慢心はなぜ生じるのか?それは一つには「自分の持ち物」を「自分」と混同することによって生じる。人は「持ち物」において平等ではなく「持つ者」と「持たざる者」に分かれており、「持つ者」である自分が「持たざる者」である他者と比較することによって、慢心が生じる。
「持ち物」とは何か?例えば豪邸に住んでいるとか、高級車に乗っているとか、そのような「持ち物」を「自分」と取り違え慢心する人は愚かだが、そのことは多くの人にとって分かりやすい。いくら金を持っていても、その「持ち物」自体が「自分」ではないことも明白である。
「物」である「持ち物」が「自分」ではない事は、多くの人にも分かるはずである。では「物」ではない「持ち物」の場合はどうだろうか?例えば自分が苦労して勉強して蓄えた知識とか、数々の苦難にも関わらずそれを乗り越えてきた経験であるとか、長年の修行によって身につけた様々な技であるとか。
そのような非物質的で精神的な「持ち物」は果たして「自分」なのか? 実は非物質的な持ち物は、物質的な持ち物と同様に「持つ者」と「持たざる者」に分かれるのである。そして「持つ者」が「持たざる者」に対して慢心し得るという点でも、全く同様なのである。
人は誰でも赤ん坊という「無」の状態で生まれ、物質的なものも、非物質的なものも、さまざまな「持ちもの」人それぞれにを貯め込みながら大人になり、そこであらゆる意味で「持つ者」と「持たざる者」に分かれて行く。
そして人は誰でも死ぬときは、物質的な持ちものも、非物質的な持ちものも、全てまとめて手放さなければならない。つまり全ては他からの「借りもの」に過ぎないのである。
結局、「学ぶ」と言うのは「他者」から学ぶのであって、そうして自分が他者から学んで取得した知識も経験も技も精神性の高さも人格力も、自分が死ぬときは全て消え去ってしまう。つまりそれは他者からの「借り物」に過ぎないのではないか?だから死に際しては全て他者へと返却されるのである。
いや人が本質的に他者から学ぶのだとすれば、自分自身も他者に対して何らかの「学び」を常に与えているのであり、人は他人に常に何かを借りながら、常に返済し続けているのであり、死の際には全てが返却し終えている、と言えるかもしれない。
いずれにしろ、非物質的で精神的な「持ちもの」も含めて全ては「借りもの」であると「自分」切り離すことで、「持つ者」が「持たざる者」に対する慢心を起こすことは無くなる。
つまり、いかなる愚かな人に対しても、自分が慢心を起こすことが無くなる。精神的に貧しい人は「持たざる者」で、精神的に豊かな人は「持つ者」で、そのように人が分かれるのは必然ではあるが究極的には「理由がない」のであり、理由がないことに対し慢心が起きることも無いのである。
現在の私は、出来るだけ非物質的で精神的な「持ちもの」を増やそうとしているが、それは以前の自分が「持ちもの」を増やそうとしなかったことに対する後悔と反省があるからである。しかし私の「出来るだけ」には限界があるし、上には上がいるのも当然である。
なぜ以前の私は「持ちもの」を増やそうと思っていなかったのに、今はそれを後悔して「持ちもの」を増やそうとするのか?と言えば、究極的には「理由が無い」のである。人の欲望は理由もなく人それぞれで、理由もなく気まぐれに変化する。
だから物であっても、お金であっても、社会的な地位や名声であっても、非物質的な知識や精神性であっても、人間はどうしても「持つ者」と「持たざる者」に分かれるのであり、その分布が存在する。そこにいかなる慢心が起きる余地もなく、ただその様を観察し認識するのみであると言える。
これはあくまで一般論であって個々の事例はまた別だと言う前提ではあるが、東日本大震災に伴う原発事故について、福島県内の浜通りと中通りの被害に遭った世帯は東京電力から多額の補償金を得ているのに対し、風評被害を受けた会津の人々は補償金を突っぱねて耐え凌いだという話を地元の方から伺った。
また能登半島は、首都圏から離れた半島で、平地も多いことから原発を建てるのに最高の立地条件で、にも関わらず地元の人々は一致団結して原発を一基たりとも建造させなかった。つまり会津の人も能登の人も、地元意識が強く誇り高い人々は電力会社からのお金を受け取らず突っぱねている。
しかし、会津の人も能登の人も、誇りを持っている人は、どのようにしてか誇りを「得ている」。それは東京電力から補償金を「得ている」人と比較して、何ものかを「得ている」と言う点において同じなのである。
人は自分が「得たもの」によって変わってしまうのも事実だが、「得たもの」は「得たもの」であり「自分」とは切り離さなければならない。それでは「自分」とは何か?「持ちもの」によって変化し、時に慢心を起こし得るものが「自分」だと言えるかもしれない。