アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

言語とは翻訳である

前回は聖書を引き合いにして、全ては言語であるという話をしましたね。

youtu.be


新約聖書ヨハネ福音書ですね。

で、もう一回ね冒頭を読んでみますけども、

初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。この言葉は神と共にあった。万物は言葉によってなった。なったもので言葉によらずになったものは何で一つなかった。


ということなんですよ。

ですから今私が喋ってる言葉、人間が喋ってる言葉がだけが言葉ではなくて、この世のあらゆるものが実は言葉であると。

聖書の解釈によるとそうなんですよ。

で思い返すとですね、思い返すとっていうか、私が何度も取り上げているヴィトゲンシュタイン論理哲学論考ですね。

論理哲学論考は、世界というのは論理空間の中にあるんだ、というふうに述べてるんですね。

だからそれっていうのは、聖書のヨハネ福音書の言葉と重なるんですよね。

だから「万物は言葉によってなった。なったもので言葉によらずになったものは何で一つなかった。
」ということですね。

そして「初めに言葉があった」と、つまり全ての前提、世界そのものの前提に論理空間があるんだと。

そういう風にして言語というものを捉え直すことができるんじゃないのかな、という風にして思ったんですね。

それで結局、世界そのものが言語なんですよね。

でそれを人間は、人間の言葉に置き換えて認識していくんですよ。

ですからそれが「翻訳」ということなんですね。

だから英語を日本語に翻訳するように、世界を翻訳しながら人間は読んでいく、認識していく、ということなんですよ。

人間というのは目に映るもの、耳に聞こえるもの、あと皮膚で感じるものですね、それを次々に言語に置き換えながら認識をしてしている訳ですよね。

だから「今日は晴れてますね」とか、「空を見上げると青空がある」とか、「地面には道があります」と、「私は今は道を歩いています」、という風にして言語に置き換えて物事を認識すると。

でも人間が言語に置き換えて認識する以前に、世界というものはそのものとして存在するわけですよね。

世界がそのものとして存在するということは、これは言語として存在するということを前回の話で述べた訳ですよね。

そもそもあらゆる生物が何らかの形で世界を認識しながら生きているわけで、そうするとあらゆる生物がその種に固有の翻訳の仕方で世界を認識していると。

翻訳しながら世界を認識していると。

だから生物の身体というのは、人間の身体もそうですけれども、種に固有の翻訳装置なんですね。

だから猫には猫に固有の翻訳の仕方がある訳ですね。

世界を翻訳するわけですよ。

どのように翻訳するかって言うと、動物にとって一番重要なのは餌ですからね。

そうすると猫にとって何が餌なのかという「これは餌だ」っていうふうに翻訳しながら世界を認識するわけですよね。

お魚くわえたドラ猫♪、って歌ありますけども、魚であるとかね、ネズミであるとかね、そういうものは食べ物として認識されると。

認識されるっていうのは、まそのようにして翻訳される訳ですよね。

翻訳っていうことはだから猫は猫で猫の言語体系を持ってる訳ですよね。

人間の言葉とは違いますけども、黙して語る言語ですね、そういうものを猫は持ってると。

そうするとウマとかヒツジとか、草食動物の言語とは違う訳ですよね。

言語というか、翻訳装置としてのヒツジっていうのはそもそも歯の構造が違う訳ですよね。

肉食動物というのは犬歯が発達して歯が尖ってますけども、草食動物っていうのは臼歯が発達していて、草をすり潰すようにできてる訳ですね。

その身体の構造自体が翻訳装置なんですよね。

ウシは消化しにくい草を食べるため、胃が四つもあるんですよね。

で、そのウシが四つ胃を持っているということ自体が翻訳装置なんですよ。

それは人間の翻訳の仕方、胃が一個しかないですから、それとら違う訳ですよね。

人間はだって牧草をそのまま、生のままモシャモシャって食べられない訳ですよね。

そういうことで翻訳の仕方が違うんだと。

そうやって動物種によって翻訳の仕方が違うんですけど、人間というのは「言語」というツールを使って翻訳するところが他の動物と違うわけですね。

言語っていうか「ヒト言語」ですね、ヒトに特有の言語ですね。

でヒトに特有の言語の特徴というのは可塑性がある訳ですね。

だから自由に変えることができるというか、有り体に言うと動物の言語というのは、翻訳装置というのは固定されている部分が大きいわけですよね。

固定されている、つまりはいわゆる本能ですよね。

人間もかなりの部分が本能に縛られているという、そういう話も以前にしましたけども、でも格段にその他の動物に比べると可塑性があって、それで人によってずいぶん違う訳ですよね。

