アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

原始時代のエリート集団

優劣の問題は素直に、そして真剣に考えなければならない。にも関わらず、近代においては価値の逆転、優劣の逆転の思想が根底にある。これに無自覚に引っ張られると、優劣の判断が正常にできなくなる。

「優劣」とはなにか?を改めて考えなければならない。最も根源的に考えれば、過酷な自然環境にあって劣った個体は生き残ることができない。優れた個体のみが生き残り、子孫を残し、種が保存されて行くのである。また劣った種は淘汰されて、優れた個体のみが生き残る。

どのような生物が優れているのか?と言えば、過酷な状況において生き残った生物が優れているのである。

過酷な状況においては優れた個体だけが生き残る。逆に言えば、状況が過酷でなければ優れてない個体も生き残ることができる。そのようにして安全で安定した環境において生物個体は数を増やす。

自然環境がいかに過酷であるかは、私自身のささやかな自然観察からも垣間見ることができる。私は以前、国分寺市内に残された雑木林に生息するイモムシを数種類採集し、どんな成虫になるか確認しようとしたことがあった。すると育てているイモムシのうち半分以上がガにならずハエかハチになってしまった。

つまり雑木林に生息するガやチョウの幼虫の半数以上が、寄生バエや寄生バチの幼虫に寄生されているのである。現代医学は人体から寄生虫を遠ざけてしまったが、先日の脱北兵の例を見てわかる通り、本来人体にも寄生虫はたくさんいる。

自然環境は外部から襲いかかる目に見える天敵の他に、内部に寄生する見えない天敵が多数存在する過酷な環境なのである。その他に猛暑や極寒や乾燥などの気候変動や、山火事や津波などの自然災害によって、多数の生物が死んでゆく。

このように過酷な自然環境のなかを、文明以前の原始時代の人間は生き延びて来たのである。原始時代の人間は十数人から百数十人程度の血縁集団で生活し、それ以上に人口は増えなかった。原始時代において、弱い個体、劣った個体は自然環境の過酷さに耐えられずに死んでいったのである。

その意味で、原始時代の人間は、エリートの集団であったと言えるかも知れない。現代においてエリートは「試験」によって選別されるが、原始時代のエリートは、生き残った者がエリートであり、優れた人間なのであり、それほど「明白」な事実はないと言える。

人間は最も高等な動物であるが故に個体による能力差も大きい。だから過酷な自然環境を生き延びて来た原始時代の人間は、まさにエリート中のエリートだったのである。

ところが原始時代から文明時代へと移行すると、環境の過酷さが格段に緩和され、食物の供給も農業によって安定し、エリートではない劣った個体も生き残れるようになった。そのような環境変化の中で「エリート」のあり方も変わって来たと思われる。

人間の優劣を見抜くのは難しい。しかし原始時代においては生き残った人間が優れていると言うことはできる。しかし環境の過酷さが緩和され、食物の供給が安定した文明社会において、人の優劣はどう見極めるのか?

一つには互いに喧嘩をさせれば、どちらがより強く、従ってより優れた人間であるかが明らかになる。私はちょっと前、プロレスラーの前田日明がプロデュースした『アウトサイダー』という街のチンピラなどをリングに登らせて戦わせるイベントのビデオを何本か見たのである。

アウトサイダー』の場合、その勝敗はアートコンペの結果に比べて格段に明確で、「主観による違い」が関与する余地が格段に少ない。それでどのような人が強いのかと言えば、単に腕力が強いだけでなく、腕力を扱うテクニックに優れた者が強い。

そして、腕力だけの馬鹿より、知的に作戦を練りながら戦える人の方が強い。喧嘩自慢の街のチンピラより、プロに指導を受けながら地道に練習を重ねた人の方が強い。

結局のところ、街のチンピラがリングに上がって一発でKOされ、その恥辱をバネにジムに通って一生懸命練習して、格闘家として徐々に強くなって行く…という若者の成長物語が、『アウトサイダー』の面白さだったりするのだが。

ともかく人間が素手の暴力で戦ったとしても、腕力だけでなく知力があった方が強いし、人格力が上の方が強い。人格力とは大人であるということで、人格的に子供ではいくら腕力があっても大人には勝てない。大人には精神の強さがあって、子供にはそれが無いから子供だと言われるのである。

それでは『アウトサイダー』の優勝者がもっとも強くてもっとも優れた人間か?と言えばもちろんそうではなく、その上にプロ格闘家の世界があるし、どのように強いプロ格闘家であっても「実戦」においては警察や軍隊の力には及ばない。近代国家において暴力は国家に預けられ一元管理されているのである。