アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

卓越したエンドユーザー

 

 

現象学的に言えば、全ては自分の主観のうちに生じた現象であるが、他者にもまた自分と同様の主観を有し、その主観にもまた同様の現象が生じているように、自分の主観のうちに現象している。

 

これは人間以外の動物も同様で、動物個体はそれぞれに主観を有し、その主観にそれぞれ固有の現象が生じているように、現象していることが観察できる。

 

人も動物も、それぞれの主観に固有の現象が生じいる。しかし、各自が別々の夢を見ているのではなく、多くの人や動物があたかも同じ夢を見ているように、反応する。それは人や動物たちの反応を観察することで、判断できる。

 

人や動物たちは共通の夢を見ているようでいて、その夢は同時に様々な面で異なっている。つまり人を含めたあらゆる動物に普遍的に共通する「同じ夢」が存在し、それがアフォーダンスと呼ばれるものである。

 

人も動物も「現実」を直接認識することができない。これがラカンの《現実界》の一つの意味である。人や動物が認識する世界は「現実そのもの」ではあり得ない。なぜなら同じ現実を目の前にしながら、それぞれが主観的に受け取る現実のありようは異なっているからである。

 

ラカンの《想像界》《象徴界》《現実界》のうち《想像界》とは何か?はなかなかに難しいが、一つには「ユーザーインターフェース」だと考えられる。つまり与えられた道具を説明書通りに使用する世界が《想像界》であり、その意味で何のクリエイティビティもそこから生じることはない。

 

象徴界》とはエンジニアリングの世界である。あらゆる動物のうち《象徴界》を対象化して認識できるのは人間であり、そのうちのエンジニアだけである。

 

想像界的なユーザーインターフェースを超えた向こう側の《象徴界》を対象化し、これを操作することでクリエイティビティを発揮するのが、最も広い意味での《エンジニア》だと言える。

 

いや、「想像界=ユーザーインターフェース」であると、あらゆる生物にとってそうであるとは言い切れないかも知れない。人間のインターフェースは他の動物に比べて特殊であり、つまりスマホやパソコンのようにデフォルトが存在しないと同時にユーザーが自由にカスタムすることが前提となっている。

 

人間のユーザーインターフェースのカスタムの自由度において、人間に固有の《想像界》が生じるのではないか?

 

有り体な言い方における「自由な想像」とは何か?その反対を考えると分かるかもしれない。例えば言葉で決められたことを解釈の余地なく遂行するお役所仕事に「自由」はなく、そのような自由を許せば役所の仕事は成立しない。

いやそうではなく、主観的に「自由だ」と思っている大多数の人々も自分に固有の考えに囚われており、 その意味で自由ではない。いやそれを言うのであれば、自由には二種類があって、一つは「自由だと主観的に思うこと」であり、もう一つは「真の自由」である。

 

そして「主観的自由」は人に快楽をもたらすのに対し、「真の自由」は人に苦労をもたらす。つまり「主観的快楽」とはユーザーインターフェースの問題であり、エンドユーザーは常に快楽を求める。

 

これに対し「真の自由」はエンジニアリングの領域であり、エンジニアは真の自由を追い求めて苦労を背負い込むのである。

 

後発のエンジニアはリバースエンジニアリングから始めることになる。リバースエンジニアリングを行うにはユーザーインターフェースに惑わされてはならない。ユーザーインターフェースを説明書通りに操作している限りは、何のエンジニアリングも行うことができない。

 

私は学生時代に漫画家になりたいと思ったこともあったのだが、当時は漫画のユーザーインターフェースに呑まれてしまい、リバースエンジニアリングが出来ず、結局は漫画が描けなかった。当時の私は「才能論」に取り憑かれており、漫画に限らず全ての創作物は才能の産物であると信じていたのであった。

 

若い人は才能論に陥りがちではないかと思うのだが、実際に天才的才能と言えるものは、多くの場合若い人に見られるのである。しかし若者の才能とはエンジニアリングではなく、卓越したエンドユーザーに過ぎず、その意味での限界があるのではないか。

 

私の中学の同級生「田中くん」は天才的才能の持ち主で、何の専門教育を受けていないにもかかわらず絵が上手く、漫画も描き、難解な哲学書を読みこなし、自らの思想を記した『大衆論』を自費出版したのだが、結局は中学卒業後しばらくして精神病院に入れられたまま現在に至っている。

つまり、若い頃の私から見て「田中くん」はまばゆいばかりの天才的才能の持ち主に思えたのだが、今から振り返ればその才能はエンジニアリングではなく、卓越したエンドユーザーに過ぎなかった。

 

「田中くん」は結局のところ自らのユーザーインターフェースに囚われて、哲学書を読んでもエンジニアリングとしてその向こう側に突き抜けることができなかった。そのため大風呂敷を広げた割には現実社会に適応できず、精神病院で一生を終えることになったのである。