同じ人でも子供から大人になるに従って違ってくるし、原始人と古代人とね、中世の人と現代人では
やっぱり言語のあり方、翻訳のあり方がずいぶん違うんですよね。

そして地域によっても違うし、同じ現代人で、同じ地域に依っている人の間でもずいぶん違う訳ですよね。

で結局、哲学的な営みっていうのは何かって言うと、翻訳もなるべく原語に近づけていくというね。

つまりけっきょく翻訳の場合っていうのは、例えば英語から日本語に翻訳をするにしても、百パーセントの翻訳はできないんですよね。

だからどうしても日本語風にアレンジしてしまうと。

その逆もあるし、例えば日本語の俳句っていうものは、正確に英語で俳句の味わいとかニュアンスとか、そういうものも含めて英語に翻訳することっていうのができない訳ですよね。

そういう翻訳の限界があるんですけど、同じように、同じようにっていうかもっと差があるんですけども、ウィトゲンシュタインというところの論理空間そのものですよね。

人間の言語に先立って存在する論理空間そのものですね。

それは要するに、人間には認識不可能な世界なんですね。

それはジャック・ラカンが言うところの「現実界」というもので、人間というのは現実を見たり聞いたりしているようでいて、実は人間の身体を通してものを認識してる訳ですよね。

だから結局ものを見ると言ったって、人間の目の構造に依存している訳だし。

今冬で、今年の冬寒いですけどね、「寒い」って感じるっていうのは結局人間の身体がそういう温度に耐え難いっていうね、そういう構造になってるから、そういう風にして感じる、それがまさに翻訳装置としての身体なんですね。

翻訳装置としての身体という限界があるので、世界そのものを「世界そのもの」として、つまり「論理空間」としてダイレクトに認識することは不可能なので、だから翻訳なんですね。

でも翻訳っていうのは百パーセント元の言語をトレースすることはできない訳ですよね。

で結局だから誤訳をしてしまうと。

だから厳密に言うと翻訳というのはどこまでも誤訳するしかないのであって、近似値でしかないんですね。

で、その近似値を近似値でありながら、なるべく原語近づけていこうというのが、哲学のあり方だと言えるんじゃないのかなと思うんですよね。

だから分かりやすい例で言うと古代ギリシャソクラテスですが、当時の都市国家アテナイの知識達にさまざまな問答を仕掛けて、「結局お前ら何も知らないじゃないか」って「知ったかぶりしてるだけだけじゃないか」って次々に論破していったわけですけど、それっていうのは結局みんな真実を言葉で言い当てたようなことを言っていて、それは全部ことごとく「誤訳」じゃないかと、翻訳として外れていると、そういう風に指摘したわけですよね。

で翻訳として外れているという指摘自体が、翻訳としては割と近似値としてはかなり本質に近いと。

だからこそ哲学だと、哲学の祖であるとソクラテスはね、そういう風にして言われていると思うんですけども。

ですから人間だけが言葉を喋って、動物というのは言葉を喋らないんだと、そういうふうに言うよりも、ウィトゲンシュタインのように世界は論理空間の中にあるんだと、そういう一見突拍子もないことを言ったほうが、真実に近い、翻訳としてはより近似値を言い当てていると、そういう風に言えるんじゃないのかなという風に思うんですね。

だから結局、人間が話す言語、人間が使う言語ですね、話すというよりも認識としてのツールとしての言語ですね、これっていうのは本質的には翻訳なんだと。

だから我々は世界を翻訳しながら認識すると。

認識するっていうのは翻訳することで、翻訳っていうのは近似値なんだということなんですよ。

あとね他にもちょっと話そうと思ったことがあるんですけども、今回はこの辺で終わろうと思います。