー系をむさぼるように読みました。

そして、自分自身が生きることに自分なりに理由付けや根拠を得たときに少しずつ哲学への関心(関心はその後もあるのですが、情熱というべきでしょうか)を失っていきました。結局、自己の存在不安が哲学を欲したわけで、存在不安の解消が哲学をそれほど必要としなくなったのでしょう。

なるほど人それぞれなのですね、興味深いお話ありがとうございます。