アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

摂餌と認識

動物が餌を食べて体を維持するように、人間は物事を認識することで精神を維持しようとする。人間は精神を維持する為に物事を認識し、身体を維持する為に食物を摂る。

動物が餌を食べると、それは消化され身体の構成要素に変換される。同じように人間が物事を認識すると、それは消化され精神の構成要素に変換される。

例えば猫が魚を食べても魚のように泳げるようにはならないし、猫が鳥を食べても鳥のように飛べるようにはならない。つまり、猫が何を食べようともそれらは消化され、猫の構成要素に変換されてしまう。

人は大人になるにつれ、何を見聞きしようとも全て自らの常識を構成するための糧にしてしまうようになる。何を見聞きしても自らの常識は変わらず、何かを見聞きする毎に常識は堅固になってゆく。

人間は通常、猫が猫でいるために鳥や魚を食べるような、物事の認識の仕方をする。しかし本来人間には、猫が魚を食べれば魚のように泳げるようになり、鳥を食べれば鳥のように飛べるようになる、といった認識能力も備わっている。そのような子供の能力を失わないならば、人間は「何にでもなれる」。

多くの人は「認識すべきもの」と「無視すべきもの」を区別する。それはあらゆる動物が「食べられるもの」と「食べられないもの」を区別するのと同じである。動物が「食べられるもの」だけを食べ固有の身体を維持するように、人は「認識すべきもの」だけを認識しながら固有の「自分」を保とうとする。