アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

現象と協調

自分が存在している「世界」は自分一人で生じさせているのではなく「他者」との協調によって世界はつくられるのですが、他者とは「現在の自分」とは異なる「過去の自分」の類似物として、世界のうちに現象するのです。「現在の自分とは異なる過去の自分」と、「自分とは異なる他者」は似ているのです。

「自分」とは現象です。脳科学者の左脳が脳溢血で機能停止しても、「自分」という現象そのものが消滅することなく、脳科学者は「変化する現象」を観察することが、「自分」という現象において可能だったのです。
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補虫網で補虫網を捕まえることは難しい。現象学とはそのようなものなのでしょうか?

まず何事にも先立って、「世界」が疑う余地もなく存在するという現象を、観察する必要があります。

人は自分がどのように体を動かし歩いているかを説明できないのと同様、世界がどのように妥当的に存在するかを説明できない。つまり人は歩行をマスターするように世界の妥当性をマスターする。いや、歩行のマスターは、世界の妥当性のマスターの一環であるのです。

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これは他人ごとではなく、脳溢血にならなくとも、すでに自分の脳にはなんらかの欠損が生じており、それはある程度観察することは可能なのです。脳の欠損の仕方は脳溢血以外、実に多様なのです。完治は不可能ですが、リハビリは大切です。

自分の脳の欠損は、実に甚だしいものがあります。なぜかと言えば、自分は生まれた時点で殆どの脳機能を欠損しているのであり、時間を掛けて欠損を埋め合わせるリハビリが必要となるのです。欠損の完治は絶望的で、また回復スピードに個人差がありますが、リハビリをサボると回復は確実にストップします。

判断中止に着手する際には、自我は必当然的に与えられているが、しかしそれは「沈黙した具体性」として与えられているのである。この具体性は解釈され言い表されねばならない。#フッサール

ファシズムの語源は「ファッショ=束」です。つまり人は誰でも「一人ファシスト」なのです。なぜなら「自分」とは様々な種類の要素を束ねた「束」として現象しているからです。大勢を一人の如く束ねるのがファシズムで、一人は元来「一人ファシスト」です。

慢心を起こしてはいけないし、かと言って自己評価を低し自分の可能性を殺すことはありません。実に、それが「法華経」の教えではないでしょうか?

教養主義の極限!として私の「非人称芸術」は提示されましたが、そこに矛盾がありました。なぜなら無教養主義は極限など突き詰めず、極限を突き詰めるには「教養」と言うツールが不可欠だからです。

芸術を自明化することは、模倣の芸術を製作することと同意です。

「芸術とはこういうものだ」と自明化すると、「こういうもの」の模倣に陥るのは不可避になります。