アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

言語と区別

「自然な感覚」に於いて「言葉」と「物」は区別されるが、現象学的還元に於いて「言葉」と「物」は共に精神現象として区別されない。また、自然な感覚に於いて現実と空想は区別されるが、現象学的還元に於いては現実と空想は共に精神現象として区別されない。

物は目の前の現実世界に実在するのではなく、物は目の前の現実世界に実在するように疑いもなく感じられるような、精神現象として存在する。物の存在は疑い得ないが、物の存在は「物の存在は疑い得ない」と言う精神現象として疑い得ない。

物は物特有の精神現象として存在する。物については、物の精神現象としての特有性に惑わされることなく、それが精神現象であることを見抜かねばならない。

物の精神現象としての特性の一つは、物があたかも精神現象とは異なる存在であるかのように区別されて認識される事であり、その「区別」に惑わされてはならないのである。つまり物はその他の精神現象と区別されずに、分け隔て無く精神現象として認識されなければならない。

自然的感覚に於いては、精神現象は現実的存在物から明瞭に区別されている。つまり現実とは異なる空想や、物に還元できない感情や、言語の組み立てによる概念世界が精神現象だとされる。

あるいは「言葉と物」の関係を述べる場合、その物が何であるかを指し示す「言葉」は精神現象であり、「物」そのものは精神現象の外部の現実世界の存在であると認識される。しかしこの認識は「素朴な実在論」であり、実在と非実在という「区別」こそが錯誤であり錯覚なのである。

人間は錯覚の中を生きている。例えば人間は自分があたかも「自分」であるように錯覚し、同時に自分が「人間」であるように錯覚している。しかし真実は、自分は「自分」ではないし、自分は「人間」でもないのである。すると自分は何者なのか?少なくとも「素朴な結論」の全ては錯覚に過ぎない。

感覚器官を持つあらゆる生物は「素朴な結論」の世界を生きているのであり、それは人間も例外ではない。精神現象から「物」や「現実」が区別されるのは「素朴な結論」であり、それは動物としての人間に特有の認識の形式だと言うことが出来る。

西田幾多郎の言う「純粋経験」とは、精神世界を現実世界とを区別する、その「区別」のない認識を指している。フッサール現象学的還元に従うなら、精神現象が物理現象と区別されることなく、物質や空間などを含む全てが等価に精神現象として、総合的に認識される。

つまり素朴な認識は、ありとあらゆる「区別」に基づいているのであり、それによって総合性を欠いていおり、断定的で断片的なのである。

「区別がない」のだとすれば、実在する「物」に対し非実在的な「言葉」を当てはめることによって「認識」という精神現象が生じるのではなく、「物」そのものが「言葉」なのであり、「物即言葉」なのであり、このことをよく見極めることによって「純粋経験」や「現象学的還元」が成立するのである。

「区別がない」と言うことは、即ち純粋経験としての総合性に於いては区別とは異なる区別が存在するのである。

ソシュールの「言語の恣意性」とはまさにその事で、「言語」と「言語でないもの」を区別するのではなく、全てを「現象」に還元したところで、「言語」と「言語でないもの」を区別するのとは全く異なる「区別」が生じるのである。

つまりソシュールの「言語の恣意性」は、「言語」と「言語でないもの」の区別とは異なる区別、すなわち「言語」と「言語でないもの」を共に「言語」として区別しないことによって生じる新たな「区別」が存在することを示している。