アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

空体語の世界

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写真家の湊雅博さんが企画する写真展『リフレクション』のリーフレットに書かれた、写真評論家の倉石信乃さんの文章を読んでみた。
この手の文章は、どうも一読しただけでは頭に入らない難解なものが多く苦手意識があったのだが、しかし今回はなんとか解読しようと意を決して、鉛筆で印など付けながら、じっとりと読んでみたのだ。
 
その結果分かったのだが、実にこの文章は「空体語」で書かれていたのである。
ここに書かれているのが「実体語」だと捉えると難解だが、「空体語」だと思えば意味はスッキリ通るのだ。
この文章が「空体語」で書かれているからには、それは一種の「免罪符」として書かれていることを意味する。
この文章によって、その中で指摘されたさまざまな問題点が、無効化されると言う効果を持ち、その為にこの文章はリーフレットに記されているのだ。
 
例えば上記拡大画像の左下、鉛筆で囲んだ部分に「解きやすい謎かけと拉致もない種明かしに終始する現代美術の作品構造」と書かれているが、これを文字通りの批判や反省として、すなわち「実体語」として捉えると、読みを誤ってしまう。
そうではなく、この一文の意味するところは、その書かれたこと自体が免罪符となり「解きやすい謎かけと拉致もない種明かしに終始する」ことが現代美術において許され、その問題を解決しなくとも良いことになる、そのことにある。

同じく、「「写真自体」をプラトニックに志向するさなかに罹患する筋弛緩と衰弱こそが最大の興廃をもたらすかも知れない」と書かれることによって、「写真自体をプラトニックに志向しながら、その事によって衰弱したり興廃しても、いっこうに構わない」ということにもなる。

そもそも『風景の復習』と題されたこの文章自体が、実のところ
「写真を抽象性へと押しやったまま、決まり切った口癖ばかりが群れ集う悪しき磁場」になっているように自分には思えてならないのだが、しかしそのように書き記すことによって、「写真を抽象性へと押しやったまま、決まり切った口癖ばかりが群れ集う悪しき磁場」という問題そのものが、無効化するのである。

日本人独特の語法に対し「空体語」という概念を当てはめたのは、山本七平なのだが、ぼく自身は日本人でありながらその「空体語」を全く体得できずにいて、随分といろいろなことが解らないまま苦労してきた。

逆に言えば、「空体語」は普通の日本人だったらそれとは意識せずに、自然と身に付いているはずの語法なのだ。
だから日本語の普通の語彙として「空体語」という言葉は存在せず、この言葉は「空体語」を身に付けることに失敗したぼくのような人間が、その概念を理解するために使う言葉なのである。

すなわち、「空体語」という言葉は空体語ではないのである。