アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

写真家と美術家

自分の肩書きについてだが、これまで私は「写真家・美術家」を名乗ってきたのだが、これからは「写真家」にしようと思って、先日『CAPA』誌でインタビュー取材していただいた際も「写真家」の肩書きにしてもらったのである。

それは写真の歴史を学べばわかる通り、写真とは系統発生的に美術の一分野であり、いわゆる前衛芸術に先駆けて、前衛芸術として登場したのである。だから「写真家」と名乗ることの中には、本来的に美術家であることと、前衛芸術家であることの意味が含まれるのである。

もちろん現に「写真家」を名乗ってはいても、美術家でもなければ前衛芸術家でもない人は大勢いるが、しかし「画家」や「彫刻家」を名乗ってはいても、美術家でも前衛芸術家ない人は大勢いるし、例え「前衛芸術家」を名乗ってはいても実質的に前衛芸術家とは言えない人も、これまた大勢いるのである。

写真が登場した当初の、写真の前衛性はどこにあるのか?と言えば一つには簡便で自動化された点であり、簡便と自動化は同一の意味である。

アラビアの光学が、人間の視覚は眼球の水晶体が網膜に像を結ぶ現象であることを突き止め、それをレンズとスクリーンを備えた暗箱(カメラオブスクラ)に置き換え、その知識がヨーロッパにもたらされ、写実絵画の描法が開発された。

すなわちルネサンス以降、ヨーロッパの画家たちはカメラオブスクラに「像」として映し出される現象を、手作業によって描き写していたのであるが、近代に登場した写真術は、同じくカメラオブスクラに「像」として映し出された現象を、化学的な処理により自動的に「画」に置き換え固定する術なのである。

そもそもルネサンス時代に登場した当初の写実絵画そのものが前衛だったのであり、写実絵画は光学や解剖学などを基礎としており、科学そのものが前衛芸術の基礎となっているのである。

それにしても「カメラ」とは一体何であろうか?カメラは写真術とともに登場し、カメラの発達により写真術は進歩したのである。カメラは初期の単純な暗箱から機械工作技術のフィルムカメラへと発達し、さらにはデジタルカメラへと発達し、常に前衛としてあり続けている。

ところがカメラが写し出す「写真」そのものはどうかと言えば、本質において進歩がなく前衛とは言い難い。と言うよりも、どのカメラメーカーは昔から共通して「普遍的正解」としての「写真」が撮れることを目指して、カメラ開発を行っているのである。

いやそれは、ルネサンス以来の西洋絵画が追っていた「普遍的正解としての写実絵画」のその理念を、カメラメーカーが引き継いだのである。そこで各カメラメーカーは、伝統的絵画の理想を実現するために、前衛的な技術を絶えず惜しみなく投入し続けるのである。

つまり「写真」の場合それを写し出すカメラが常に前衛であり続け、一方でカメラが写し出す「写真」はルネサンス以来の伝統を常に継承し続け、そのような分裂と役割分担が生じている。

そして写真術が登場して以後の絵画は、絵画作品そのものが「前衛」であろうとし、その点が「写真」とは異なっているのである。

写真術が登場して以後の絵画の前衛性とは、描写の高速化と伝統からの離脱である。描写の高速化は伝統からの離脱と同意であり、描写の高速化はルネサンス以来の伝統絵画とは異なる「筆触」を生み出すのである。

これは写真術が原理的に筆触を完全に除去し、その意味でルネサンス以来の絵画的理想を完全に実現した点において対照的だが、高速化という点においては共通性がある。