アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

空虚と充実

フッサールによると「空虚」とは「直感を伴わない」ということであり、その逆は「充実」です。空虚と充実の相違は、対象を現出させるかどうかであり、そして直感だけが対象の現出をもたらしうるのです。

結局のところ、多くの人は空論を振り回しているのです。空論とは、つまりは的中しない推理です。多くの人は的中しない推理で論じ合って、的中しない推理によって「世界」を認識するのです。

「的中しない推理」は人に「つもり」をもたらします。例えば自分が見てもいない事についてあれこれ論じる人は、自分がそれを「見たつもり」になって論じているのです。

推理にとって重要なのは証拠集めです。証拠とは観念ではなく「実際に見る」ことです。名探偵は「実際に見る」事を証拠としながらこれを集め、推理を的中させるのです。推理が的中しない名警部殿は観念を組み立てて理論的整合性を高め、そして実際には的中しないのです。

世の中には実に多くの「推理マニア」が存在します。推理マニアが愛好するのはあくまで「推理」であり、もっと言えば「的中しない推理=純粋推理」です。ですからそのような人たちに対し、推理を的中させて終わらせてしまったり、推理もせずに的中させてしまうと、嫌がられたに憎まれたりするのです。

直観と空虚志向。

 

高みから現象を論じ、勝手に構成するような真似はやめて、現象そのものをよく注視するようにして欲しい。#フッサール

 

例えば私が一方では生き生きとした直観によって赤を所有し、他方では象徴的空虚志向によって赤を思考しているとしよう。#フッサール

 

フッサールの言う「超越」とは何でしょうか?一つには自分の所有物でないものを、自分の所有物のように錯覚することが「超越」です。つまり自分の所有物が少ない人ほど、あるいは所有するための努力を怠っている人ほど、自分の所有物でないものを所有していると錯覚し、文字どおり我が物顔で語るのです。

フッサールによる「普遍者」とは、例えば個別の様々な在り方「赤色」に対し、それらに対応し共通する普遍的な「赤色」を意味します。そしたこの「普遍者としての赤色」は、私の認識世界に疑いもなく確かに「現象」し得るものなのです。

「普遍者としての赤」は、「私の存在」と同様、認識世界に疑い得ない明晰性として「現象」しています。

現象学とは「自分が持っているもの」だけに厳密に限定された学問です。例えば「自分が持っていないもの」について「自分が持ってるもの」と勘違いしようとも、「自分が持っていないものを、持っていると勘違いしている」という思いそのものは、確かに「自分が持っているもの」であるのです。

自分を信じる力は他人を信じる力に結びつきます。他人を見る目は自分を見る目に結び付いているのです。かつての私は自分を信じることが出来ずに、つまりフッサールが自分で読めるようになるとは信じられず、現象学の一般向け解説書を読んで満足していたのでした。

確認すると、私は『現象学の理念』を2011年に買って読んでいるのです。 http://ln.is/cocolog-nifty.om/kf4lk… 当時のブログによると、「難解すぎて全く内容が分からず、そのような本を読んで何の意味があるのか?という実験のつもりで読んでいる。」とありました(笑)

自分を信じ、師匠を信じ、先人たちを信じることができれば、修行に意味が生じます。自分を信じなければ、自分を超える他者の存在を信じることが出来ず、修行というものが始まらないのです。