アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

始原性と関係性

昔一度読んだきりの新約聖書を改めて読んでますが、キリストは非常に過激な人物で、現在の感覚に照らしても常識に反する事をことごとく言い放つのでドキリとするし、刺激的で面白いです。

現代において聖書を読む意味はなんでしょう?聖書を読めばたちまちキリスト教にかぶれてしまうと思い込む人もいると思いますが、そんな事はもちろんありません。現代において聖書を読む意味は、カラー写真の時代にモノクロ写真を撮る事と、ある面では似ています。

モノクロ写真しかなかった時代にモノクロ写真を撮る事と、カラー写真が当たり前の時代にあえてモノクロ写真を撮ることは違います。同じように、キリスト教しかない時代に聖書を読むのと、様々な宗教が存在し、しかも宗教そのものが時代遅れとされる現代において聖書を読む事とは違います。

カラー写真が当たり前の時代にモノクロ写真を撮ると、カラー写真との比較においてモノクロ写真が対象化されます。いやモノクロ写真しかない時代でも、それはカラーの絵画との比較によって対象化できたと言えます。それでは、絵画しかない時代の絵画と、写真以後の絵画ではどうでしょう?

絵画しかない時代の絵画と、写真登場後の絵画とは意味が違います。写真以後の絵画は、写真との比較によって、絵画そのものが対象化されるのです。同じように近代以後のキリスト教は、他の宗教との比較によって、また哲学や思想や科学との比較によって対象化されるのです。

私が数年前に初めて新約聖書を読み始めた時は、正直あまり意味が分からなかったのですが、同時に初期仏典『ブッダの言葉』や『孔子』などの諸子百家古代ギリシャ哲学のプラトンなども読むようになり、その比較によって新約聖書の意味が徐々に立ち現れてくるように思えたのです。

 

イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。マタイ 9:22

 

「イワシの頭も信心から」と言われるアニミズム的信仰と、キリストへの信仰は異なるのす。キリストは、イワシの頭とどのように異なるのか?言語論的に「イワシ」も「キリスト」も言葉として言語の恣意性により、根拠がありません。「イワシも頭は信心から」とは言語の恣意性を示した真実の一面ではあります。

個々の言語(単語)は恣意的に名付けられますが、言語と言語と関係性において、言語は機能します。ですから「イワシの頭は信心から」は言語の始原をしてしますが、意味が立ち現れるのは始原の後の関係性においてであり、だから新約聖書のマタイによる福音書には、冒頭に下記のようなキリストの系譜が記されているのです。

1:1アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。
1:2アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、 1:3ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、エスロンはアラムの父、 1:4アラムはアミナダブの父、アミナダブはナアソンの父、ナアソンはサルモンの父、 1:5サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、 1:6エッサイはダビデ王の父であった。
ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、 1:7ソロモンはレハベアムの父、レハベアムはアビヤの父、アビヤはアサの父、 1:8アサはヨサパテの父、ヨサパテはヨラムの父、ヨラムはウジヤの父、 1:9ウジヤはヨタムの父、ヨタムはアハズの父、アハズはヒゼキヤの父、 1:10ヒゼキヤはマナセの父、マナセはアモンの父、アモンはヨシヤの父、 1:11ヨシヤはバビロンへ移されたころ、エコニヤとその兄弟たちとの父となった。
1:12バビロンへ移されたのち、エコニヤはサラテルの父となった。サラテルはゾロバベルの父、 1:13ゾロバベルはアビウデの父、アビウデはエリヤキムの父、エリヤキムはアゾルの父、 1:14アゾルはサドクの父、サドクはアキムの父、アキムはエリウデの父、 1:15エリウデはエレアザルの父、エレアザルはマタンの父、マタンはヤコブの父、 1:16ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。
 

つまり「イワシの頭も信心から」は言わば無根拠から立ち現れる根拠で、これに対しキリストは関係性(系譜)による根拠を有しています。

呪術の場合「何を信仰の対象とするか」は言語の恣意性に基づき根拠がありません。これに対しキリストへの信仰には言語の関係性による根拠が存在します。つまり宗教の場合は「何が信仰に値するか」という信仰者の「見る目」が問われるのです。ゆえに新約聖書とは「見る目」が無い人々への批判なのです。

全てを知る事ができない自分が、何を信頼すべきかという「見る目」を持つ事、これが「イワシの頭も信心から」という意味での呪術にはなく、キリストへの信仰にあるもので、それはソクラテスやブッダや孔子に対しても、同じ事が言えます。

私の「非人称芸術」は言語の恣意性に依拠した創造性でしたが、それ故に始原的ではあっても関係性を構築できず、そういうものでしかありませんでした。つまり、私が延々路上を歩き回っていたのは、単なる消費だったのかも知れません。

始原性と消費とはどのような関係にあるのか?「記憶力が無いので何度でも楽しめる」という土岐小百合さんの言葉のように、消費とは常に始原的ではないでしょうか?それは歴史的な始原を遡ることのない、恒常的な始原性です。

実際に「非人称芸術」とは歴史の捨象であり、意味の捨象であり、そのことにより私は新たな意味を出現させようとしたのです。それは結果として消費の構造と似通っていたのです。

「非人称芸術」のコンセプトに忠実であろうとすれば、作品は否定し作らず、ただ街を歩くだけのはずなのです。かし私はこれに反し「フォトモ」という作品を作らざるを得なかったのでした。「非人称芸術」の純粋化を、提唱者である私自身が徹底できなかったのです。