アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

言語・象徴・具体

言語を使う人間と、言語を使わない動物の差は何か?言語を使わない動物より、言語を使う人間の方が環境の利用率が高くなる。人間が環境に存在するあらゆるものに名前をつけることによって、そのものが利用可能になる。

 

ヒトの言語はウグイスのさえずりのように、親から子へと伝えられる。ウグイスの雛は親にホーホケキョと教わらなければ鳴くことはできない。しかしウグイスのさえずりは「ホーホケキョ」に固定されており、それ以外の鳴き方はできない。そしてウグイスのさえずりは親子の一対一の関係で伝えららる。

 

ヒトの言語は親から子への一対一の関係のみで教え込むものではない。言語は、親をはじめとするさまざまな大人たちが話すその関係性によって、子供に教え込まれる。

 

言語は誰にとっても「既製品」として存在している。人類のうち誰が言語を発明したのか?は歴史的な記録がなく確認しようもないからである。多くの人は「言語とは何か?」を知らないまま「言語の使い方」だけをマスターし、日々言語を使いこなしている。

 

例えばヒトとネコとを比較すると、言語を持たないネコより、言語を持つヒトの方が、環境の利用率が高い。実はネコをはじめとするあらゆる動物も、言語は持っていないが「象徴機能」を使って物事を認識する。

 

言い方を変えれば、人間以外の動物は、言語以外の多様な種類の象徴機能を使って物事を認識する。例えばある種の「臭い」が食物の存在を示すとすれば、その臭いは食べ物そのものではなく、食べ物の存在を象徴している。

 

人間も、言語以外の様々種類の「象徴」を利用して事物を認識している。この「言語以外の象徴」と言語とを区別することが「言語とは何か?」を知るカギの一つとなる。

 

つまりアフォーダンス理論に照らして考えると、「言葉に表すまでもないこと」が存在する。この「言葉に表すまでもないこと」は、言語を使わない動物も、ヒトも共有する「象徴」となっている。

 

アフォーダンス理論に照らして考えると、あらゆる動物が「重力」を感知するが、この重力は「言葉で言うまでもないもの」であり、あらゆる動物にとって自らの姿勢を確認するための「象徴」となっている。

 

「目」を備えたあらゆる動物にとって、「光」は言語とは異なる象徴として機能している。光は単体で認識されるのではなく、光と闇、あるいは光の強弱の「関係」によって象徴として機能する。室内に紛れ込んだ昆虫は、強い光を発する方向を象徴的に「脱出口」とみなしてそこに向かって行く。

 

だから室内に飛び込んだ昆虫は、脱出口と間違えて電灯やガラスが閉まった窓などに向かって行く。そのような際に、昆虫自身が「これは正しい脱出口ではないかもしれない」と気付いて別の脱出口を探すことは絶対にない。少なくともその限りにおいて、昆虫は象徴以外の「具体」を認識しないのである。

 

昆虫は認識の全てを象徴によって行い、一切の「具体物」を認識しない。昆虫は認識の全てを言語的に認識し、一切の具体を認識しない。昆虫は本に書かれた文字を読むように世界を認識し、文字に書かれた以外の具体を認識できない。だから昆虫の認識は紋切り型で、時として現実と合致しないエラーを生じる

 

哺乳類や鳥類は、人間に近いと言うことと、私がそれらの動物への観察と知識が不足して、判断が難しい。しかし昆虫が一切の「具体」を認識しないのであれば、人間は言語機能によって具体を認識するのではないか?つまり、人間の言語は、動物が普遍的に持つ象徴化機能の二重化なのである。

 

人間は言語によって象徴化機能が二重化している、そのために具体物を認識できる。ラカン用語を使えば、人間は象徴界が二重化しているため、想像界が生じている。すると具体物とは何か?

 

例えば、木に赤い実がなっているとして、この実の「赤色」は「赤」という言葉で言い当てるまでもなく、環境中の他の色彩から際立って認識される。これが西田幾多郎先生の言う「直接認識」だが、これは実に動物に普遍的な象徴機能だと考えられる。

 

鳥はこの実の「赤色」を食物の象徴として捉え、これをついばみ丸呑みする。人間は同じ赤い実を見て「赤色」と言う言葉を投げかけて二重の象徴化を行なう。同時に「これは木の実である」とか「枝先になっている」とか「人には渋くて食べられない」とか「この植物はピラカンサだ」など…

 

他の動物が成し得ない様々な種類の言葉をその同じ木の実に投げかける。赤い木の実に限らず、人間にとって「一つのもの」は、様々な別の言葉で表すことができる。そして多数の言葉を当てはめた、その言葉と言葉の間には「言葉に表し得ない領域」が不可避的に生じ、そこに「具体」が生じるのではないか?

 

あらゆる動物が種に固有の象徴機能を持っているとすれば、その象徴と象徴の間の「象徴化が不能な領域」が、あらゆる動物にとっての「具体」として立ち現れる可能性はある。動物をいわゆる下等から高等へと分類すると、昆虫などの下等動物は「象徴と象徴の間の領域」を認識せず、その判断は紋切りとなる

 

記号としての言語にも「具体」は含まれる。むしろ記号は一定の具体性の上に存在する。「あ」という字にも「A」という字にも、またそれを表す音声にも、一定の具体性は含まれる。我々が意味のわからない外国語を耳にする時、その音は言語として機能せず、音としての具体性として認識される。

 

我には読めない外国語の文字を目にする時、その文字は文字として機能せず、具体的な視覚として認識される。そのようにして言語の象徴性は、具体性によって支えられている。あらゆる動物にとって象徴性と具体性は、そのような関係として存在する。

 

いかに昆虫の反応が紋切り型であっても、昆虫が地面を歩くときはその地面の形状に応じて歩く。つまり地面の具体性に応じながら昆虫は歩く。その歩き方は、例えばゼンマイ駆動の車のおもちゃを地面に走らせるのとは違うのである。

 

ゼンマイ駆動の車とおもちゃを地面には知らせると、地面の具体性に全く対応せずに、文字通り完全に紋切り型の走りをする。だから進路の先にに石が落ちていたとしてもそれを避けることなく激突するし、水たまりや穴があってもそこに突進する。昆虫の歩行はそのような「紋切り型」ではない。

 

昆虫の歩行を考えるのに、人間の、自分自身の歩行を考えることは有効である。なぜなら人は、虫のように歩行するからである。人間が歩くときは言語を使わないで歩く。人間は歩く時に足の動かし方を言語で言い当てながら歩いたりはしない。

 

人間は言語を介さずに歩行するが、むしろ人間の歩行の仕方を言語で言い当てるのはかなり難しく、それで「歩行するロボット」の開発も難しいのである。

 

人間はどのようにして歩くのか?実は人間の足をはじめとする歩行システムは、地面の具体性を象徴的に捉える機関として作動しているのではないか?人間の歩行システムは、地面の具体性から象徴性を抽出し、その機能が地面の具体性に応じた歩行を可能にしているのである。

 

つまりそれは、人間の言語の具体性から、象徴性を抽出して認識する機能と同じだと考えられる。